第三章:バハムート――8
◇ ◇ ◇
「調子乗ってんじゃねえぞ!!」
まず、ヘルメスに殴りかかったのは、レザージャケットを羽織った青年だ。
彼の振りかぶる右の拳は、黒ずみを得ている。それは宛ら、手甲にも似ていた。
「体内の〝炭素〟を凝縮し、結晶化。鎧のように纏ったと言うところか」
対するヘルメスは、微塵の恐怖も見せない。
冷静に、迫りくる彼の拳。その正体を分析し、パチンと指を鳴らす。
直後、青年の振るった右腕が炎に包まれた。
「あ、っがあぁぁぁ――――っ!?」
「〝C+O2→CO2〟。子供でも知っている反応式だね。炭素は、燃えると酸素と結合し、二酸化炭素になるのさ」
ヘルメスが行ったのは、大気中の水分の分解と、再結合だ。
即ち、燃焼。炎によるカウンターである。
「てめえ! よくも〝鉄〟をっ!!」
続いて、炎を潜り、タンクトップ姿の男が突撃をかましてきた。
目で見る限りでは、特殊な能力は用いていないように感じる、文字通り、ただのタックルである。
「――――っ!!」
しかし、異常はあった。それは速力だ。
一般的な人間。恐らくは、アスリートクラスのスプリンターでも到達不可能な、圧倒的速度。
その速度を以て迫る男を、紙一重のタイミングでヘルメスは回避した。
彼女の青髪を散らすように揺らし、激音を轟かせ、男は窓際の壁に、へこみとひび割れのクレーターを作る。
尋常なのは速度だけではないらしい。男の身体能力。それ自体が、化け物染みているのだ。
「その身体能力……、〝ミオスタチン遺伝子〟の不活性による、筋肉肥大体質だね?」
振り返り、ヘルメスは尋ねた。
「ああ、詳しくは知らねえが、俺の筋繊維の密度は、常軌を逸してるんだよ」
〝ミオスタチン遺伝子〟とは、筋肉の育ち過ぎを防ぐ遺伝子である。
〝ゲノム編集〟などにより、この遺伝子の働きを阻害した場合、筋肉の肥大化が起こるのは、当然の話だ。
単純な肉弾戦では、たとえ、アデプトと呼ばれるヘルメスだろうと、太刀打ちできないだろう。
全身が凶器と化している男が、再びのチャージを行った。
華奢なヘルメスである。真面に食らえば、全身の骨が粉々になる筈だ。
「……ぐぅっ!?」
だが、苦悶の声を上げたのは、男の方だった。
巨大な質量を持つ岩の塊が、水面に激突したような音がする。
男の苦悶は、その際の衝撃によるものであり、そのときを境に、男の動きが酷く緩慢となった。
対し、涼しい表情でヘルメスは彼を躱す。彼女の動きに遅緩はない。
「な、何しやがった!」
「簡単な話だよ。キミの周囲に〝超臨界流体〟を散布しただけさ」
「ちょ、ちょうりん……かい……?」
「液体と気体の特性を併せ持った、流体のことだよ。分かりやすく言えば、キミの周りの気体は、全て液体と同じ性質を持つ。もちろん、術士のワタシは、その影響を受けないがね」
説明を受けても、男は理解できないらしい。
構わず拳を振るい、ヘルメスの頭蓋を砕こうとする。
皮肉にも、そのことで男は理解した。
軽々と動く相手と比べ、余りにも自分の動き。そして、感じる抵抗が重いのだから。
「分からないかい? キミの周囲は海と化しているんだよ。水中では、どんな力持ちだろうと、本領発揮とは行かない」
「て、め……」
男の振るう、遅く遅い左フックを沈んで躱し、ヘルメスは通常速度の掌底を、男の鳩尾に叩き込んだ。
「ごぶふっ!!」
男が肺の空気を一気に解放する。
問答無用と言わんばかりに、ヘルメスは逆の手で、男の顎に追い打ちのアッパーをかました。
