-1-
その意識が覚醒する。
暗闇に包まれた視界が開け,彼は目を眩ませた。
場所を求めて彷徨っていた手を見たことで,それが右手であることに数秒かけて理解したようだ。
状況が把握できない様子のまま,もう片方の左手があることを知り,両手で頭部,肩,胸,腹部と順に探っていく。
そして彼は,この金髪碧眼の身体が,身に付けた簡素な衣服を含めて自分のものなのだと悟った。
「なんだ……ここは……」
次いで青年は身体から目を離し,辺りを見渡す。
見渡す限り一面の青空と,所々に雲が漂う幻想的な空間だ。
遮蔽物など何一つなく,どこを見ても同じ光景が広がるばかり。
ここが地上からどれだけ離れた場所にあるのかも判別出来ない。
しかし風もなければ,気圧や息苦しさも感じない。
すぐさま生命の危機に晒される心配はないようだ。
青年は巨大な白い盃の上に立っていた。
人一人を容易に置くことの出来る盃は,円を描く様に九つ配置されている。
何か意味があるのかもしれないが,他の盃に変わった所はなく,この場にいる人間は青年一人だけだ。
意識が戻った中でも,空の雲が動くだけで他には何の変化もない。
この光景が現実なのか夢なのか,既に彼の理解の範疇を越えつつあった。
「目覚めたようだな」
直後,威圧感を放つ声が背後から聞こえる。
瞬時に振り返ると,そこには空を覆うほどの巨大な骸骨が佇んでいた。
黒のローブを身に纏う骸骨は,玉座ともいえる巨大な座具に腰掛け,青年を見下ろしている。
周囲の光景とはかけ離れた死を連想させる姿に,青年の身体は反射的に強張った。
「誰……?」
「私はデウス。世界の管理者,神とも言える存在」
「神? 何かの冗談なのか?」
「真偽を確かめる必要はない。今お前が気に掛けることは別にある」
その骸骨は自分を神と名乗った。
訳の分からない状況で,その上に神などという存在が現れれば正気を疑う所だが,それ以上に意味の分からない内容がデウスから語られる。
「お前は現実世界で死んだ。非業の死を遂げた人間は,この盃の間に呼ばれることになっている。盃の間は,多くの無念を持ちながら命を落とした者を導くために存在する。私はお前を導くために現れた」
「……」
お前は死んだ。
唐突に死を告げられ,青年は呆然とする。
しかし彼に実感は湧かなかった。
まるで他人の話を聞いているかのような感覚だった。
それは今この場で五体満足な身体があり,息を吸って生命活動を行っていることが原因の一つではあるが,問題はそれだけではない。
「待ってくれ」
「どうした。予め言っておくが,これは夢では……」
「俺は,本当に死んだのか?」
「何だと?」
「覚えていないんだ。今まで何をしてきたのか,自分が誰なのか,何も……」
青年には記憶がなかった。
過去の記憶だけでなく,名前すらも彼は失っていた。
眼前に広がる光景とデウスを容易に受け入れることが出来るのも,比較する常識に疎いことが理由だ。
それを聞いたデウスは彼を見透かすように見つめ,やがて視線を外した。
神特有の力か何かで,記憶を失っていることを知ったのだろう。
複雑な感情を込めて息を吐き,再度青年を見下ろした。
「どうやら,記憶喪失のようだな」
「あんたが神だと言うなら,教えてほしい。俺は誰なんだ?」
「それは教えられない。私の役目は,お前達を救済すること。救済のない事実を明かす理由はない」
素性を知っていながら語ろうとしないデウスにもどかしさを感じ,握りしめていた拳の力を強める。
救済のない事実というからには,それ程までに凄惨な死を遂げたのだろうか。
実感のない身体に問い掛けても何の反応もない。
とにかく,下手な真似してデウスの気を損ねる訳にもいかず,この場は指示に従う以外にないと悟った。
「お前には現実世界とは異なる,所謂異世界に行ってもらう。そこで救済のある人生を歩むと共に,それを阻む敵を倒してほしい」
「敵?」
「会えばすぐに分かる。だが今のままでは力不足だ。だからこそ……」
異世界に行くことが,記憶のない青年への救済とでもいうのだろうか。
言い終わらない内にデウスが手を翳すと,彼の周りに光が集まり始める。
力の脈動を感じる光の群れは,抵抗する間もなく身体に取り込まれ一体化する。
その後,彼の両手に得体の知れない力が宿った。
「この力を与えよう。それは無効化,全ての能力を無にする力だ。何も無い,今のお前にとって相応しい能力だろう。その力を利用して敵を倒せ」
「訳が分からない……」
「理解する必要はない。これは神の慈悲だ。再び生を与える私に感謝すれば良いだけだ」
望んでもいない力を与えられ,青年は力の宿った両手を振り払いデウスから目を背ける。
救済と銘打っているが,デウスの言葉には有無を言わせない強制力があった。
こちらの意見など聞く耳を持たない。
加えてこの手慣れた口調からして,救済は幾度となく行っているようだ。
他の者達も同じ異世界とやらに送り込まれたのか,または別の救済方法があるのか。
現実世界の事情を知らない以上,常に不安が付き纏う。
するとその考えを見通したように,デウスが鼻を鳴らした。
「ついでだ。名のない人生では何かと不便だろう。特別に,失ったそれを教えてやろう」
おまけと言わんばかりに,デウスは青年の名を明かす。
己の存在すら曖昧だった彼に,ようやく証が与えられる。
「エス。それがお前の失ったものだ」
「エス……?」
「お前の言動を見る限り,記憶喪失とは言え一般的な知識は持っているようだな。ならば,これ以上のお膳立ては不要か」
だが名前の余韻に浸る間もなく,デウスの指先が動く。
同時に,エスの立つ盃全体に意味の分からない文字が浮かび上がる。
それらは陣を組むように形成され,数秒足らずで巨大な魔法陣へと変化した。
「では始めよう。異世界への転移術式を」
「なっ……!?」
デウスは強制的に異世界への転移を行うつもりらしい。
意表を突かれたエスは抵抗しようとしたが,目に見えない強力な力に抑え付けられ指先一つ動かない。
魔法陣が形成された時点で,彼の身体は拘束されていたのだ。
陣は更に輝きを増し,エスを包み始める。
その光は先程力を与えられたものとは違い,何処かに吸い込まれるような感覚を与えた。
「一つ警告しよう。異世界には,当然そこに住む者達がいるが,決して傷つけてはならない。いかなる理由があっても,危害を加えることは禁止している」
「どういうことだ!?」
「そのままの意味だ。もしこのルールを守れない場合,何れは自分の身を危険にさらすことになるだろう」
警告の意味を理解するよりも先に意識が遠のく。
尊大な死神の姿が徐々に霞み始める。
意識の糸を手繰りながら,エスは声を振り絞る。
「デウス! 俺にはまだ聞きたいことが……!」
「必要ない。私が行うべきことは全て果たした。後は,お前の行動次第だ」
瞬間,エスの姿は盃の上から消え,纏った光は弾けるように四散した。
彼の声も気配すらも最早感じない。
転移の成功を見届けたデウスは,暫らくして果てのない空を見上げて手を翳した。
まるで何かを求めるように伸ばし,剥き出しの骨から零れた青空の光が,デウスの目を細めさせる。
「ようやくだ。これで,駒は全て揃った」
雲が動き続ける天空の中,表情のない骸骨が小さく呟いた。