表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4+1thrones  作者: 彩文
5/7

part3 悲劇の王竜と忠君の策士


「見て、ヴェルデさま!」

 チャロアイトの王城の庭、少女竜が花冠を持って来る。少女竜はそれをヴェルデと呼んだ少年竜の頭に乗せた。

「おうかん!」

「む、ムリだよ……エリス……僕に王竜は。王竜はたぶん、ロート兄さんだよ……」

「じゃあ、二番目のおうかんね」

「よくわかんないよ、エリス」

 エリスと呼ばれた少女竜はいいの、と笑う。その笑みを見てヴェルデアスルも笑う。

「あ、そうだ。じゃあエリス、僕からのおかえし」

「なぁに? それ……」

「ペンダントだよ。かわいいでしょ」

 ヴェルデアスルはエリスの後ろに回り、彼女の首にペンダントを付けてやる。

「わぁ、きれい……でも、いいの?」

「うん、おうかんのお礼」

 ヴェルデアスルとエリスは笑い合う。

 遠い幼いあの日の記憶。ヴェルデアスルの金髪には花の王冠があり、エリスのメイド服の胸元にはエスメラルダが輝いていた。


――――


「ガハッ……」

「……人間の血って、もっと鮮やかな赤だと思ってた」

 白いドレスシャツは、既に赤黒く染まっていた。彼は石畳に鮮血を吐く。しかし、鮮やかな筈がない。黒ずんだ赤を見て、カヌエは思い出す。

 確かに自分は竜とは違う。けれども、

「ワタクシは、人間とも……違いますからね……」

「クスリ、だろ? 父様を騙して奪った魔力から作った……。そんなもの使って、僕達に近付いたつもり?」ヴェルデアスルは忌々しげにカヌエを睨む。「元々竜という優れた体に備わっていた力だからね。竜に劣る人間の体に宿れば色素の変化はまだ軽い……どこかにガタが来たり、それこそ痛覚の麻痺なんてあって当然だよ。……でも、その体の中に父様の欠片があるのなら、少しだけでも愛おしくはなるかな」

 その手に持つ翠鱗の鞭を硬化させ剣に変えながらヴェルデアスルはカヌエに歩み寄る。ノワールは微動だにしない。その静寂ぶりが彼の恐ろしさだ。

「ノワールに斬られた傷はそろそろ塞がったんでしょ? どの辺り? 痛みを思い出せるまで抉ってあげるよ」

 カヌエのドレスシャツは右肩から左脇腹にかけて切られ、赤く染まっている。否、カヌエ自身が斬られたのだ。しかし、クスリによって痛覚と引き換えに得た人間では持たない自然治癒力、それがカヌエの傷を治した。

 痛みはない。だが、まずいというのは分かる。まともに呼吸が出来なく、体が重くなってきた。

「どうぞ、弄べばいいですよォ」どうせ、逃げられなければ勝てもしない。ヴェルデアスルはともかく、自分は弱いと言い張っていたノワールはとてつもなく強い。どうやらあれも嘘だったのだろう。今までの悲しみや憎しみ、怒りは一気に諦めに変わってしまった。もう適いはしない。死ぬんだ、と、感じた。「この大罪人にどうか、これ以上ない程の痛みと罰をください」

 制限時間に気付かぬまま秘薬を探し続けて結局見つからず友を死なせ、騙されて主を殺し、友の仇の野望に加担して。こんな大罪人に、生などある筈がない。ヴェルデアスルはまだ、王竜だ。国民がいる。ノワールがいる。

 しかしカヌエには誰もいない。何もない。

 ヴェルデアスルが翠鱗の剣を振り上げるのを見て、目を閉じた。


――――


「ヴェルデアスル様、お食事の準備が整いました」

「エリス、この前から思っていたんだけど、どうして敬語なんて使うのさ。エリスと僕の仲じゃない」

 メイド服の胸元に輝いていたエスメラルダのネックレスは、エリスの胸元にはもうない。

 しかしエリスは、さながらそこにネックレスがあるかのように胸元に手を当てて目を閉じた。

「……私は、ただの使用人ですから」

 まるで、ヴェルデアスルから目を逸らすように。

 まるで、ヴェルデアスルに目を逸らしてもらえるように。

 低く冷たい声で紡がれた言葉に、ヴェルデアスルは言葉を失った。


――――


「ヴェルデアスル様! ご無事ですか!」

 ドアがいきなり開き、カヌエに振り上げられた翠鱗の剣が止まった。ヴェルデアスルもノワールも、カヌエも。その場に息をする皆がドアを見る。そこにはメイド服の少女がいた。か細い腕に持ち慣れぬ槍を抱えて。

