-9-
見渡す限りの空。
太陽は落ち,青黒い色が天空を塗り潰す。
星は一つも見えず,辺りを点々とする雲が暗澹とした雰囲気を放つ。
その中を浮かぶ白の盃達は淡い光を灯していたが,次第にその一つが強い光を放ち始める。
零れる程の光は数秒経つ共に消えていったが,代わりに人影を生み出す。
「ここは,盃の間……?」
意識を取り戻したエスは,自分が盃の間にいることに気付く。
暗転した夜空に圧倒され,思わず左右を交互に見渡す。
警戒した彼は身体に異常がないことを調べようとしたが,そこで一つの異変に気付く。
傷が元に戻っている。
胴に触れて確認したが,それは何処の箇所も同じだった。
マコトとの戦闘で血を流していた筈の身体は,元の状態に戻り傷一つない。
火傷を負っていた筈の右腕も痛みはなく正常だ。
色々と思考が追い付かないエスは,盃を見つめながら,何故ここにいるのか思考を巡らせる。
マコトと別れた後,気を失ったハルを町まで運んだことは覚えている。
避難場所である広場へ辿り着くと,彼を見た人々が怯える声を出したが,どうにか敵意がないことを伝えた。
そして,抱えていた彼女の様子を診てほしいと頼み,軽い止血と汚れた衣服を整えた後,その場から立ち去ったのだ。
傷だらけの身体を見たジェルフやセイディは引き留めようとしたが,自分一人だけでは意味がない。
冷静になったマコトを連れてこようと広場を後にしたのだが,その後の記憶はない。
身体の件と言い,夢でも見ていたのかと錯覚しそうになった時,聞き覚えのある声が上から降ってくる。
「廃残体の気配はない。ハバグサ・マコト,これ程の力だったとは……やはり,間引きとして処理しておくべきだったか。だが,これで監視の必要はなくなった」
盃を見下ろす玉座にデウスはいた。
別のことを考えているのか,盃に現れたエスを無視して前方に浮かぶ雲を見つめる。
赤い瞳は以前と変わらず強い威圧感を放っていた。
何にせよ,この神が今の状況に関係していることは間違いないので,彼はデウスを問い質す。
「デウス,これはどういうことだ!?」
「来たか。だが,焦る必要はない。他と合流すれば,直ぐに全てを明かそう」
「他?」
デウスは彼を一瞥するだけだったが,疑問は直ぐに解消される。
空席となっていた幾つもの盃が光を次々と放ち始める。
突如起きた光に目を向けると,光の中から新たな人が現れた。
数は七人。
全員が白い盃の上へと呼び出される。
しかし正体は分からない。
現れた者達の姿は常に揺らぎ,背丈や性別が分からないよう隠されていた。
「な,何故この場所に?」
「……今度は何だって言うんだ?」
「デウス。そしてやはり,他にも対象者がいたのか」
「ここは!? 一体どこなの!?」
皆,同じように何故この場に呼び出されたのか把握していないようだった。
しかし,エスには一つだけ分かることがあった。
盃の間やデウスの存在を知っている素振り。
再びここに呼び出されたかのような言動。
彼らがただの人間ではないことは,この時点で察しがついた。
「まさか,他にも転移者が……」
「久しぶりだな,転移者諸君。私が与えた新たな人生はどうだろうか。皆,思い思いに満喫していることだろう」
突如デウスが口を開く。
暗闇の空全てを支配する威圧感が,呼び出された者達の声を押し黙らせる。
やはりこの転移は偶然ではない。
デウスに手によって,この場の転移者全員が盃の間に集められたのだ。
ただ,エスは一つだけ空席となっている盃が気掛かりだったが,それを考えるよりも先に話が続いていく。
「ここに呼び出したのは,他でもない。お前たちに,今この時点で,開戦を宣言しようと思う」
「開戦? 何の話だ? それに,こいつらは……」
影の一つがエスを含めた転移者を警戒しながら疑問を投げかけるも,玉座に座るデウスはそれを無視する。
巨大な両手が,盃達を包み込むように広げられる。
意味ありげな動作と共に空が唸り声をあげ,混乱していた場の空気が一変していく。