彼がどれほどのアスレチック能力を誇ろうとも、人体の急所に二連撃を叩き込まれれば、気絶するほかない。
「余り、舐めないで貰えるかな?」
気を失った男の敵を取るべく、三人目のフーリガンが能力を行使する。
紫髪にメガネをかけた、割と知的に見える青年だ。
青年が放ったのは、武の――いや、武の限界以上の電撃だった。
その電撃を受けて、タンクトップの男を纏っていた、超臨界流体の牢獄が姿を消す。
「ほう? キミはそこそこの学を持っているようだね?」
「舐めないで。って言っただろう?」
青年が行ったのは、
「〝電気分解〟。水は電流により、酸素と水素に分解される。――そして、水は電気を良く通す。あんたに取って、オレは天敵なんだよ!!」
勝利を確信した笑みで、青年が行く。
右の手に、電流がもたらす発光と、空気が断続的に弾ける音を携えながら。
「だが、まだまだ甘い」
スタンガンとなった青年の右手を、平然とヘルメスが左の手で叩き払った。
その顔に苦痛の表情は見えず、だから、青年は思わず叫んだ。
「バカな!! 何故、電流が流れない!?」
「勉強不足だね。水が電気を通すのは、不純物が混じっているからだ。混じりけのない水、〝純水〟は、電気伝導率が低いのさ」
電気伝導率は、電流の流れやすさのことだ。低ければ低いほど、電流は流れにくい。
ヘルメスは、肌に純水の膜を作り、ゴム手袋の代わりにしたのである。
「そして覚えておくと良い。水が電気エネルギーによって、酸素と水素に分解されると言うことは、酸素と水素を結合させると、真逆の現象が起こることを」
刹那。雷撃が咆哮した。
「がああぁぁぁぁ――――っ!?」
水素と酸素を反応させると、〝電子〟の流れが生じる。
電子の流れとは、つまりは電流。これは〝燃料電池〟のメカニズムと同じものだ。
「な、何なんだよ、テメエはよぉ……!!」
三人目の仲間が倒れたことで、流石に赤髪のアロハシャツは、動揺を隠せなくなったようだ。
顔面を愕然に歪め、唸り声に近い威嚇の音を上げた。
本当は、罵声を上げながらヘルメスに食らい付きたいだろう。が、先日の記憶と現在の結果が、彼をそこに留めていた。
赤髪アロハシャツこと連治は、ヘルメスを畏怖している。
モデル体型の細身な女子に、しかしながら、圧倒的な脅威を感じているのだ。彼女にはどうやっても敵わないと、本能が叫んでいるのである。
「さて、キミの能力は知っている」
ヘルメスが、連治に視線を向けた。
それだけで、彼は小さな悲鳴を漏らし、後退ろうと足をずらす。
だが、彼の足は微動だにしない。後退を望んでいた連治は、必然的にバランスを失い、無様に尻餅をつく。
「な、な……?」
彼の足を縫い止めていたのは、氷だ。ヘルメスが水分を凝固させて作った、氷点下の足枷である。
「そこで、倒れていてくれ」
受け身のため床に着いた両手。それにも氷の枷が纏わり付いた。
彼は、己の発熱能力を使用することも忘れ、ガチガチと奥歯を鳴らす。
圧倒的な戦闘力だ。
「す、すげぇ……!」
一部始終を眺めていた道真が、驚嘆する。
「フーリガンとはいえ、四対一だぞ? それを、無傷で? ……ありえねえ。これが、真の錬金術師〝アデプト〟の実力……」
そのときだった。
「君たち! そこで何をしている?」
第三勢力の非難の声が、戦場と化したシミュレーションルームに響く。
「〝司法部〟だ! 妙な動きはするんじゃないぞ!」
錬金領土の秩序を守る、民間団体の四人が、扉の側に立っていた。