 これとない絶好の機会では、ないだろうか。カヌエの目に生気が宿る。

「そこの少女、よく聞きなさい。嫡子四匹を殺したのはッ……」

 ヴェルデアスルの足がカヌエの腹に食い込んだ。息を詰まらせ声を出すこともままならず、カヌエは咳き込む。

 カヌエの姿くらいはエリスも見たことがある。白かった髪や衣服。それらは赤く染まり、所々切れている。斬られたんだと瞬時に判断出来た。

「エリス、こいつはマリィ殺しの犯人だよ」ヴェルデアスルが指した先にアマリィジュの遺体を見ると、エリスは目を見開いて体を震わせた。「耳を傾けたって無駄なことは分かってる。人間の言うことなんて、信じられるわけがないからね」

「ロートさま、ブラウさま、スミュルナさまを殺したのはこのヴェルデアスルですッ!」

「いい加減にしたら? ……エリス、どちらを信じるべきかくらいは、判断出来るよね?」

「当然でございます」

 エリスは槍を抱えたまま、ヴェルデアスルとカヌエに歩み寄る。その時間が酷く長く感じた。スカートの裾がふわりふわりと揺れて、その細い足が歩を進める。そして、槍を向けた。

「ロート様、ブラウ様、スミュルナ様を殺した……」エリスの円らな瞳は、槍と同じ向きを睨む。「ヴェルデアスル、貴方につくという愚かな行為は、私は絶対にしません!」

 恐らく備品だろう。あまり使い込まれた形跡がない槍の切っ先をつきつけられてもヴェルデアスルはピタリと制止して動かない。

「エリスは、幼馴染の僕ではなく新参者の人間を信じるの? ……人間は、君の両親を殺したんだろう? 人間を信じるの?」

「この人は私の両親を殺した人間ではありません。それに私はこの人を信じたわけでもありません」

「じゃあ何故だい?」

「マリィ様の日記を見つけました。大変申し訳ないのですが興味本位で読んでしまいまして。書いてあったのです。マリィ様は、獄中のエイジ=コトトギ=リュネットウと面会したこと、その会話の内容、スミュルナ様殺害のその瞬間」エリスはヴェルデアスルとノワールを睨みつけたあと、カヌエを見る。「……エイジ=コトトギ=リュネットウに、そろそろ髪の殆どが白くなっているであろう若い人間の男の身を託されたことも」

 カヌエが目を見開く。エリスは震える腕で槍を握り締め、真っ直ぐな視線をヴェルデアスルに戻した。

「エイジ=コトトギ=リュネットウやマリィ様の言葉から、この方が悪い人とは思えないし、貴方に子竜殺しの罪がないとも思えない」

「……エリス」エリスを悲しげに見つめていたヴェルデアスルが、途端に強い視線に力を込めた。「王座が僕のものとなったら、僕は君を妻に迎える」

 エリスの肩と同時に、槍の穂先も震えたのをカヌエは見た。動揺しているのだろうか。カヌエはヴェルデアスルではなくエリスに視線をやる。

「結婚しよう。誰も反対する者はいないよ」

「…………ヴェルデさま……」

「エリス」

「ヴェルデさまは、変わられました。あなたは、私の恋したヴェルデさまじゃない」

 先程まで震えていたその声は、凛と響いた。エリスは意思の籠もった強い瞳でヴェルデアスルを見つめる。

 最後のチャンスだ、と、エリスは思った。これでヴェルデアスルが悔い改めてくれれば、エリスだってヴェルデアスルと繋がりたかった。

「そっか……」

 悲しげな微笑としなった翠鱗の鞭に、ヴェルデアスルの答を知った。槍を持ってきたが、エリスが適う筈がない。目を閉じる、が。

「少女ッ!」

 かなりの勢いで突き飛ばされる。

「残念だよ、エリス」

 槍を落とす。冷たい床に落とされる。

「僕はこんなに、君を愛していたのに」

「ガッ……」

 瞬間的過ぎて、エリスには何が起きたのかよく分からなかった。空気を切り裂く鋭い音がした。ただ白い男がエリスの上に倒れ込んできた。思わず受け止める。よく見ると、整った顔立ちであったことが分かった。そして、左の目元が切れている。エリスは慌ててハンカチを出して押し当てた。

 カヌエは目を開く。少女竜……エリスが自分の顔を覗き込んでいた。先程ヴェルデアスルの翠鱗の鞭に打たれた目元が切れているようだ。エリスが当てたハンカチにエリスの手の上から触れる。自分の手が血まみれだったことを忘れていたが、彼女は怯えもしなかった。

「少女、ワタクシは構いませんので逃げなさい」カヌエはハンカチだけ受け取り、目元に当てながら上体を起こす。「インジェリットの王に謁見し、ワタクシの名を出してこのことを全て言うんです。……このような暴君の手から、国を救えますから」

 カヌエは立ち上がる。が、その瞬間鋭い電撃の数々が体を走り回る。あまりにつらく、思わずその場に崩れ落ちる。

 これは、痛み……? 体にガタが来たのだろうか……カヌエは目を見開いて荒くなる息を整えようとした。

「……どうしたの? 限界?」

 ヴェルデアスルの嘲笑が揺れる。まずい。カヌエ自身は別に死んでも良かった。が、少女は何が何でも生かして逃がさなければならない。久々の痛み。よりによってこんなときに。立ち上がれずに膝をついたままでいたカヌエを持ち上げたのは、エリスだった。