「皆,他の盃が示すように,既にこの世界で転移者が複数存在していることは理解してもらえたと思う。そして同時に,何故他に転移者がいるのか,疑問に思ったことだろう。その答えは単純。お前たち転移者には,これより,互いの生き残りを賭けた戦いをしてもらう」
「な,に……!?」
「いき,のこり?」
「戦い……? 何を馬鹿なことを……!」
言葉の意味が分からずエスは耳を疑うも,周囲の反応も全く同じだった。
生き残りを賭けた戦い。
確かにデウスはそう言った。
それを理解すると同時に,全身に悪寒が走る。
身に覚えのない痺れが正常な思考を奪っていく。
「参加人数は九人。行動範囲は全員が集結するリオディス国一帯。私が与えたその力で,最後の一人になるまで,他転移者の命を奪ってほしい」
「一体,何を言っているの……?」
頭の中では受け入れることを拒絶しながらも,デウスの言葉は全身を麻薬のように蝕んでいく。
全てを見下ろす神が強制したのは戦いだけではない。
この場にいる自分以外の転移者を殺すことにある。
畏怖される力を以って,命を奪い合う殺し合いをしろと言っているのだ。
「下らない。そんなことを一体誰がすると思って……!」
「そして,この戦いを拒否することも出来ない。万が一拒否し,あらゆる戦闘を望まない場合,私が与えた力が君たちの命を削り殺す。分不相応な力を持つとどうなるか,何れは理解することになるだろう」
ただの戯言と切り捨てる者もいたが,デウスが淡々と逃げ道を塞いでいく。
呆然とするエスは両手に宿った力を思い起こし,彼自身の手を見る。
全てを無効化にする波動,これが自分の命を削り殺す。
唐突に告げられた真実だったが,嘘だと決めつけることは出来なかった。
何故ならこの力を与えた者も,異世界への転移を行った者も,神であるデウスが行ったことだからだ。
全ての力に,そのような細工していても不思議ではない。
「無論,それは君たちの命と強く結びついている。自力で取り除くことは不可能だ」
「無茶苦茶だ。領地も,権利も,思想もない。そんな動機のない戦いを誰が……」
当然そんなことを言われて頷く者などいない。
今の言葉が仮に事実だったとしても,簡単に受け入れられる筈がなかった。
他の転移者も困惑や沈黙を示し,納得しているようには見えない。
だが,デウスは続けざまに真相を明かす。
そしてそれは,エスの行動原理を揺るがすほどのものだった。
「転移者同士の戦いは始まっている。既に転移者の一人,ハバグサ・マコトが死んだ」
「な……!?」
思わず声を漏らす。
他の転移者が反応していることにも構わず反論する。
「そんな……そんなことある筈が……!」
「場所はバベルの町,その外れにある草原地帯だ。無論,彼の死因は自然死ではない。戦闘による死亡,転移者によって殺されている」
デウスが明かした場所は,間違いなく二人が最後に戦った所だ。
身体が異様に重くなり,後ろに倒れそうになる衝動をエスは耐える。
ハルを抱えて町へ向かった時,彼は確かに生きていた。
会話も成り立っていた上に,彼自身一人にしてほしいと言う位には余力があった。
だがあれは見当違いだったのか。
彼の自覚のない所で,既に命に危険が及ぶ程の重を負っていたというのか。
エスはデウスから視線を外しある場所を見返す。
一つだけ空いた盃。
あれはただの空席ではなく,本来マコトがいるべき場所だったということを理解する。
「ハバグサ・マコト。あの暴れ馬が殺されたのか? 相当強いって話だったが……」
「神である私が保証しよう。だが,彼の死を決定づけたのは,明確なルール違反をしたからだ。お前たちは覚えているだろう? 私が警告したことを」
警告。
転移直前,デウスがついでとばかりに口にしたことが思い出される。
何気ない忠告が重大な意味となっていたことに気付き,エスはそれを自然と言葉にしていた。
「あの世界の人達に,危害を加えないこと……」
「そう。仮に転移者が異世界の住人を殺傷した場合,今持つ力は24時間封じられ,力で生み出されたもの全てが失われる。身体能力も低下し,文字通りただの人になる。今まで目を瞑ってきたが,ハバグサ・マコトは私の忠告を無視し,与えられた力を過信し過ぎた。その結果がこれだ」
