part0 悲劇の兄君と日陰の実弟
いつからだっただろうか。
俺を見るブラウの目が、兄でなく、主を見る目になったのは。
俺を見るヴェルデの目が、兄でなく、敵を見る目になったのは。
俺を見るスミュルナの目が、兄でなく、他竜を見る目になったのは。
俺を見るマリィの目が、兄でなく、王竜を見る目になったのは。
いつから、だったのだろうか。
――――
王竜エイブラハムの死の報せが入ってから、一週間は経っただろうか。王竜の嫡子四兄妹の中で、一番の年長者である俺は、王竜の仕事をこなしていた。とは言え、あくまで王竜代理。チャロアイト国議会の議員の任命や、罪人への刑罰の承認などの権利はなく、地方都市から送られてきた報告書や手紙に返事を書いたり、印鑑を押したり、次期王竜選挙の話し合いに顔を出す程度である。
当然と言えば、当然だった。二番目に年長者である弟のヴェルデでも、年よりも大人びていて、政を考えているといえど、まだ十五歳。俺とは五歳しか違わず、五年なんて竜の物差しで測れば小さすぎる差ではあるのだが、それでも長兄の俺がやることになった。議会の決定だ。
王竜の死の混乱は未だに続いているし、父を失った悲しみはヴェルデと妹スミュルナを部屋に閉じ込めた。従者のついていない二番目の妹のマリィは、俺か、俺の従者のブラウのそばにいるように言っているから部屋に引きこもったりはしていないが、迎えに行かなかったら出てこない。
王竜の嫡子四兄妹の絆は、父の死により崩れ去るほどもろいものだった。
チャロアイトでは高貴な色とされている真紅の絨毯が敷かれた王竜執務室には、使い古された大机が一つ、一回り小さい机が二つ置いてある。大きな窓には晴れ晴れしい空が映り、日光が入ってきて執務室を照らす。天井や壁には魔導機灯が備え付けられているが、昼間はそれらは必要ない。歴代の王竜はここで執務をこなしてきた。血に汚れた日もあっただろう。
「……今日も、ヴェルデとスミュルナは部屋で泣いているのか」
弟と妹を思い出すと、書類を捌く手が止まってしまった。停止した理由だと言わんばかりに、書類整理をしていた従者のブラウに尋ねる。ブラウは整理の手を止め、窓の方に目をやりながら口を開いた。
「恐らくそうでしょう。ロート様がこうして責務を果たしているのに対し、悲しみに暮れるだけの自分たちへの恥はないのでしょうか」
「俺はそういう意味で言ったんじゃない。あいつらはまだ子竜だ。仕方ないだろう」
「それを言うならロート様も子竜ですが」
「お前も子竜だろ」
お互いを鼻で笑い合うと、俺とブラウは仕事を再開する。決して明るくないが、大して重くない空気の執務室には、紙が擦れる音のみが流れ続けた。
「なぁ、ブラウ」
「何でしょうか」
俺は再び手を動かすのを止め、ブラウを見やる。俺に対してブラウは手を止めず、書類を整えながら返事をした。蒼の目はこちらを見ない。
これが普通の主従の関係であったならば、俺はブラウを叱りつける……否、最早俺は王竜に等しい地位なのだ。叱りつけるだけでは済まない。ブラウは解雇だろう。
「俺の次に王竜に近い嫡子は、誰だ?」
俺はブラウの無礼を許し、堅苦しいブラウも俺に対してはそんな甘えを見せる。
「逃げるおつもりですか?」
「違うが……」
「……ヴェルデアスル様では、ないかと」
「戯れ言はよせ」
否、それは甘えなどではない。
赤き髪、赤き目、鋭い牙を持った、俺。髪を伸ばし、腰には剣を下げている。
青き髪、青き目、鋭い角を持った、ブラウ。短い髪をオールバックにし、メガネをかけている。
全く対照的でありながら、顔立ちだけは恐ろしくよく似ている。ブラウを見ると、俺は色違いの俺を見ているような錯覚に陥る。ブラウだってそうだろう。
俺達は、普通の主従の関係ではない。
「お前だろう、ブラウ」
ごく普通の、兄弟の関係なのだ。
――――