「エリス、どこにっ……」

「ヴェルデアスル様なんかが、いい王竜になれるわけない!」

 泣き叫ぶようにヴェルデアスルに吐き捨てたエリスはカヌエを抱きかかえたまま出口に向かって、そのまま飛び出した。


――――


「主上」

 開け放しのドアをしばらく見つめているヴェルデアスルの背中にノワールは口を開く。

「追わなくてよろしかったのですか」

「僕じゃ追い付かないもん」

「わたくしに言って下されば」

「ばっかだなぁノワールは」

 ヴェルデアスルの声が震えた。肩が震えて、鼻水を啜る音がした。ヴェルデアスルがずっとノワールを向かずに黙っていた理由に、ノワールは今気付いた。

「好きな女の子を追いかけるのは、他人に任せちゃ駄目だよ」

 軽やかな足取りでくるりと振り返るヴェルデアスル。大きな目に涙をたっぷり溜めて、また鼻水を啜った。ノワールはヴェルデアスルに気付かれないように溜め息をつく。


挿絵(By みてみん)


「僕、フられちゃった」


――――


「女性にお姫様抱っこされたのは……二度目ですケド、屈辱的ですねェ……」

「私も、雄の方をお姫様抱っこしたのは私は初めてです……。すみません、必死だったので」

「それにしても成人男性を持ち上げるなんて、中々の腕のようで」

「私、竜ですから」

「あァ、そうでしたそうでした。人の姿で耳を隠されては人間にしか見えないのでつい、ネ。スミマセン」

「あ、いえ、私は大丈夫なんですけど……あ、あなたは……大丈夫なんですか?」

 今日は野宿だ。それも、全く親しくない怪しい男と。

 エリスはかなりまずいような気がしたが、所詮人間と竜。何もして来ないだろう。

 焚き火に照らされたカヌエの赤く染まった白い服を見ながらエリスは恐る恐る尋ねる。

「自然治癒を急激に早くさせるクスリがありまして。それのおかげでこの通り傷は大体塞がりました」

「すごいですね」

「モトはあなたがた竜のチカラですケドねェ」

 カヌエがおどけて言うとエリスは俯いた。言い過ぎてしまっただろうか……カヌエがエリスの様子をうかがっていると、エリスはいきなり顔を上げる。

「人間と竜って、やっぱり相容れないんじゃないでしょうか」

「アラ、そんなコト聞くなんてワタクシに惚れました?」

「あなたは悪くないと思います。そうじゃなくて、人間と竜って仲良く出来ないんでしょうか」エリスは悲しげに目を潤ませばながら、あなたは悪くないの言葉にぽかんとするカヌエを見つめる。「チャロアイトにも人間は住んでいたけどごくわずかだし、竜と上手くやっているかも分からない。仲良く出来ないんでしょうか」

 子竜の命を狙ってチャロアイトに侵入し、しかも騙されたとはいえ一匹を手にかけたカヌエには耳が痛い話である。さァどうでしょうね、で済ましてやろうかと思ったが、彼女には恩もある。