エスは,あの場で起きた状況を推測する。
恐らく二人の戦いを看過できずに追って来たハルが,あの戦いに巻き込まれて傷を負ったのだ。
それが原因で,マコトはルール違反となり全ての力を失った。
ならば,突如あの世界が崩壊したことにも説明がつく。
そして,弱体化した彼の身体に渾身の力を叩き込んだのだ。
身体能力が人並みに戻った彼に,岩をも砕く一撃を与えればどうなるか,分からないエスではない。
否定したかった。
彼の死をこの目で見ていない限り,信じる訳にはいかなかった。
だが,転移者が集うこの状況で,身の潔白を訴えた所で誰も信用しない。
それどころか,マコトを殺した転移者として危険視されることは目に見えていた。
愕然とするエスは何も言えず,視線を足元に降ろすだけだった。
「分かっただろう? 既に戦いを容認し,他の転移者を殺した者がいる。そして,その制約を越え,全ての転移者を葬った者こそ,神となりあらゆる願いを叶える権利が与えられる」
「神……?」
「そう,お前たちの願望,その全てを叶える力だ」
デウスは右手で己の身体を指し示す。
まるで自分自身が願いを叶える存在であるかのように見せ,転移者全員の思いを引き寄せていく。
止まっていた暗雲が,少しずつ動き出した。
「何故,自分がこんな目に遭わなければならない,そう思っている者もいるだろう。だが,これは必然だ。お前たちが選ばれたのは,死の直前に抱いた貪欲な願いだ。何を犠牲にしてでも叶えたいと願ったその心が,この盃の間に集った。だからこそ,お前たちはこの戦いを拒絶しない。願いを叶える絶好の機会,お前たちは決して手放さない」
盃の間には,非業の死を遂げた者が集う。
それはこの場にいる他の転移者にも当てはまる。
エスには記憶がないため自覚はないが,マコトが生み出した世界があの有様だったように,この場にいる転移者達にも閉じられた世界がある。
己の人格と意志を形作るほどの強い束縛がある。
だからこそ,目の前に願いを叶える存在がいるのなら,手を伸ばしてしまう。
例え殺しを強制されたとしても,彼らはデウスの手によって,後悔の果てに死んだ身から蘇りを果たしている。
再び手にした命を無駄にする筈もない。
いつの間にか,頭ごなしに否定する者はいなくなっていた。
「なるほどな。言い分は分かった。だが,俺はそれに従うつもりはないな」
その中で,一人だけ異を唱える者がいた。
言動は男そのもので,先程から荒々しい態度を見せていた人物だ。
相手が神であることも意に介さず,あからさまな敵意を放っている。
状況が状況だけに,その対立が危険であることは分かっていながらも,誰も止めに入ることは出来ない。
デウスはその影に冷ややかな視線を向ける。
「この戦いを放棄する気か?」
「まぁ,命を拾ってくれたことには感謝するさ。でもな,お前の上からな態度にも,そろそろ飽きてきてなッ!」
すると突如その影が盃から飛び立つ。
「飛ん……!?」
向かう先は,玉座に座り転移者全員を見下ろしている神そのものだ。
余程自信があるのか,強制する物言いに我慢が出来なかったのか。
肉薄した影は,自分よりも二回りは巨大な神相手に渾身の蹴りを放つ。
「無駄だ」
だが,デウスの周囲に張り巡らされていた不可視の壁によって攻撃は阻まれる。
閃光のように突進した影は,その壁によって呆気なく弾き飛ばされた。
弾かれた転移者は上手く元の盃へと戻るが,睨み据えた態度は変わらない。
手ごたえがなかったことに,苛立ちを覚えているようだった。
「誰がお前達に力を与えたと思っている? 神である私が,お前達に無償の力を与えたと,本当に思っていたのか? 全ての力は私の支配下にある。どのようなことをしても,私に傷を与えることは出来ない。それでも拒絶するというのなら,その力に呑まれ自滅すると良い。それで,お前の願いが叶うのならば」
「チッ……!」
神が手を下すことはない。
デウスにとって,この場の転移者など取るに足らない存在なのだ。
そんな者のために力を振るう意味はない。
そして,蹴りを放った彼にも叶えたい願いがあるのだろう。
