part2 悲劇の少女と背徳の人形
カルティア・ステール・ケンド・ニュッセンベルク・エン・サルフィンアスタルアセス・ブランカ へ
シャムニエが息を引き取りました。
もういいのよ。さすがに死者を生き返らせる秘薬なんて存在しないの。
あなたの家はここよ。
帰って来なさい。
シャムレイ・サルビア・サルフィンアスタルアセス より
――――
白い手袋に包まれた手が、ドアをノックする。
「マリィさまー? 朝ですよォ? 入りますよォ」
ノックをしただけ、返事はない。だというのに子竜五兄妹末っ子のアマリィジュの部屋に何のわきまえもなく入って行くのは白き男。腰には愛剣を下げたまま。
女の子らしいフリルやらぬいぐるみやら黄色く可愛いものに溢れた部屋はアマリィジュの匂いに満たされている。青年は躊躇いもなく黄色の大きなベッドに歩み寄ると、そこに寝る子竜の寝顔を拝むかのように屈んだ。
「おはようございます、マリィさま?」
もぞもぞと布団が動き、彼女はうっすらと目を開ける。ぼんやりとした目で青年を見つめていたが、はっきり見えてきたのだろう。その名を口にする。
「……んんー……カヌエ……?」
「はい、おはようございます、マリィさま」カヌエと呼ばれた青年はにっこりと微笑んで背を伸ばす。「お食事の支度は既に済んでおりますので、冷めない内にお召し上がりください」
うん、と返事をしながらベッドの上で着替え始めるアマリィジュ。当初カヌエはそれを、王族の者がそれで良いのかと咎めたが、彼女には従者がいない。だから誰も咎めないし誰も着替えを手伝わない、だから自由なんだと彼女は答えた。
だからカヌエは何も言わない。それがアマリィジュが生きてきた環境だから、今更変えるのもどうかと思う。かと言って手伝うわけにもいかない。幼く愛らしい彼女だが、体は意外と女性のものに近付いており、恥じらいがあるだろうと手伝わないのだ。
「カヌエは?」
「はい?」
「カヌエは食べたの?」
「まだですけれど」
「冷めちゃうよ?」
「それはアナタのお食事も同じですよォ、マリィさま」
「うん、早く着替えるから待っててね」
「言われずとも待っていますよォ、ワタクシはアナタの従者ですから」
――――
子竜の嫡子を連れて帰れば、報酬として、その子竜から作られた秘薬を貰える。そんな条件の元人間の国で募られた少数精鋭部隊・アポフィライターズ。カヌエはその一員だった。竜の魔力から作られるというクスリを飲み、カヌエの友・シャムニエは頭をおかしくした。日を増すに連れ自我を失い発狂するようになり、アポフィライターズの募集が始まる頃には体も満足に動かせず、寝たきりの状態だった。
秘薬。それがあればシャムニエの頭も体も治る。そう考えたカヌエは、アポフィライターズの募集にすぐに食いついた。元々剣を振るう仕事をしていたから、すぐに入れた。人間よりもはるかに優れた身体能力を持つ竜に太刀打ち出来るよう、シャムニエが服用したクスリと大して変わらないクスリも飲んだ。身体能力が向上するクスリも飲んだ。代償として痛覚を失い、髪や目の色素は抜け、この体はクスリなしでは生きてはゆけぬ体になった。それでも構わなかった。シャムニエが治るのなら。
しかし、シャムニエは死んだ。帰る場所を失った。自責の念から何もかも諦めていたカヌエに、なんとアマリィジュは従者にならないかと誘いをかけてきた。王竜不在で王城は混乱していて、満足に金を払えないかもしれないが、ふかふかの寝床とほかほかのご飯とさらさらの服は用意できると彼女は言った。淋しいからそばにいて欲しい、それが彼女の願いだった。
そしてカヌエはアマリィジュと主従関係になった。儀式や承認を経たわけではなく、お互いの了承の元で。
こうまで主という感覚のしない主も、カヌエにとっては初めてだった。言うなれば妹。インジェリットの某お偉いさんの騎士になった程度の従者経験だが、それでもあの主は自分は主、お前は従者とはっきり区別して従者に接していた。憎らしくなるほどに。
アマリィジュと接しているとき、従者として主に接する感じがしない。兄として妹に接するというのはこんなものなのだろうとも思った。
彼女の兄は彼女に優しく接したのだろうか。
――――
「ヴェルデ兄様はだいじょうぶなのかな」
「あァ、確か……倒れたと」
「うん」
どうやら先程からフォークが進まないのは兄であるヴェルデアスルが原因だったようだ。長く大きい食卓にたった一人と一匹が向かい合って座る。カヌエは紅茶を一口飲んで微笑んだ。
「食べ終わったらお見舞いに行きましょうか」
「うん!」