……二十年前。
「……こんなことがあってよいのでしょうか……」
「どういうことだ?」
「第一子が……第一子が、第二子と同時に生まれる、など」
「つまり、双子ということか」
「はい……年の差はないなんて、王位継承でもめるに決まっているではありませんか……」
「もめてはいけないのか?」
「私は、我が子が殺し合うような様は見たくはないのです! あなたは違うのですか?」
「…………」
「どうしましょう……」
「既に鱗に色は現れているか?」
「いいえ……二匹とも、まだ真っ白です」
「一匹だけ国民に見せればいい。成長して、どちらが王竜に相応しいかを見極める」
「相応しくないもう片方はどうするのですか」
「…………この国の王族のしきたりには、いくつか理解しがたいものがあってな」
「え……?」
「守らねば、女神の守護が絶え、国が滅ぶとされている。そんなしきたりの中の一つに、審判の崖を使うものがある」
「罪人の生死を決める場所ではないですか! そこで何を……」
「端的に言えば、殺し合いだ」
「そんな……あの子達に、殺し合いをさせるのですか……私達がそう、させなければならないのですか……?」
「……これは、避けては通れぬ道なのだ。私もそうして、弟を殺した」
――――
「王竜には、兄さんがなるんでしょう」
翌朝、やっと食卓に顔を出したヴェルデは、開口一番にそんな言葉を俺にぶつけてきた。金色の目がじっとりと俺に向けられている。態度だけは大きく生意気だが、やはり弟、椅子に座っていても、俺よりも身長も小さいし肩幅も狭い。そして、肉を食わせたくなるほど細い。なよなよしい印象の弟もそれを気にしているのか、彼の緑がかった金髪の剛毛は今日も野生的に立っていた。
純白のテーブルクロスが敷かれた長机。誰が置いたのか、中心には青紫色のクロッカスが束になって飾られている。ヴェルデとは、その長机越しに向かい合っているものだから、じっとりとした視線が痛い。あどけない顔立ちには似合わない、上機嫌でも不機嫌でもなければ、喜びでも悲しみでもない、そうなるのが当然だと言わんばかりの、冷めた声音。対照的にほかほかと湯気を立て、フォークを刺せばふんわりとろけてきそうなオムレツが俺の前にもヴェルデの前にもある。
しかし、好物のそれに手もつけず、じっと俺を見つめて答えを待つ弟に、俺は出所の分からない虚無感に包まれた。
「国民投票で、俺の票が過半数を越したらな」
「そんなことは分かってるよ。僕が聞きたいのは、仕組みじゃなくて、世論とかを含めてってこと」
「ヴェルデが当選することだってないわけじゃないんだから、覚悟はしておけよ」
「僕の得票数が兄さんを上回る訳ないじゃん。ばっかじゃないの」
ヴェルデはいつものような生意気な笑みを浮かべると、やっとオムレツに手をつけた。ヴェルデの笑顔に、少しだけ安心する。今の笑顔には、邪気や悲しみを感じられなかった。生意気な笑顔に、普段の調子に戻ったヴェルデを感じたからだ。
安心した俺もやっと食事に手をつける。オムレツはヴェルデの好物でもあるが、ブラウやマリィの好物でもある。ここまで来ると俺やスミュルナも好きでなければいけない気もしてくるが、そういうわけでもない。
俺のオムレツのケチャップはヴェルデのオムレツのケチャップよりも多い。俺の好みを知り尽くしたコックの気遣いなのか、いたずらなのか、はたまた単なる偶然なのかは知らないが。
いきなりドアの開く音がした。誰か、など、見なくても分かる。ノックをしなくてもいい立場の竜で、この時間に来る竜といえば、マリィとブラウだけだ。
「あーっ、ヴェルデ兄様!」