舌打ちをするだけで,それ以上歯向かう真似はしなかった。
代わりに,経過を観察していた別の影が問う。
「始めから仕組まれていた,ということか。ならば,聞きたい。私たちが争うことで,一体何が残る? 得になるようなことは一つも見当たらない筈だ」
「私は無意味なことなどしない。これは双方にとって必要不可欠なことだ。双方にとって,な」
「双方……やはりあの研究が……被験体……しかし……」
何か独り言を呟いていたが,全ては聞き取れなかった。
そしてそれを問い質す者もいない。
エスは顔を上げ,焦燥のまま他の盃達を見澄ました。
状況は,既に変わっている。
圧倒的な力を持つ神相手に敵対や拒絶は不可能。
力を与えられた時点で戦う以外の選択肢は残されていない。
全員表情こそ分からなかったが,戦いへの意思を固めているように見えた。
「これ以上,私が語ることはない。皆,己の望みを叶えるため,死力を尽くすと良い。そしてこれが,神の慈悲であることを忘れないでほしい」
「デウス……!」
もう元の世界に帰ることは出来ない。
エスは苦し紛れに声を振り絞るも,次の瞬間全身から浮遊感が襲い掛かる。
足元を見ると全ての盃が光に包まれている。
あの時と同じ転移術式だ。
何かを言うよりも先に,身体の感覚がなくなっていく。
神へ問いかけをすることすら,今の転移者には許されない。
「では転移者の諸君。健闘を祈る」
賽は投げられる。
デウスの声と共に,八人の転移者が一斉に異世界へと再転送された。
●
「マコトッ! いないのか!? 返事をしてくれ!」
バベルの町外れ,その草原地帯。
意識を取り戻したエスは,全身の傷が戻っていることに気付く。
しかし,そんな事実や戦いを受け入れることよりも,先に確かめなければならないことがあった。
ハバグサ・マコトの生死。
デウスが言ったことが真実なのか,死に場所として明言された草原を駆けまわり,その痕跡を探した。
心の中で必死に否定しながら,エスは何度も声を上げて返事を求めた。
だが,マコトの姿は何処にもいない。
戦った跡は至る所に残されているが,それだけだった。
流れた汗が傷口に染み,軽い痛みを発する。
日は完全に落ち,冷たい夜の風が身体を吹き抜けた。
「本当に,死んでしまったのか?」
遂に立ち止まったエスは,彼の死を確信する。
死体がない理由は不明だが,デウスがあの場で嘘をつく理由もない。
他の誰でもない,自分の手で殺してしまったのだ。
エスは呆然とした状態でマコトの姿を思い浮かべる。
確かに彼はエスを殺そうとした。
怒りのままに暴れ,何度もその命を奪おうとした。
だが寸での所で間違いを反省し,力で押さえつけようとする考え方も変えようとしていた。
もう何かをする気にはなれない,そう言っていた彼を殺そうなどとは一切考えていなかったのだ。
最後に見たひ弱な少年の姿が心に刺さり,血に汚れた両腕を震わせる。
助けようとした命をこの手で殺してしまった事実。
拭えない罪を,彼は受け入れるしかなかった。
「俺は,取り返しのつかないことを……」
「おい! エスッ!」
すると遠くから声が聞こえる。
呼びかけるそれに思わず振り返るも,その姿はマコトではなく見知った別の人物だった。
「ジェルフ……」
「はぁ,はぁ……。お前……どこに行ったのかと思ったら,こんな所にいたのか」
立ち去ったエスを心配していたのだろう。
息を切らしながら走って来たジェルフが駆け寄ってくる。
だが素直には喜べない。
エスは背を向けて視線をそらし,余所余所しい態度で接する。
「軽い手当てを受けたら直ぐに出ていって,流石に驚いたぞ」
「まぁ,色々あって」
「色々って,その身体で……」
息を整えながら,彼はエスを町に呼び戻そうとする。
「そんな怪我でどうするつもりだったんだ? 早く戻ってもう一度治療を……って傷が……!」
「俺達転移者の身体は,かなり頑丈にできているみたいだ」
ジェルフは全身に渡る怪我を指摘したが,その違和感に気付く。
言いたいことは分かっていた。
あの戦闘で出来た傷は,多少の痛みがあるだけで殆ど出血が止まっていた。