ケチャップのかかったスクランブルエッグは湯気を立てて輝いている。美味そうだと人は感じるのだろうが、ケチャップの赤がカヌエには血にしか見えなかった。血のようなそれがアマリィジュの口の端に付着している。今指摘するのは止めて、食べ終わったら拭ってやろうとか食べ終わったらヴェルデアスルの部屋とか思考を巡らせながら手を合わせる。
口にする言葉は一つ。
「ゴチソウサマ、でした」
口の端をケチャップで汚すアマリィジュを見てカヌエもナプキンで口の周りを拭う。この動作で自分の口の周りが汚れていることに気付いてくれれば、そう淡い願いを込めながらちらりとアマリィジュを見ると彼女は不思議そうにカヌエを見ていた。カヌエも不思議そうに目を丸くする。
「カヌエってごはん食べ終わるとぜったいにそういうよね……なんで?」
「アキツシマという国を御存知ですか?」そんなことか、そう言わんばかりに柔らかく微笑んだカヌエは解説を始める。「ワタクシが食前食後に必ず言うイタダキマスとゴチソウサマは、アキツシマの初歩的な礼儀作法なのですよォ」
「カヌエってアキツシマから来たの?」
「イイエ?」
「じゃあなんでアキツシマのれいぎさほーを気にしてるの?」
アマリィジュが目を丸くしてカヌエを見つめた。切れ長の筈の竜眼は、他の竜と比べてやや丸みを帯びている。
なんで、そんなことを聞かれたことはなかった。答に困るカヌエはしばらく黙考したあと口を開く。
「小さい頃、ご近所サンがアキツシマの方だったことがありまして。よくお食事を共にしていましたので身に染み付いてしまったようなのですよねェ。やらないのは落ち着かないんですよォ」
「へぇー……お風呂に入らないと落ち着かないのと同じ?」
「お風呂は礼儀作法以前かと思いますが……そんなものでしょうね」
カヌエが苦笑すると、アマリィジュも手を合わせる。ぱん、と音が立った。やたら力の入ったそのやり方があまりに滑稽で何をしようとしたのかカヌエには分からなかった。が、アマリィジュはすぐに答を出した。
「ゴチソウサマでした!」
明るい笑顔、白く輝く空の皿、存在の主張が激しい口の周りのケチャップ。カヌエは思わず吹き出してしまった。何かおかしかったかな、と気にするアマリィジュに謝りながら椅子を立ったカヌエはアマリィジュのそばに歩み寄り、彼女用のナプキンを手にとる。純白のそれは汚れ一つ無く、チャロアイトの国旗が刺繍されていた。忌々しかったそれが、今は主であり、主を庇護するそれだとは。
皮肉に思いながら、アマリィジュに微笑みかける。
「マリィ様、失礼しますよォ」
不思議そうに見上げてくるアマリィジュの顔が愛らしかった。ナプキンに包んだ手を彼女の口元に伸ばし、丁寧にケチャップを拭い去る。
ナプキンを口元から離されると、アマリィジュはナプキンを見た。付着した赤を見て恥ずかしそうに微笑む。
「口元くらい、自分で拭けるよ!」
「マリィ様が自分で拭いてしまっては従者のワタクシの立場がないではありませんかァ」
笑い合う人間と子竜。
その笑い声すら、愛おしい。
――――
「ヴェルデ兄様は優しくて強くて頭もいいの! きっとチャロアイトを守ってくれるよ!」
実の妹アマリィジュはそう言うが、どう、なのだろうか。
紅牙のロート、桜眼のスミュルナ、そして王竜の嫡子と噂されている蒼角のブラウが従者共々相次いで殺害されている。王座を巡る争いや誰か一匹を熱狂的に支持する者による殺害という可能性も少なくない。むしろそれが一番の理由だろう。
長男ロートは王座につくに相応しいその人柄で広く支持され、ブラウはあくまでも『ロートに瓜二つだから王竜の嫡子かもしれない』という推測の域を出ない出自でありながらも、現実的視点や臨機応変に回転する優秀な頭を支持されていた。ヴェルデアスルは幼いながらに威厳に満ちた、しかし寛大で優しく平和を愛する人柄を平和主義者が愛し支持している。雌竜であるスミュルナやアマリィジュに王座が回ってくることは、余程の支持を得なければまず有り得ない。
今残っているのは翠鱗のヴェルデアスルと我が主黄翼のアマリィジュ。アマリィジュが王座を狙っているとは思えない。だから王竜の嫡子兄妹殺害の犯人(犯竜だろうか)ではない。ではヴェルデアスルかと思うとそれも疑問だ。アマリィジュは『わたしに従者をつけないのはわたしがいちばん下でいちばん出来が悪いからだよ』と言っていた。それはつまり一番下の彼女には王座が回ってくることはないということではないだろうか。国民投票で決まるのならともかく、王座は普通、上から順番に回ってくるものだろう。ならば王座を得たい弟妹が支持も得ている兄を殺すのは頷ける。しかし三匹目の子竜であるヴェルデアスルが雌竜であり妹であり彼自身よりも支持を得ていないらしいスミュルナを殺す理由が見つからない。
スミュルナは意外と人気だった?