 カヌエは焚き火を見つめた。

「アナタは知っているハズですよォ」

「え?」

「人間と仲の良い竜を。竜と仲の良い人間を」

 カヌエは目を細めて焚き火を見つめながら新たな薪を投げ入れる。パチという割れる音と、エリスのあ、という声が重なった。

「マリィ様とエイジ=コト」

「もうエイジで構わないじゃないですか。聞いててイライラするんですけどォ」

「……マリィ様とエイジ様とあなたですね」

「そーでーす」カヌエは焚き火から目を離し、真剣な目つきでマリィを見る。「……エイジは本当にマリィ様に、ワタクシのコトを頼んでいたのですか」

 エリスはカヌエではなく、焚き火に目を落として頷く。

「マリィ様の日記には、そう書いてありました」

 面倒を見てやっていたつもりが、いつの間にか面倒を見られていたとは。エイジのくせに、カヌエはもういない親友を思い出して悲しげに笑みを漏らす。

 あの、とエリスは首は傾げる。

「エイジ様とお友達って、どういった関係なんですか? あなた、インジェリット住みですよね?」

「昔はチャロアイトに住んでいたのですよォ。エイジの生家コトトギの隣に」

「えっ! それは、その、近所の竜との関係は上手く行ってましたか?」

「それは勿論。ワタクシら人間が早死にし彼らは残されるというのに、同胞の如く愛してくださいましたトモ」

 カヌエは焚き火を見つめて懐かしさに口元を綻ばせる。その柔らかな笑みに、エリスは確かに人間と竜の理想的共存を見た。

「なのに何故インジェリットに……?」

「……ア、聞いちゃいますゥ? デリカシーないですねェ」

「あ、話したくないならいいんですけど」

「では話しません。疲れたのでお先に寝ますよォ」

「え、あ、はい……」

 エリスを残しさっさと横になるカヌエ。地面は硬く、掛け布団もない。エリスは不思議そうにカヌエを見る。

「……あの」

「チャロアイトを出たとき、両親を賊に殺されましてねェ」

「あれ、話してくれるんですか?」

「いたいけな少女にそんなに見つめられたら語るしかないじゃないデスカ」

「いや、別にそういう意味で見てたわけではなかったんですけど……ありがとうございます」

「まァですね、そのときに出会ったのがもう一人の友人……シャムニエとその家族でして、その方々に養われてインジェリットに住んでいました」寝返りを打ったカヌエはエリスを見る。哀れみとも悲しみとも、何とも言えない表情を浮かべたエリスがカヌエを見つめていた。カヌエは溜め息混じりに言う。「番はワタクシがしていてあげますのでさっさと寝なさいな」

 ああいう視線、目で見てすぐ分かる剥き出しの優しさがカヌエは少々苦手だ。

「でも、私より貴方の方が疲れてますよね?」

「人間ナメないでくださいなァ。ワタクシ、人間の中でもタフな方でして。それにただでさえ不眠症ですのに、枕が変わると眠れないので」

 別に優しさが不快なわけではない。むしろ何だかんだで嬉しいときだってある。しかし困る。どう反応すれば良いかに、だ。シャムニエは優しさが分かりにくい女だった。女のよく分かる優しさではなく、男のふと気付き分かる優しさを持っていた。

 カヌエがにっこり笑って見せても、エリスは疑り深く見つめてくる。

「嘘ですよね」

「意外とデリケートなのですよォ。ぜんぶ嘘ですケド」

「…………」

「イヤイヤ、枕が変わると眠れないのはホントですよォ。少女が夜更かしはいけませんって」

 寝ろ、というのがカヌエの優しさらしい。しかし、昼間は虫を見かけた気がする。地面を見下ろしたまま、エリスは固まる。横になる勇気が出るわけがない。

「そのまま寝そべるのがイヤなら膝枕でも何でも、アナタのベッドにでもなって差し上げますよ」

 ニヤニヤと嫌らしく口元を緩めるカヌエは寝転がっている状態で自らの傍らを右手で軽く叩く。おいで、と言わんばかりに。エリスはその可憐な顔をさながらりんごのように真っ赤に染めた。

「けっ……! 結構です! おやすみなさい!」

 真っ赤になった顔を隠すように、エリスは地面に飛び込んだ。虫はいないようだ。目をぎゅっと瞑る。若いですねェ、という声と遠慮がちな笑い声がした。聞こえないフリをする。寝たフリをする。エリスに一切の反応がないことに、彼女が寝たと思ったか、或いは飽きたか。カヌエもやがて黙った。沈黙とかすかな闇が心地良くなってきた頃、あァそうだ、とカヌエは口を開いた。

「もしかしたら、シャムニエとワタクシは、」

 カヌエの声は、あまりにも切なかった。

「友人と呼び合うことで、互いに惹かれ合っていたことに気付かなかったのかもしれません」


――――


 エリスはその言葉をきっと忘れないだろう。

 別の何かと呼ぶことで、湧き上がる思いに気付かなかった。それはエリスとは正反対だったからだ。

 王族と端女、そう呼ぶことで、湧き上がる思いに気付かないようにしていた。否、気付いていたから敢えてそうした。気付いていることすら隠すように。

 ヴェルデアスルはそれを悲しんだ。嘆き、拒んだ。けれどもエリスは断固として譲らなかった。貫いた。ヴェルデアスルが王族を捨てようとしても、エリスは端女であろうとした。

 どちらが恵まれてるとか恵まれてないとかそういう問題じゃなくて。

 ただ、どちらも恵まれてない、と思った。


――――


「チャロアイトは終わったァァア―――ッ!」

「王竜の裏切り者ぉ!」

 罵倒の言葉を吐き捨てて、魔術結晶の縄で縛られた竜が数匹、軍人によって連れて行かれた。罵詈雑言だけでなく唾までも吐きかけ、ヴェルデアスルの横を過ぎていった。露わになった細腕に付着するそれに、まるで気付いていないかのようにヴェルデアスルは彼を見ていた。目を見開いて、驚愕に凍りついて。

「ノワール、何、今の」

 いつだって自分のために良くしてくれた優しい従者が、黒髪を靡かせてこちらを向く。ふわり、揺れる黒髪はヴェルデアスルが見ていた従者の優しさを表すようだった。柔らかな優しさ。穏やかな優しさ。その通り彼は涼しげな穏やかな笑みを浮かべてヴェルデアスルをその目に捉えた。

