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「ここが,異世界?」
再び意識を取り戻したエスが口にした第一声はそれだった。
土を踏む柔らかい感触と,上から降り注ぐ木漏れ日。
風に揺れる葉擦れと鳥の囀りが,今いる場所を理解する。
どうやらここは深い森の中のようだ。
獣の気配は感じるも人の気配はない。
気温を含めた周囲の環境は至って正常だ。
転移直前に拘束されていた彼の身体も問題なく動き,行動に支障はなかった。
「一体,何が起きているんだ……。俺は,本当に死んだっていうのか……?」
状況が目まぐるしく変わることに,エスは溜め息をつきたくなるも,ここで立ち止まる理由はない。
デウスは救済ある人生を歩めと言った。
即ち己の望むように行動しろということだ。
ならば勝手にする以外にない。
右も左も分からないため,彼は先ず初めに森から脱出することを考える。
そして人気のある所まで行き,情報を得る。
そうすれば,ある程度の身の振り方も考えられるだろうし,次第に記憶も戻るかもしれない。
未だ死んだ実感がないまま,エスは前向きに考えつつ森の中を歩き出した。
途中,前方を阻む小枝をかき分けながら,エスは例の力を確かめることにした。
デウスから与えられた無効化,というものだ。
あまり興味はなかったが,正体不明な力は今の内に理解しておかなければ,何かの弾みで間違いを犯すかもしれない。
記憶のない己を知る為にも,場所を考慮しながら試し始める。
力の出し方が分からないまま十数秒経ったが,以前光が宿った両手に力を込めると,透明な波動が飛び出すことに気付いた。
低い振動音を放ちながら生まれたそれは,エスの意志に従って手中に留まり,次いで弾丸のように一直線に放たれる。
デウスの言葉通り,自然現象ではない特殊な能力というものなのだろう。
しかしそれだけで何の意味もない。
波動はあらゆる木々をすり抜け,飛び去っていく。
何かを破壊することも影響を与えることもない,まさしく無の力だった。
「こんな力が役に立つとは思えないけど……」
全くの無力ではあるが,危険な力ではないことに安堵する。
もし破壊の限りを尽くすものならば,その力に怯えながら行動しなければならない。
無理矢理力を与えたデウスに怒りを覚える所だったと,エスはあの骸骨の顔を思い出して顔をしかめた。
当てのない獣道を歩き続けた後,人が通った跡のある公道に辿り着く。
相変わらず人の気配はないが光明は見えた。
少なくとも,ここを通れば目的の場所は見えてくる筈だ。
しかし目の前に現れたのはY字型の分かれ道だった。
傍まで近づいたエスは,分かれ道の間に設置されていたモノを探る。
「参ったな」
『フェルレイン湖』『バベルの町』と書かれた木製の看板が二つあった。
しかしそれらは崩れ去り,虚しく地に落ちている。
これでは,どちらが町に続く道なのか分からない。
エスは両方の分かれ道を交互に見るも,似たような光景が続くばかりで違いはなかった。
仕方がないので,適当に左に向かって進み始める。
湖に近づけば間違いだったということで反対の道へ引き返せばいい。
しかし,エスは歩きながら自身の身体を見下ろす。
かなりの距離を歩いたものの,体力に衰えは感じず喉の渇きもない。
起伏の激しい獣道を歩けば自然と体力は消耗する筈が,その変調も見られない。
もしかすると,この身体はかなり頑丈なのかもしれない。
それからまた暫らく歩き続けると,景色が変わり始める。
木々の数は減る代わりに大きな岩が目立ち始めた。
地面にも丸みを帯びた小石が現れ始め,歩き辛さを感じ始める。
人通りが多い道ならばもう少し整備されていることを考えると,町に向かっているようには思えない。
町へ続く道は右の方だったか。
運がないとエスは少し落胆しながら,引き返すために背を向けようとした。
だがその直後,遠くから何かの気配を感じた。
動物ではない一風変わった気配にエスは立ち止まり,正体を確かめるために,先の道をゆっくりと進み始める。
木々を抜けて進んだ先には地面が剥き出しになった渓谷があった。
湖への細い道が続き,崖の下は底の深い川が流れている。
この細道には側面に聳え立つ小山があり,反対の崖に面した側には川への転落防止にと柵が設置されている。
少々危険な道だ。
柵があるとはいえ一歩間違えば崖から落ち,そのまま川の中へ転落してしまう。
そんな渓谷に一人の少女がいた。
明るい栗色の髪をポニーテールに仕上げた少女が,大きな鞄を背負って歩いている。
何かを運んでいる途中のようで,エスのいる方向へと向かっている。
今の所こちらに気付く様子はないが,彼にとってこの世界で見る初めての人間だった。
「良かった,人がいる。って,あれは?」
話が出来そうな相手が見つかったと同時に,別の場所から不穏な空気を感じる。
それは少女の頭上,複数の岩が連なる小山からだった。
何かがいるのだろうか,とエスはその場に立ち止まり警戒する。
次第に小石の転がる音が川の流れる音に混じって聞こえ始める。
すると次の瞬間,雷に似た音を立てながら小山が崩れ始めた。
拳ほどの石を纏わせながら巨大な岩がバランスを崩し,音を立てて落下する。
先程の気配は少女ではなく,地盤の緩んだ小山のものだったのだ。
「危ない!」