右腕の火傷は相変わらずだったが,避難所で包帯を巻いていたため気にもならない。
じきに自然と治癒されるだろう。
本来ならば,これほどの治癒能力など普通の人ではあり得ない。
これが転移者なのだ。
人の形をした,人ならざる存在。
他者の命など簡単に奪うことが出来る。
この世界で危険視されるのも無理はないと,エスは自身の異質さを再認識する。
「そ,そういえば,あの転移者はどうしたんだ? 周りの荒れ様を見るに,追っ払ったのか?」
「いや……」
「いやって,何処にもいない……。まさか……」
エスの身体に圧倒されたジェルフは話題を変えようとするが,異様な雰囲気を察する。
互いの間で沈黙が流れる間,風に吹かれた草原が広く音を立てる。
もう,後戻りはできない。
言葉を失うジェルフを尻目に,たった一つ気掛かりだったことをエスが確かめる。
「ハルは……ハルは無事なのか?」
「あ,あぁ。軽い脳震盪だったらしくて,お前が飛び出した後,自力で起き上がった。エスに助けられたことも覚えていたよ」
「そうか。良かった,本当に」
それを聞いたエスは自然と笑みに近い,安心した表情を浮かべる。
だがそれも一瞬で,真剣な面持ちで先に広がる暗闇を見据えた。
戦いは始まっている。
互いの命を奪い合う転移者同士の殺し合い。
当然,エスは戦いを望んでなどいない。
だが,再転送された他の転移者が何を考えているのか分からない中,一つの場所には留まれない。
何も言わずエスが歩き出すと,ジェルフが慌てた様子で右手を伸ばす。
「エス! 戻ってこないのか!?」
「俺がいたら,町の人に迷惑がかかる。これ以上はいられない」
「迷惑って,嬢ちゃんに何も言わずに行く気か!? セイディも言っていたじゃないか! 話し合えば,きっと分かってくれる!」
「話し合えば……。そうだな,きっと出来るって思ってた。皆には,ごめんって言っておいてほしい。それにジェルフも,短い間だったけどありがとう」
話せば分かるとマコトに言った自分の姿を思い出す。
しかし,今は状況が違う。
血に汚れた手が,町に戻ることを拒絶していた。
ここに居場所を求めてはいけない。
歩みを止めることはなく,ジェルフが首から提げていた懐中時計の音が徐々に遠くなっていく。
「どうして,俺達が転移者を恐れるか,知っているか?」
不意に冷静さを装った声が引き留める。
エスが立ち止まると,複雑な表情をしたジェルフはそのままゆっくりと話し始めた。
「この町で起きた騒動と同じで,過去にも転移者同士の戦いはあったからだ。大体,100年前と10年前の話だ。100年前には一つの都市が放棄されて,10年前には一つの国が消えた。だから皆が言っているのさ。今度転移者が現れた時には,一体どうなるんだろうってな」
過去に起きた転移者同士の戦い。
エスにとってそれは初耳だったが,転移者という存在が認知されている理由がようやく分かった。
彼らは転移者によって様々なものを奪われていたのだ。
中には親しかった者を殺された人もいるに違いない。
例え無関係であっても,責任を感じずにはいられなかった。
「なぁ,エス。またあの戦いが始まるのか? また誰かが死ぬっていうのか?」
「俺にも分からない。自分のことすら……。ただ……」
僅かに悲壮を感じさせるジェルフの問いに,エスは一呼吸置く。
彼にとって,これから始まる戦いに真っ当な意味などない。
殺し合いの果てに願いを叶える力があったとしても,記憶のない現状では何も感じない。
それでも,エスにはこの戦いに挑まなければならない理由がある。
それは純粋な願い,生きる者として当然の権利だった。
「俺はまだ,死ねない」
瞬間,エスは草原を駆け抜けジェルフの前から姿を消した。
溢れかえる感情に身を任せ,振り返ることなく,ただひたすらに闇をかき分けていく。
マコトの命を奪ってしまった今のエスには何もない。
何もないからこそ,彼にとって恐れるべきは自身の死だった。
自分のことすら理解できない中,無意味に死ぬことだけは出来なかった。
闇に紛れたエスは声にならない声を上げる。
それに答える者は,誰もいなかった。