扉を見ればそこには、金色の目を爛々と輝かせるマリィがいる。つぶらな目や小さな唇、顔立ちにはまだまだ幼さが残り、体もまだまだ小さく細い。ふわふわとした金髪のロングヘアーを揺らし、無邪気なマリィは大はしゃぎでヴェルデに歩み寄る。ヴェルデは笑って彼女を抱き締め、オムレツを見せた。オムレツを見たマリィは羨ましがり、ヴェルデにねだり、ヴェルデはスプーンでオムレツを掬い、マリィの口に入れてやる。マリィは満足げに微笑み、ヴェルデはそれを見てマリィに座るよう促した。仲の良い兄妹の様子を目の前で披露され、俺とブラウは顔を合わせて微笑む。無論、幸せな意味で、だ。
「では、コックにマリィ様の分も用意するよう言ってきま……」
「えーっ、ブラウ兄様行っちゃうのー?」
「ノワール、ノワール、ブラウ兄さんの代わりに、マリィのごはん持ってくるよう厨房に伝えてきてー」
ドアの向こうにはヴェルデの従者のノワールが待機しているらしい。ヴェルデが叫ぶと、『かしこまりました』というノワールの声が聞こえてきた。ヴェルデとマリィは満面の笑みでブラウを攻める。その笑みが意味することは、言わずと伝わるのだ。ただ、座れ、と。折れたブラウは、ヴェルデの隣のマリィの向かい、つまり俺の隣に座る。照れ隠しか何なのか、咳払いを一つして、手袋を取った。
「今日は、ブラウもマリィも好きなオムレツだぞ」
「見れば分かります」
「きょうは、ロート兄様の好きなケチャップがかかったオムレツだよ!」
「食べてるから分かってるよマリィ」
「マリィ、ロート兄さんはたくさん食べるから、ケチャップを掬ってあげてね」
「うん!」
「ケチャップのみ舐めるほどプライド捨ててないぞ、俺は……」
「舐めたいのは本音なんですね……」
「誰もケチャップだけじゃお腹は膨れないことをつっこまないんだね」
「ケチャップだけでもお腹が膨れるくらいたくさん舐めるんだよ!」
父なる王竜の死により、受けた衝撃、崩れた絆、壊れた日常、失われた幸せ。元に戻るとまでは行かずとも、傷は、少しずつ癒え始めていた。
――――
……十年前。
「勝った方が王竜になれるのですか?」
「俺と、ブラウの、どちらかが?」
「正確には、お前達のどちらかと、お前達の弟や妹達の中の一匹が王竜になれるのだがな」
「何で俺達だけ?」
「お前達が同時に生まれたからだ」
「あーもう、ブラウもう少し待ってればよかったのに」
「ロート兄さんこそ、兄貴面してるんだからもう少し早く生まれてくれればよかったのに」
「どうすれば、そのどちらかに、なれるのですか?」
「審判の崖を知っているだろう。罪人が生死を決められる場所だ。次のお前たちの誕生日に、あそこで決める。手段はそのとき教えよう」
――――
闇に包まれた王城の一室にて、笑う少年と静かに佇む青年の影。
「やっぱり、長兄は手強いよねえ」
夜の王城は、魔導機灯がないといとも簡単に闇に包まれる。闇は少年と青年の顔を明らかにさせなかった。
「やはり、同じ若輩者でも、少しでも大きい方に国を任せたいのが国民の本音でしょう」
「そうだよねえ、成竜から見れば王竜の嫡子四兄妹なんて、結局みんなお子様だもんね」
当事者でなければ関係者でもない、他人事だと言わんばかりに少年はケラケラと無邪気に笑う。青年はただ静かに佇んでいる。いきなり少年が笑うのをぴたりとやめ、そこでね、と切り出した。
「君たちに、長兄の暗殺をお願いしたいんだ。報酬は弾む。断らないよね?」
暗闇に隠されていた、三匹の雄竜達は頷く。少年も頷いて、満足げに微笑む。
「断ったら殺されちゃうもんねぇ。ああ、恐がらないで、僕はそんなつもりないんだけど。これ、前金ね」ずしりと重い巾着袋をリーダー格の雄竜の手に乗せ、少年は首を傾げながら笑いかける。「大丈夫、長兄は弱いし、従者もいないから、失敗はしないよ」
――――
……十年前。
「来たか、ロート、ブラウ」
「はい」
「お父様、ここで何を……?」
「端的に言う。お前たちで殺し合うんだ」
「え……?」
「勝った方には王竜、負けた方には死。生まれてきたことも生きていたことも、消されてしまう。ややこしくなくて、いいだろう」