「黙っていて申し訳ありません」彼は眉尻を落とすと同時に深く頭を下げる。黒髪が落ちる。「インジェリットと条約を結んだのです」

 黙っていて、って。視界が揺れる。そんな錯覚がする。それはつまり、ヴェルデアスルが今この場に来なかったらずっと黙っていたということだろうか。

 あれほど忠実な従者だったはずの、ノワールが。

「主上が望んでおられた、不可侵条約を。一年に一度、成竜を10匹程引き渡すという約束で」

 電撃が走るとはこのことだと直感した。脳天を鈍器で殴られた感覚すらする。

 ヴェルデアスルの表情が、見る見るうちに怒気ばんで行く。

「この国の王竜は僕だ! ノワールじゃない……何を勝手に……!」

「主上のためになれば、と」

「ふざけるなッ!」ヴェルデアスルは怒鳴り、ノワールに歩み寄る。見開いた両の眼は最早怒り一色に染まり、彼を睨み付けた。「それは不可侵条約じゃない! 少しずつ、この国が、少なくとも捧げられた成竜の家族は侵されてる! 僕だって! 全然僕のためになんかなってない! 僕が望んだのはそんな平和じゃない! ……僕はこの国を愛してる。僕のためにすることはこの国のためにすること。この国を愛している者にしか出来ない」

 いつの間にか、ヴェルデアスルの怒気ばんだ表情は笑みに変わってきている。ただの無邪気で愛らしいものならばまだ良い。かなり歪んだものだ。睨み付けるようにノワールを見つめながらも、時に何かを愛おしむように目を細める。

「チャロアイトのためなら何だって出来る。大好きだった兄さん達を殺すのだって、愛していた妹達を殺すのだって、この心はちっとも痛みもしなかった! 愛国心で守られてたんだ! 国を思ったらむしろ兄さんも妹も忌々しく思えた! 邪魔だったよ! チャロアイトのためなら何だって出来る、何だって捨てられる! 僕は誰よりも何よりも、チャロアイトを愛してる」ヴェルデアスルは愛おしげに目を細めて、唾の付着した腕を見つめながら持ち上げた。唾を映していた竜眼が移動し、彼を映す。「……ねぇノワール、君はこの国を愛してる?」

「無論、貴方が愛する国ですから」

 即答するノワール。ヴェルデアスルは彼の赤い竜眼をしばらく見つめていたが、やがて目を逸らした。落ちた視線が表すのは、不信感。あの赤い竜眼はヴェルデアスルの信頼の証の塊のようなものだった。今は真逆、信じてはいけない証の塊のような気がした。

 ヴェルデアスルは顔に腕を近付け、付着した唾を舐め取った。ノワールはそれを諫めようとして踏み止まった。それこそが、ヴェルデアスルが国を愛する証なのだ。

「……僕が望んだのは、」

 舐め取った唾を飲み込んだらしいヴェルデアスルは、静かに口を開きノワールに背を向ける。

「辿り着くために犠牲者も何もいらない、平和だよ」

 平和のための犠牲者は、僕で最後。その筈だったのに、今、犠牲者が出ようとしている。

 ヴェルデアスルは床を蹴った。


――――


『父なる王竜が亡くなられた』


 他竜と話すのは、あまり得意じゃなかった。人見知りならぬ竜見知りで。


『僕は王竜になれないよ。ロート兄さんがなるよ。下から支えるから、別にいいよ』


 ノワールが従者になったときは幼心ながらに、ロート兄さんとお揃いがいいと思っていた。ブラウ兄さんを従者に欲しかった。他竜と話すのが苦手だったから、ノワールはいやですなんて言い出せる筈もなかった。


『人間達から国と民を守りたいならば、まずは主上自らが王竜となり国を纏めなくてはなりません』


 そんな僕だったけど、思い出してみると、段々とノワールが平気になっていっていた。心を開いていっていた。


『そうだ、そうだよ。それが、いいんだ。兄さんが、僕よりもチャロアイトを愛していなかったら。僕が王竜になった方が、絶対に、いい、よね……。エリスも、また僕を見てくれるかな』


 いつしかノワールは、僕の一部になっていた。兄さんや妹達が大好きだったけど、同じくらいノワールもエリスも大好きだった。


『ええ、きっとそうでしょう』


 僕の大好きなものはみんな、愛国心に壊された。


――――


「待て! その竜達を連れて行くな!」

 軍人竜と彼らに連れられた縛られた竜達に、なんとか大広間で追い付いたヴェルデアスルは声を張り上げる。軍人竜が振り向いた。

「ヴェルデアスル様? しかし、彼らは……」

「僕の言葉が聞こえなかった? 王竜ヴェルデアスルが命じる。その者達を解放しろ」

「は……、はっ!」

 軍人竜達は素早く竜達を縛る魔術結晶の縄を解いた。軍人竜達はかなり戸惑っているようだが、竜達はそうではないようだった。ヴェルデアスルに疑心一色の目を向ける。

 ヴェルデアスルはその目を真っ直ぐに見つめて頭を下げた。

「従者が独断でこのような愚考に及んだ。済まない。僕の監督不行き届きだ」

 どのくらい頭を下げていたか分からない。ヴェルデアスルはとにかく頭を下げていた。そろそろ上げた方がいいかな、そう思い始めていた頃だった。

 目の前で(頭を下げているので正確には頭頂の前だが)、悲鳴が上がった。悲鳴やら苦悶の声やらがして、赤が飛び散った。血だ。ヴェルデアスルは呆然として、もうどうしたらいいか分からなくて、むしろどうしようもないというか、反応のしようがないというか、ゆっくりと顔を上げた。赤かった。赤かった。赤い。赤い。ノワールの深紅よりも鮮やかな赤のコートを着た、そいつがいた。