だからスミュルナの支持者を恐れた?
ヴェルデアスルは個人的にスミュルナが嫌いだった?
ヴェルデアスルを犯人とするには、無理矢理過ぎるような。
ならば外部。外部なら、誰だ。ヴェルデアスルの支持者? アマリィジュを王竜にしたい者? 王竜アマリィジュで傀儡王権を目論む者? 自らが王竜になろうと企む者?
腰に差したレイテルパラッシュが酷く重く感じた。バックに潜ませたカルドが酷く少なく感じた。
前を歩く子竜の背中が、酷く小さくしかし強く見えた。
――――
アマリィジュの細く白く小さな手がいっぱいに伸びてドアをノックする。
「ヴェルデ兄様! マリィだよ! あのね、いま、ちょーしがわるくなかったらおはなししたいの」
カヌエは見た。アマリィジュの目が悲しげに落ちるのを。まさか、自分には強がっていただけでヴェルデアスルとの兄妹仲は上手く行っていないのか?
そんな重ねようとした思考を一気に薙ぎ払ったのは開いたドアとアマリィジュの輝く笑顔だった。
「アマリィジュ様ですね、」ドアを開いたのはヴェルデアスルの従者のノワール。アマリィジュを見た優しい目がカヌエを捉えるときには瞬時に僅かに見張られる。一瞬、警戒しているような冷ややかさが覗いたような。しかし今はそれは全く感じられない。その口から静かに言葉は紡がれる。「そちらの方は」
「カヌエっていうの! わたしのじゅーしゃなんだよ。一昨日なったばっかりだけど、だいじょうぶ、悪いことはしないよ」
最後の言葉に胸を抉られる心地がした。別に、彼女の言う悪いことをやろうとしていたわけではない。彼女の口からその言葉が出てきたことに胸を抉られたのだ。あんな幼い雌竜まで、外部の者を酷く警戒している成竜の都合を理解して、先回りしてしまっている。さも当然のことのように。
竜の国の王座争いは、思ったよりもひどいものだったようだ。
カヌエは呆気にとられていたが、ノワールの視線に気付いて片足を引き頭を下げる。灰色の髪の先が揺れて視界に入った。
「カヌエと申します。人間の分際ではありますが、精一杯アマリィジュ様の従者を勤めさせて頂きます」
頭を上げてノワールに微笑みかけてみる。彼も柔らかく微笑んだ。真意は不明のままだが、とりあえずお許しは頂けたようだ。
ノワールが入り口を避けてアマリィジュを入れる。待ってましたと言わんばかりに駆け込むアマリィジュ。カヌエも続き、ヴェルデアスルの部屋に足を踏み入れる。
「もしもワタクシがヴェルデアスル様やアマリィジュ様に手をかけるような悪党でしたら、貴方がワタクシを斬り殺せばいいだけのコト」すれ違い様、ノワールにカマをかけてやる。通じるようなタマではないだろうが、言うなれば心の広さのテストだとか、そんなお遊び程度。「……ご安心下さい。ワタクシがヴェルデアスル様に手を出す可能性が拭い去れないのは事実ですが、アナタ方がアマリィジュ様やワタクシに手を出す可能性が拭い去れないのも事実」
ノワールの不言の微笑は何を表したのか、カヌエには分からなかった。分からなかったがただ一つ分かった。
この竜は、信用すべきではないと。
元々誰かを信用すべきではない状況。そんな中でもこの竜は、危険だと。不言の微笑が教えてくれた気がした。
――――
「主上、こちらはアマリィジュ様の新たな従者の」
「カヌエ、と申します」
やたら大きなベッドの中にやたら小さく見える少年がいた。ベッドが大きいのか少年が小さいのか、恐らく前者だろうが、それでも少年は決して大きくはなかった。彼がヴェルデアスル。ヴェルデアスルは上半身だけ起こして、先に行ったアマリィジュと話していた。
ノワールの紹介を遮って名乗る。名乗るくらい自分でも出来ます、それとも主の兄の自室では話すことも許されぬ程ワタクシの身分は認められていないのですか。思考がひねくれていると言うのは結構。少し苛立ったのは事実なのだ。