少女も異変に勘付いたようだが,慌てて辺りを見回すだけで頭上の落石には気付いていない。
このままでは彼女が落石に押し潰されてしまう。
考えるよりも先にエスはその場から飛び出し,風を切る速さで少女の元に辿り着く。
予想より遥かに高い身体能力に驚くも,嬉しい誤算ではあった。
岩の群れが襲い掛かるよりも先に,彼女の身体を抱きかかえる。
「ひゃっ!?」
「口を閉じて!」
舌を噛まないよう警告し,岩が影を落とす瞬間にエスは少女と共に横へ飛んだ。
前方の細道を的確に足場にしながら,元いた安全な場所へと避難する。
エスが後ろを振り返ると,大岩が音を立てて細道をすり潰し,柵を突き抜けて崖を落下していく様が見えた。
後を追うように小石が続々と流れ落ち,落下した数々の岩が水飛沫を上げて川底に達する。
残ったのは無残に破壊された細道だけだ。
他の場所が崩れる気配は感じないことを確認し,エスは少女をその場に降ろす。
すると少女は背負った鞄と共にその場に尻もちをついてしまう。
「大丈夫?」
「あっ,はい」
怪我でもしたのかとエスは心配したが,落石の衝撃で呆然としているだけのようだ。
問いに反応しながら,少女は崩壊した細道を見つめている。
「あんな大きな岩……もし巻き込まれてたら……。あ,あの……助けてくれてありがとうございます」
「大事にならなくて良かったよ。それに,言葉も通じるみたいだし」
「えっ」
「あ,いや,何でもない」
少女が不思議そうな反応を取ったため,慌てて取り繕う。
デウスが言っていた異世界という単語は,この世界では通用しない可能性がある。
妙なことを言って変人と思われても困るので,エスは無理やり話をそらす。
「それより,何でこんな人気のない道を?」
「えーと,私の家がこの近くなんで……」
「へぇ,家が近くに……ってことは,今の道は崩れちゃまずいんじゃ」
「あ,その辺は何とかするから大丈夫。私,土持ちなので」
「土持ち?」
「……やっぱり,変だった?」
少しの沈黙が流れる。
話をそらしたはいいが,会話が噛み合わない。
やはり異世界には異世界なりの常識というものがあるようだ。
意志相通はできるものの,専門用語を語られても全く理解できず,どう答えるべきなのかエスは決めかねていた。
「そ,そういえば君も見ない顔だね。湖に何か用事……なんて人最近じゃ見ないし,何処の人?」
「あー,それは……」
代わりに少女が切り出した質問は,エスを非常に困らせるものだった。
この少女は,普段から人通りが少ないこの細道を往復しているに違いない。
そんな彼女が見覚えのない人物に助けられたとなれば,素性が気になるのも当然だ。
これ以上は隠し通しても疑われるばかりだろう。
エスは少し考えた後,対等な関係でいるためにも,初対面の少女に素性を明かすことにした。
当然,デウスのことや現実世界で死んだということは,エス自身でも説明できないので伏せておく。
あくまで一般的な常識に当てはめて,話が通るように辻褄を合わせる。
すると話を聞き終えた彼女は,考える動作をしながら頷く。
「つまり君は記憶喪失で,森の中を歩き回ってここまで来て,私を助けてくれた,と」
「そうなんだ」
「なんだか凄い偶然だけど,疑うのは失礼だよね。うん,分かった! でもあの看板,いつの間に壊れたんだろう。昨日見たときは何ともなかったのに」
「風か何かで倒れたんじゃ?」
「古かったし,そういうことなのかな」
信用はしてくれたようで,硬かった少女の表情が柔らかくなる。
下手に嘘をつかなくて正解だったらしい。
今後もこのやり方で相手との距離を測っていこう,とエスは会話の仕方を学習する。
「とりあえず,お礼ついでに町まで一緒についていくよ。それからは,色んな人に話を聞いたほうが良いかもね。役所もあるし,何かわかるかもしれない」
「そうなのか。ありがとう」
「いいよ。私も町に行く途中だったし,助けてもらったお礼を返さないとね」
少女は町までエスと同行すると進言した。
わざわざ行動してくれるのは気が引けるものの,道案内は非常に有難い。
このまま無駄に彷徨って体力を使うのも問題なので,その言葉に甘えさせてもらう。
エスが二つ返事で了承すると,少女は何かを思い出したように彼を見つめた。
「そうだ名前! 私はハル。ハル・イースデイルって言うの。君は?」
「エス。それだけは覚えてる」
「エス,か。それって名前なんだよね?」
「言われてみれば,どっちだろう……。ごめん,分からない」
「あっ,別に謝らなくても……。そうそう,どっちでも良いよね。エス,エス君ね。うん,覚えた!」
考えてみればデウスはエスという名前を明かしたが,それが姓名合わせたものなのか,名前だけのものなのか一切語らなかった。
故意によるものなのかは分からず,あの自称神が適当なことを言っていても不思議ではない。
しかし他に名乗るものもないので,ハルが納得しているのならそれでいいと,エスは割り切ることにした。
「よしっ。それじゃ案内する前に,この道を何とかして……って,あ!」
「え,どうかした?」
「腰が抜けて……立てない……」
「……手伝おうか?」
一歩身を引いた問いかけに,ハルは恥ずかしそうに顔を俯かせ,小さく頷いた。
表情が見る見るうちに変わっていく。
デウスのような胡散臭さはなく,敵意は一切感じられない。
苦笑したエスは,助けた成り行きでそのままハルに手を貸すことにした。