「か、カヌエ……?」

 軍人竜も竜達も、一瞬にして斬り伏せられた。見るに堪えない光景がヴェルデアスルとカヌエの周辺に広がっている。

 カヌエは様変わりしていた。白い服を好んでいたのに、今は鮮やかな赤のロングコートを着ている。何より。

「アーッハッハッハッハ! どうなさいましたか、主上ォ様ァ! その軽そうな頭なんか下げてェ」

 元からおかしな男だったが、今はおかしさの程度が尋常じゃない。その口から高笑いを溢れさせたと思うと、今度は愛剣レイテルパラッシュに付着した竜の血を舐めた。明らかに刃のついているところを、だ。例え今ので舌が切れていても竜の血にまみれて切れているかも分からない。見開いた目もヴェルデアスルを見ているかどうか。

「……カルティア、まさか」

 瞬間的身体能力飛躍剤、通称A・A+。服用するとその名の通り身体能力が一時的に跳ね上がるが、好戦的になるなど精神に異常をきたす問題もある。カヌエはそれを服用したのではないか。否、そうなのだろう。ヴェルデアスルはカヌエを警戒しながら腰のベルトに手を掛ける。

「抵抗は無駄ですよォ。インジェリットの大軍は既にチャロアイトを包囲しています。やがてチャロアイトを滅ぼすでしょうねエェェ……フッフフ……」

「カヌエさん、待ってください」怪しげに笑い声を漏らすカヌエを止めたのは凛とした高い声。「ヴェルデアスルと話をする時間を、ください」

 桃色の髪を揺らす少女竜、エリスだった。尤もその服はメイド服ではなく、動きやすそうな質素な白いドレスであったが。その裾やブーツを血に汚しながらエリスはカヌエとヴェルデアスルに歩み寄ってくる。カヌエはエリスを一瞥した後、付着した血を払うように愛剣を振り、下げた。そう、下げたのだ。カヌエの承諾が下りたのを理解すると、エリスはヴェルデアスルを向く。

「ヴェルデさま、一緒に逃げましょう」エリスは手を差し出す。白く細く、綺麗な手を。「……竜の個々の力が強くとも、クスリによって強化された人間に、インジェリットに勝てる筈がありません」

 ヴェルデアスルの目が見開かれる。見開いた竜眼はエリスの手を凝視したが、自らの手を重ねることはしなかった。エリスは言葉を重ねる。

「私はやっぱり、あなたが好きです。チャロアイトの王竜だからとかでなくて、ヴェルデさまが好きなんです。チャロアイトの王竜でなくたっていい、私が好きなのはただのヴェルデさまだから。……逃げて、静かに、暮らしたい」

「エリィス? ワタクシが許すとお思いですかァ? 彼は大罪を犯したのですよォ」

「罪を犯したのはあなたも同じ筈。知らないということは罪に繋がるんです。私はヴェルデさまと話がしたい。少し黙っていて頂けませんか」

「黙るのは君だよ、エリス」

 エリスの手を凝視していたヴェルデアスルの目に静かに瞼が落とされる。だだをこねる子供を戒めるように、ヴェルデアスルの口から紡がれた言葉は、優しく静かで穏やかに、エリスを黙らせた。仮面なのか素顔なのか、最早ヴェルデアスル自身にも分からなくなってしまった、優しい王竜の顔。目を開くと、子竜のヴェルデアスルはそこにはいなかった。

「僕は、竜の国チャロアイトの王竜だ。兄妹を殺して、この手を散々汚して、やっと着いた王座に着くのは、僕だけだ。僕が兄妹を殺したんだから。……ねぇ、エリス。君は無茶なことを言うよね。僕はもう、好いた女の子との逃避行が可能なような、国を想わないけれども心優しい三男坊じゃない」

 王竜とは何か。王とは何か。それは国の象徴であり、誰よりも国と共にある者、或いは、国そのもの。

「王竜ヴェルデアスルは最期まで、チャロアイトと共に」


――――


「ノワール、何故僕の許可もなくあんなことをしたんだ」

 王座の間に戻ったヴェルデアスルはノワールを真っ直ぐに見つめる。疑っているから睨むのではない。信じているから見つめるのだ。

 ノワールはうっすらと口を開いて、柔らかな笑みを浮かべる。

「そこに彼らがいるということは、主上もご存知でしょう」ヴェルデアスルの後方、王座の間の入り口にいるカヌエとエリスをノワールは見やる。「インジェリットが攻め込んで来ました。ここは危険です……お逃げにはならないのですか?」