「新たな、ね。父様もマリィにだけは従者をつけないで、差別もいいところだよね。スミュルナだって、つけてもあんな従者だし」
「……あんな、とは?」
「知らないの? エイジ=コトトギ=リュネットウ」カヌエは自分の目が見開かれるのを感じはしなかった。なんとか、抑えられたのだろう。ということは、我が友エイジが主従すら超えて愛した主というのは桜眼のスミュルナだったのか。つまり自分は友の愛した人の命を狙っていたわけで。情報がないというのは恐ろしいことだ。自分に嫌気がさしたところでヴェルデアスルの話に耳を戻す。「……先日、我が妹スミュルナが殺害された。従者がいるにも関わらず、ね。僕はとても悲しくて……だからマリィを守る君が来てくれたことは嬉しいよ」
ヴェルデアスルは顔色の悪い顔で微笑む。兄妹殺しの犯人かもしれない恐ろしき王竜のそれではなく、優しい兄の顔がそこにはあった。
カヌエは安堵したが、スミュルナの話が出たことでアマリィジュの顔が悲しげに曇る。そんな妹の顔を一瞥しながらもヴェルデアスルはノワールを向く。
「ノワール、そんなに警戒しないでいいよ」
「しておりません」
「あはは、僕を守るためにはいつだって警戒を怠らないって言ってたのに」
「…………主上……」
「ごめんごめん。僕も、彼は大丈夫だと思うよ」
アマリィジュがばっと顔を上げる。ヴェルデアスルはノワールに得意げに目を細め、アマリィジュに優しく微笑みかけ、カヌエに無邪気に口元を緩めた。
「ドアのノック、マリィにやらせたでしょ。相手が僕だから正しい判断だったと思うよ。マリィもドアのノックとか呼びかけくらい自分でやりたかったでしょ」アマリィジュは大きく頷くのを見たあと、ノワールを見て笑うヴェルデアスル。「ね? いい従者だよ」
「では、ドアのノックを全てやってしまうわたくしはそうではない、と」
「まさか、ノワールは僕の自慢の従者だよ。でもまぁ、カヌエみたいのも嫌いじゃないよ」
視界に入る黒に飽きたらカヌエにして、視界に入る白に飽きたらノワールにしようか、なんて冗談を言って笑うヴェルデアスルと、ノワールはかたくるしくてこわいからやだぁなんて笑うアマリィジュ。兄妹とは微笑ましいものだ、とカヌエはつくづく思う。
頭の良い兄と無心に兄を慕う妹の兄妹プレーにもノワールはたじたじ、なようだが、恐らく兄妹プレーにではなくヴェルデアスルにたじたじなのではないだろうか。主だし。
しかし、面白いくらいに場の雰囲気が暖かいものになった。こんな自分が兄妹とノワールのやりとりを微笑ましく思えるとは。アマリィジュも笑顔である。やはりヴェルデアスルは気を利かせたのだろうか。だとしたら、慕われるのも納得出来るような。
それで、とアマリィジュはいきなり話を変える。
「ヴェルデ兄様はどうしたの?」
「どうしたの、って、何が?」
「病気、だいじょうぶ?」
「病気なんて大層なものじゃないよ。呪い、みたいなんだ」
「ノロイ?」
首を傾げるアマリィジュにヴェルデアスルは神妙な面持ちで頷く。
「……エイジ=コトトギ=リュネットウの話をさっき言ったでしょ。実は、僕の妹スミュルナを殺したのは彼で、僕に呪いをかけたのも彼だ」
今度ばかりは流石に抑えられるわけがなかった。カヌエは目を見開き、気付けば声は出ていた。
「馬鹿なッ! エイジは……彼はスミュルナには忠実な従者だったと、聞きましたが……」
「王竜がつけた、それもリュネットウの従者となれば、主殺しの罪はただの彼の罪だけではなく、王竜の罪ともなる。口外は厳禁だよ」
ヴェルデアスルの声は静かに落ち着いていた。アマリィジュは目を見張ってヴェルデアスルを見つめていて、ノワールの顔は変わらない。アマリィジュには早い話ではないだろうか。案外、王竜はそう思ったからあらゆることにおいてアマリィジュを兄や姉とは違う環境に置いたのかもしれない。
それにしても、エイジが主殺しだと? ヴェルデアスルの声音とは正反対に、カヌエの心は波立つ。あの、恋を恋と判らず忠誠心と勘違いしたままずっと主に尽くした友が? のた打ち回って死んだのは、罪に対する罰か? カヌエが信じ切れていないことを感づいたのだろう、ヴェルデアスルは続ける。
「彼の友人に、僕達子竜の命から作る秘薬を欲している者がいたらしい。だから僕は、エイジは彼のためにスミュルナを殺したのだと……そう信じたい」
嘘だ。どこで、漏れた。
カヌエは言葉を失う。
シャムニエがクスリに狂ったことは言った。ならば、そこから俺が秘薬を求めると思ったのだろうか。それともシャムニエの友人の俺のために秘薬を?
あんなに想っていた主を殺してまで、か?
待てよ。
「カヌエ?」
アマリィジュの声。反応なんて、する暇はない。
これは、スミュルナ殺しの犯人(竜?)の捏造の情報なのではないか。ヴェルデアスルも踊らされているのかもしれないし、或いは、ヴェルデアスル自身がという可能性も捨てきれない。だがそれならば先程見せた兄の顔は何だったのだ。アマリィジュに対してのみ? スミュルナのことは嫌っていた? 姉を嫌う兄なんて無心に慕えるか? 違うだろう。それともアマリィジュすら純真過ぎて騙されているのか。
分からない。視界が、揺れる。
「ノワール」
ふと足元がふらついて、一瞬、上が下だか下が上だかとにかく何が何だか分からなくなった。
「大丈夫ですか」
「……ア」やっと上下左右を認識出来るようになったと思ったらノワールがそこにいた。というかノワールに支えられていた。思わず寒気がして、彼から離れてみたもののふらつく足は案の定壁にたどり着いてくれた。壁に寄りかかりながらへたり込む。「……男に支えられるとは、何というチジョク……」
駆け寄って来てくれたアマリィジュに大丈夫です、と返してみたが、鏡に映った自分の顔は血色が悪かった。まずい、よりによってヴェルデアスルの前でこんなことになるとは。自らの恥に耐えきれず顔を手で覆っていると、手が伸びてきた。おい袖が黒いぞ。
「立てますか」
「……素直にとると思いマスカ……?」
「主上が外に連れ出せ、とのことで」
「気分が悪いみたいだし、外の空気を吸ってくるといいよ。僕はもう少しマリィと話したいんだ。だから悪いけど、ノワールに付き添って貰って」
ここで嫌だと言ったらノワールではなくヴェルデアスルの厚意を無下にしたことになる。
大人しく黒い袖の手をとった。
――――
ヴェルデアスルの言動が全て偽りだとしたら、ヴェルデアスルがスミュルナ殺しの犯人竜となる。
ヴェルデアスルの言動が全て真だとしたら、スミュルナ殺しの犯人竜がエイジとなる。
主を想って死んだ我が友エイジよ。どちらを、信じろと。
――――
「子竜の秘薬で友人を救いたいとは」隣で竜の国を吹き抜ける風に髪を遊ばれるノワールの言葉に驚いた。非難するつもりかと思ったが続く言葉に更に驚いた。「今もお思いですか」
カヌエは目を見開いてノワールを見る。
「何故知っていらっしゃるんですか」
「犯人竜の部屋の捜索くらい当然でしょう。……とは言え、今のは賭けでしたが」
「手紙には長ったらしい本名が書いてありますからねェ。やはりアナタはアタマが良いようで」
「質問にお答え下さい。主上やアマリィジュ様を如何なさるおつもりですか」
「そうですねェ……」シャムニエの顔が頭に浮かぶ。強く美しかったシャムニエ。薬に狂ってしまっても、美しかった。でも。「あの兄妹の暖かな光景を見てしまっては、友人を助けるためにあの光景を壊すのだと思うと、どうも、ネ。何より我が友人は、既に、死にましたし」
カヌエも竜の国を吹き抜ける風に髪を遊ばれながらもへらりと自虐的に笑ってノワールを見る。安堵の微笑を浮かべるノワールを予想して。
しかしそこには、予想したノワールの顔はなかった。