「僕の質問に答えろ」

「逃げるか否か、そちらが先決かと」

 ヴェルデアスルが逃げようとしているかしていないか、それを知らないノワールからしたら、ことは急を要するのだろう。ヴェルデアスルはノワールと同じように微笑む。

「ノワールなら分かってるでしょ。僕は王竜だ」

「……お逃げには、ならないのですね」

 ノワールの柔らかな笑みが、一瞬、暖かいような、悲しいような、切ないような空気を匂わせた気がした。心が通じ合う。ノワールはヴェルデアスルを理解している。ヴェルデアスルはノワールを理解している。ノワールの行いにはやっぱり、何か理由があったんだ。僕を裏切ったわけではなかったんだ。ヴェルデアスルはそう感じて、嬉しくなる。互いの心が再び通じ合った瞬間。ヴェルデアスルはそう感じて、心が暖かくなる。

 しかし、そう感じたのはヴェルデアスルだけのようだった。

「……え」

 ただ、戸惑いの呟きしか漏れなかった。

「残念です」

 世界が揺れた。痛みが胸に走った。

「王竜が失踪すれば、一番都合が良かったのですが」

 視界が暗くなる。闇だ。黒い。きっとこれは、ノワールの服だ。髪だ。それにしても、胸の痛みはこんなにもはっきりしたものだったか。

 カヌエが息を呑む。エリスが声を失う。ノワールがそれをその小さな胸から抜くと、ヴェルデアスルは崩れ落ちた。黄金の瞳は最早どこを見ているのか定かではなかった。主殺しの罪に汚れたノワールの鎌槍が血を払うように振られる頃、ヴェルデアスルを中心にして赤黒い染みが絨毯に広がる。カヌエは急いでエリスの視界を遮ろうと彼女に手を伸ばしたが、エリスがそれを理解するにはカヌエが手を伸ばそうと思い立つまでの時間で十分だった。

 ヴェルデアスルは、ノワールに殺されたのだ。

「いやあああああぁぁぁぁぁ――――っ!」

「エリス!」

 駆け出すエリス。目的地はヴェルデアスル。すぐそばにはノワール。今度はエリスを止めるために手を伸ばしたが、カヌエの手は空を切った。カヌエも床を蹴る。

「これで王竜の嫡子はいなくなりました。王竜の血縁である貴族の中から王竜は選ばれることでしょう。有力とされていたリュネットウとイレイアの当主もいません。私は労せずして王竜になれるでしょう」

 ヴェルデアスルの傍らに沿い狂ったように彼の名を呼び掛けるエリス。

「……どなたかが、一連の嫡子殺害事件の犯人は、私と主上とでも漏らさない限り」

 そのエリスを狙う黒刃。

「チャロアイトはインジェリットに降伏し、真の平和の元……」

 その黒刃を狙う白刃。

「栄えることが出来るでしょう」

 エリスが気付いたときにはもう遅かった。愛しの竜の名を呼ぶのを止めたエリスは絶望に見開かれる目でノワールを見上げる。逃げることなど出来なかったし、逃げられなくてもいいか、なんて思っていた。

 そんなエリスの目に入ってきたのは、真紅の騎士。獣のような咆哮を上げながら、エリスのすぐ上を跳んでいった。そのままノワールに体当たりして彼を巻き込み床に滑り込む。鎌槍が落ちる。赤と黒。黒が下だった。笑みを浮かべるカヌエ。レイテルパラッシュを振り上げる。しかしノワールの右手が紫色に光った。レイテルパラッシュが止まる。ノワールにはその隙が見えた。右手に光る紫色の球をカヌエの胸に打ち込んだ。

 たとえるなら電気。バチリという大きな音。それに合わせてカヌエの体も大きく痙攣する。ノワールはカヌエを左腕で振り払うようにして殴った。カヌエは横に転がる。素早く立ち上がったノワールはワイヤーで鎌槍を引き寄せた。立ち上がらず転がっているカヌエを、鎌槍を握って見下ろす。

「何を、した……?」

「……いずれ貴方は死ぬのでしょうから、教えて差し上げましょう」カヌエともみ合った後だというのに、息も切らしていない。ノワールは静かに微笑む。「それがわたくしの竜としての能力です」

 ノワールはニーズヘッグという竜である。ニーズヘッグという種族の竜の他の竜との決定的な違いは、その嗜好。血を飲み、魂を喰らう彼らは、生気を吸い取る芸当だって難なくしてみせる。

「しかしやはり、人間のものはあまり良いものではありませんね」

 ぐったりとしているカヌエに歩み寄るノワール。死神の鎌はすぐそこにある。エリスが駆け出そうとした頃、カヌエは口角を吊り上げた。

「上等ですよォ……!」

 寝転がったまま懐から何かを出したカヌエは仰向けになり、それらを一気に口の中に放り込んだ。クスリだ。ノワールの深紅の目が僅かに細められる。

「マリィ様! エイジ!」仰向けのまま、カヌエは喚き始める。ノワールもエリスも戸惑って動きが止まった。「ロート! ブラウ! ヴィオレット! スミュルナ! ヴェルデアスル!」