「では、子竜の魔力から作った秘薬が死人をも蘇らせるとしたならば、欲するのですか?」
この男は本当に、心臓に悪い男だと思う。カヌエは思わず、は? と声を漏らしてしまった。
「それは、どういう……」
「取引を、しませんか」
深紅の竜眼を、恐ろしく感じた。
――――
『シャムニエ』
その名前を呟けば俺は強くなれた。
お前はいつだって強く美しかった。
『シャムニエ』
その名前を呟けば俺は誰だって殺せた。
お前は薬に侵されても強く脆く美しく醜かった。
『シャムニエ』
その名前を呟けば、痛みなんて消え失せた。
お前が自己嫌悪に病むというのなら、俺はいつだって駆け付けてお前を抱き締めてやる。
『シャムニエ』
その名前を呟けば俺はどんな苦痛にだって耐えられた。
お前の体が血を運ばなくなって冷めてしまったというのなら、俺は俺の血をお前に口移しで与えて抱き締めて温めてやる。
『シャムニエ』
その名前を呟けば俺は何にだってなれた。
お前が狂った薬に狂う麻薬中毒者にも、愛おしく思った少女竜を殺すことを厭わない冷血男にも。
『シャムニエ』
その名前は、俺を何にでも変えさせられる、美しい魔法の名前だった。
――――
白い手袋に包まれた手が、ドアをノックする。
「……シャムニエ」
ノックをしただけ、返事はない。だというのに子竜五兄妹末っ子のアマリィジュの部屋に何のわきまえもなく入って行くのは白き男。腰には愛剣を下げたまま。
女の子らしいフリルやらぬいぐるみやら黄色く可愛いものに溢れた部屋はアマリィジュの匂いに満たされている。青年は躊躇いもなく黄色の大きなベッドに歩み寄ると、そこに寝る子竜の寝顔を拝むかのように屈んだ。
「昼食の睡眠薬は、よく効いたようですね」
竜とは言えど幼い子竜には。カヌエは眉尻を落として微笑む。
日が沈んでまだ早い。そろそろ夕飯の時間帯だ。アマリィジュの夕飯はいらないと既に言ってある。
「ごめんなさい、マリィ様」
この少女の何と不憫なことか。自分が自分でなかったら、もっとたくさん愛して慈しんだのに。自分が自分だから、俺がカルティアという人間だから。
許してくれとは言わない。怨みたければ怨めば良い。
だからせめて、シャムニエを返して欲しい。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
腰のレイテルパラッシュを静かに抜く。
「ん、ん……カヌエ……?」 起きてしまったようだ。ああ、起きなければ楽に逝けたのに。「どうしたの、カヌエ……剣抜いて……」
「子竜の命を狙う輩が城に潜入したとのことで、全力を尽くさせて頂きますが一応、逃げる準備はなさって下さい」
「わかった」
あくまで落ち着いて、微笑んで、安心を与えるべく言ってみた。嘘というのは案外ぺらぺらと出てくるものである。否、子竜の命を狙う輩は今ここにいるのだが。
アマリィジュはベッドから出て姿見の前に立ち服を整えている。その背後に立つ。自分の顔は何も思っていない顔だった。アマリィジュの顔も何も思っていない顔だった。
「マリィ様、どうかお許し下さい」
しゃがんで、レイテルパラッシュを持っていない右手でアマリィジュを背後から抱き締める。今更許しを乞うて、どうすると言うのだろうか。
レイテルパラッシュを持つ左手を構える。
「うん」
鏡を見た。心臓を抉られる心地がした。
「わかってたよ、せんにゅーしゃがカヌエだって」
アマリィジュは、胸をレイテルパラッシュで貫かれながらも微笑んでいた。小さな体が力無く崩れ落ちる。
今更後悔なんて、したくなかった。
「たのしかった、し、うれしかった、よ……カ、ヌエ、と」
したくなかったのに。
「…………カヌエは、ワタクシの略称です」口をついて出たのはそんな言葉だった。アマリィジュの体に刺さったままのレイテルパラッシュを抜いたら、彼女の体から血が溢れた。気にしないでレイテルパラッシュを捨て、右手で支えていたアマリィジュの体を両手で抱き締める。白いドレスシャツはきっと血に染まっただろう。「ワタクシの名前は、カルティア。カルティア……イエ、もう、ルティで構いません」