 とうとう発狂した。ノワールはカヌエを殺すべく鎌槍を握り直す。しかしカヌエはまだおかしくなってなどいなかった。

「ノワールに殺された者たちよ! 俺に味方しろ! 俺がオマエたちの仇を取ってやる!」

 喚き終わると、カヌエはゆらりと立ち上がった。その口元は怪しげに緩んでいるが、その目はしっかりとノワールを睨んでいる。

「死者に何を語りかけていたのですか」

「単なるヒッショウキガンですよォ……エイジはそういうのが、好きでした!」

 叫んだ次の瞬間。鎌槍とレイテルパラッシュがぶつかる。金属と金属の擦れ合う音。ノワールの鎌槍も震えている。微動だにしていない、わけでもない。

「確かにわたくしは恨まれてはいるでしょうが」ノワールが勝った。レイテルパラッシュは弾かれ、カヌエは数歩後退する。「先代王竜様から奪った力を我が物顔で行使し、竜の国に侵攻している人間に、彼らが肩入れするとも思えませんね」

 冷徹な本性を露わにするノワールに対し、カヌエはうっすら笑みを浮かべる。

「デ・ス・カ・ラ。キガンしただけ、ですよォ」

 ノワールが踏み込む。振り下ろされた鎌槍。レイテルパラッシュは軽やかに受け流す。ここぞとばかりにレイテルパラッシュがノワールを狙う。が、鎌槍が防ぐ。レイテルパラッシュと鎌槍がぶつかり合う。

「大方、アナタはヴェルデアスルのことも騙していたんでしょォ?」

「聞き捨てなりませんね。わたくしは、落胆していた主上に助言をして差し上げただけです」

「何とでも言えますねェ……本人の力量に合わぬ助言はただの洗脳にしかなりません」

「主上に王座は大きすぎたと?」

「人間よりも寿命が長い竜の国で、ワタクシよりも生きていない、あんな若造に何が出来ますか……」

 激しい剣戟を制したのはノワール。鎌槍がレイテルパラッシュを弾き飛ばした。カヌエはバックパックのカルドに手を伸ばす。ノワールはそれよりも速かった。カヌエの首根を捕まえて床に叩きつける。それでもカヌエは笑っていた。目を見開いて、歯を剥き出しに、酷く壮絶な笑みを顔から消さない。

「では聞きますが、貴方は主上の何を知っているのですか?」

 ノワールが更に力を込めると、カヌエの顔から笑みが消えた。ノワールの顔からも、表情らしき表情が消えている。それが彼なりの怒りの表情だとするならば、鎌槍で斬りかからなかったのは命乞いを聞くためではない。

 カヌエが死んでしまう。呆然と竜と人間の戦いを見つめていたエリスは咄嗟に立ち上がった。離れたところにあるレイテルパラッシュに走る。

(カヌエさんは、二度も私を助けてくれた)

 しかし、レイテルパラッシュはいきなり駆け出してノワールの手中に帰った。彼の手甲に仕掛けてあるワイヤーの仕業である。レイテルパラッシュの切っ先がカヌエを向く。エリスは再びレイテルパラッシュに走った。

(なのに私は、なにもしないなんて)

 愛剣に殺されるとは。カヌエは心の中で自嘲した。死を覚悟した。生を諦めた。しかし、愛剣はカヌエを殺すことを躊躇った。否、レイテルパラッシュを握るノワールの手をエリスが抱きかかえて止めている。しかし、すぐさまノワールに振り払われた。エリスは尻餅をつく。それでもノワールに掴みかかるエリスを見て、カヌエは諦めた生を、覚悟し直す。

 ノワールの額を掌底で突く。力は込められなかったが、案の定ノワールは仰け反ってくれた。カヌエは上半身を起こす。ノワールの首を掴み、逆に彼に馬乗りになる。見ると、彼は驚くほどに深い紅の瞳をしていた。

「ワタクシがヴェルデアスルについて知っているのは、一連の嫡子殺害事件の黒幕であることと、冷酷な従者に利用され殺された少年竜ということだけですかね」カヌエはノワールの手にある愛剣レイテルパラッシュを奪い取る。「兄妹を殺してまで王座を狙う理由も、彼の心中も知らない」

 ノワールは悟ったようだ。静かな顔をしていた。しかしながら微笑すら浮かべていた。

「真の平和の元の繁栄、それこそが主上の望みでしたよ」

「……フン、」カヌエはノワールを睨み付けてレイテルパラッシュを握りしめる。「そんなこと、誰だって望んでいたのではありませんか。少なくともマリィ様はそうでしたが」

 ノワールは諦めたように目を閉じる。カヌエはその胸にレイテルパラッシュを突き立てる。深く深く、怨念と憐れみだけを込めて。

「そこに辿り着くために、誰かが死ぬ道しか選べないなら……辿り着いた平和が(まこと)のものの筈がないじゃないですか」

 声か息かも分からないような声で、そうですね、とノワールが言った。

 そんな、気がした。



                part3

【悲劇の王竜と忠君の策士】

         END


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