胸に溢れるこの思いは何だろうか。胸を締め付けられるような、体中が疼くような、泣きたくなるような、よく分からないこの思いは。
「ルティ……ルティ、あったかい」耳元で囁くように紡がれる声はか細い。元気のかけらも無邪気の片鱗も見当たらない。「あのねルティ、あったかいから、ずっとこうして、て……」
冷たくなっていくその体の中で、血だけが温かい。何故、自分の体は温かいのだろう。何故アマリィジュの体は冷たいのだろう。何故、何故。何故レイテルパラッシュは彼女の体に刺さったのだろう。何故。
「今ね……すっごくねむいから、すこしねむるから、また、いつもみたいに、ベッドに、起こしに、来てね……?」
俺の腕が彼女を抱き締める力は段々と強くなる一方で、彼女の腕が俺を抱き締める力は弱くなる。
「ア……、あぁ…………」
後悔なんてしていない。していない筈だ。なのに胸がきつく締めつけられる感じがする。流れ出して行く血の量に比例するように、弱くなっていく彼女の鼓動に反比例するように、きつくきつく、苦しく。痛みなんて、しばらく遠ざかっていたのに。痛い。胸が、きつく締めつけられて、痛いという感覚が鮮やかに蘇る。
ああ、痛みというものはこんなにも耐え難いものだったか。
「ああああああぁぁぁぁッ…………!」
胸に溢れるこの思いが後悔と言うのなら、俺は、どうすれば良いのだろうか。
――――父の罪は、子が償え。その命を以てして。
そう、もう、戻れやしない。
――――
「アマリィジュ様を、殺して下さい。その代わり、わたくし共が秘薬を作って差し上げます」
ノワールの取引の内容は、それだった。アマリィジュの魔力で秘薬を作ってやるから、アマリィジュを殺せというもの。
カヌエは眉を顰める。
「……正気、ですか」
「ええ」ノワールは頷きながら目を伏せた。「ヴェルデアスル様はああ見えて未だに王座に着かれることを躊躇っていらっしゃいます。アマリィジュ様を殺すことで王座に追い詰めます」
その声音も目も真剣過ぎてカヌエは再度尋ねる。
「もう一度聞きますが、正気ですか? 先程のヴェルデアスル様とマリィ様のご様子をアナタもご覧になったでしょうに。主を想う従者にそんなことが出来ますか」
「……ロート様にブラウ様、そしてヴィオレット様。御二方を殺めた犯人竜がアマリィジュ様の支持者だとしたら、次に狙うのはヴェルデアスル様ということは確実です。相手は、あのロート様やブラウ様、そしてその従者さえも抹殺した猛者です。ヴェルデアスル様とわたくしで適う筈がありましょうか」
「アナタ、強そうですケド」
「父なる王竜様は次代王竜に期待出来る順に強い従者を付けて行きましたからね」だからアマリィジュ様に従者はおらず、スミュルナ様の従者はあれだったと言ってから失礼、と謝るノワール。「……話を戻しましょう。そして仮にヴェルデアスル様とわたくしが殺されたとしましょう。アマリィジュ様はこのチャロアイトを上手く治めることが出来ないであろうことは事実です」
今まで芝居がかったような、偽りのような言動でしかなかったのに。ノワールの深紅の眼が、真剣みを帯びた、そんなような気がした。
「……冥府でヴェルデアスル様が、あのときに王座に着けば良かったと……後悔することだけは、避けたいのです」
「ナルホド、その先まで見ていらしたのですか。前言撤回させて頂きます」カヌエは腰のレイテルパラッシュに左手を添え、踵を返す。「お互いにオイシイじゃないですか。その取引、乗らせて頂きますよォ」
カヌエのレンズはシャムニエの像しか結ばない。カヌエの網膜はシャムニエの像しか脳に伝達しない。カヌエの目には、シャムニエしか映らない。
だからこそ、ノワールの微笑みなんて気付ける筈がなかった。
――――
「ご苦労様、カルティア」
アマリィジュを大切に抱きかかえ、ノワールに指定された部屋に行くとそこにはノワールではない竜もいた。
その名はヴェルデアスル。豪華でもないが質素とも言いきれない椅子に座り、ノワールはその横に立っていた。
「……何故、アナタが……?」
「アマリィジュ様の心臓は確かに止まっていますね」
目を見開いてヴェルデアスルに釘付けのカヌエなんてお構いなしにノワールがアマリィジュを見て言い放つ。その深紅の眼に、あの真剣みや主を思う感情等なかった。ただただ冷酷にアマリィジュを見ていた。
「ノワール、これはどういうことですか? 何故そこにヴェルデアスル様が……」
「ぷっ……あっはははは!」
唐突に笑い出すヴェルデアスル。時は夜、結構響くのではないか。そんなことも気にせずヴェルデアスルは大笑いした。
「マリィを殺しちゃあ駄目じゃないかカルティアぁ……殺したら魔力はなくなるんだから、秘薬は作れないよ?」
意味が、分からない。殺せ、との話だった筈だ。
まさか、俺は、騙された……?
視界が揺れる。ヴェルデアスルの笑い声が揺れる。抱きかかえたアマリィジュの遺体が酷く重く感じた。
「カスカヌエセス、ヴァルム大陸のある地方ではその名は人形を指すらしいよ、カスカヌエセス! 君は本当によく踊ってくれる、素晴らしく愚かな人形だよカスカヌエセス!」ヴェルデアスルは腰のベルトを抜き放つ。翠鱗の鞭はカヌエの足元を抉った。「僕は王座に着くことを躊躇ってはいないよ! スミュルナを殺したのはエイジではないよ、僕さ! エイジを殺したのも僕さ! ロート兄さんもブラウ兄さんも、殺したのはみんな僕さ! 兄妹は大切だよ。だが、民に慕われる王竜になるためには、皆邪魔だったんだ……ねぇ、解ったかいカルティア? 君は、騙されていたんだよ!」
胸を襲ったのは痛みではなかった。痛くはない、だが重く、ただ重く胸を揺らした。
「…………お前が王座に着く道に、マリィ様が何の邪魔をしたと……」
怒りと屈辱に低い声は震える。アマリィジュの遺体を壁に寄りかかるようにしてそっと置くと、カヌエもレイテルパラッシュを抜き放つ。
「僕を怨んでいるの? 誤解しないようにね、マリィを殺したのは君だよカヌエ」
「俺の質問に答えろヴェルデアスルッ!」
激昂するカヌエをヴェルデアスルは冷めた目で見る。
「……血縁というのは一国民よりも弱点になりやすいんだよ。マリィが人質にでもなったらどうする? 僕は今更そんな出来損ないどうだっていいさ、国や国民の方が大事だ。でも悩みもせずにマリィを切り捨てたら、僕が冷たい王竜に思われるじゃないか」
シャムニエを蘇らせるためには秘薬が必要で。秘薬を作るためには子竜の魔力が必要で。愛おしく感じたアマリィジュを殺すことが必要で。しかし殺したら魔力はなくなるから生きたまま魔力を抜くことが必要で。しかし俺は言われたまま殺してしまって。
つまり俺は、都合の良いように利用されただけで。
情報を集めておけば、惑わされることはなかっただろう。
惑わされることがなかったら、アマリィジュを殺すことはなかっただろう。
友の仇の野望に加担するなんて愚かな真似を、せずに済んだだろう。
「キサマァア! 命を……何だと思っている――ッ!」
カヌエは床を蹴る。八つ当たりなのかもしれない。レイテルパラッシュが唸りを上げた。構わない。一直線にヴェルデアスルに駆ける。虚しかった。ノワールなんて見ない。ただ、殺したかった。余裕の笑みを浮かべるヴェルデアスルの顔がそこにある。殺したかった。そこにある。殺したかった。殺す。殺す。殺す。殺す。殺せ。殺してしまえば良い。
殺す。この言葉がカヌエの胸を埋め尽くした頃、血塗れたレイテルパラッシュが振り上げられた。
part2
【悲劇の少女と背徳の人形】
END