――――
「お父様は、本当は俺とお前のどちらかを王竜にするつもりなどなかったんだ」
愛剣を枕元に、従者という名の弟と共にベッドに入った俺は、自分でも驚くくらい穏やかな声でブラウに言い放った。
幼い頃からこの部屋は俺とブラウで共用していて、クローゼットと姿見は一つだが、机と椅子だけは二つ用意されていた。ベッドも勿論ダブルベッドだから、二匹で入っても余裕がある。ふかふかのベッドに横たわったブラウは、伊達眼鏡を外し、髪も下ろして、最早昼の彼とは別人である。枕元の橙色の暖かな魔導機灯の光が照らし出したブラウの顔は、ぽかんとしていた。
「……と、お父様に言われたのですか?」
「いや、俺の推測だよ」
愛剣を手に取り、少しだけ抜く。刀身に映った俺の紅い瞳はやはり、自分でも驚くほど穏やかだった。
「お父様は、長兄である俺を『次期王竜にしようか』と言ったことはあったが、『次期王竜にする』と宣言したことは一度もない。選挙なんてのはお父様が次代王竜が誰になるか決めなかったから行われるようなものだ。王竜は『王竜にふさわしくないと考えられる』という理由だけで、嫡子から王位継承権を奪う手段を持つ。大抵はそうして王竜候補は一匹に減らされるから、選挙は通常なら行われない。俺を王竜にしようと始めから決めていたなら、さっさと決めて行動に移したはずだろう?」
刀身をしまうと、カチン、と完全にしまえたことを確認するかのように金属音がした。ブラウに視線を向ける。ブラウはまだ、こちらの意図が読めない顔をしている。
「お父様はまだ悩んでいたんだ。或いは、国民に決めてもらおうと思っていたのかもしれないな」
「ならば何故、次期王竜候補はロート兄さんであることをほのめかす必要があったのですか」
「あくまで俺の推測だが」俺は愛剣を枕元に置き、ブラウから視線を逸らす。「王竜候補を殺してしまおうなんてことを考えてる物騒な輩から、お前たちを守るためなんじゃないか。お前を含めた嫡子五兄妹の中で一番強いのは、俺だろう。強いと言ってもたかが知れてるが……変にほのめかして弟妹たちを危険に晒すより、物騒な奴らの物騒な行為の矢印が向かう方向を、俺一人に集中させようとした」
見ると、ブラウは目を見開いている。微かに肩も震えている。俺は驚いて、自分の目が見張られるのを感じた。
「それを知って尚、兄さんは王竜になる姿勢を続けてきたのですか……!」
「言っただろう、俺の推測だって」
「……訂正します。そんな推測が出て尚、王竜になる姿勢を続けてきたのですか?」
「王竜になろうとしているのは本当だからな」
普段は重くて喉にも上がってこない言葉が、案外、すんなりと出て来た。平然と言ってのけて、ブラウもその空気に呑まれて落ち着いてくれるかと思ったが、ブラウはまだ納得していないようだった。
「王竜になろうとする、その行動の理念は何なんですか。刃を向けられる危険に立ち向かえるほどの理念は、何なんですか」
「王竜って、大変だろう? 自由はないし。恐らく政略結婚になるしな。ヴェルデはエリスと、スミュルナはエイジと結ばれてほしいし、マリィの恋はこれからに期待だが。ちなみにお前はヴィオレットで確定されてるからな?」
「ちゃんと答えてください」
ブラウの真っ直ぐな目に耐えきれなくて、俺は黙って魔導機灯を消した。部屋に闇が降りる。ブラウの困惑した慌てた声がして、俺はおかしくて笑った。暗闇の中でも俺を見つけ出し髪を引っ張ってくるブラウを蹴り飛ばす。ぼふ、という音を立てて、俺一人では広すぎるベッドにブラウが突っ込んでいるのが分かる。また笑った。今度はブラウも笑っていた。殺し合うことになるとは、兄と、弟と、呼び合えなくなるとは知らず、無邪気に遊んでいた子供の頃のように、ひとしきり笑った。お互いの笑い声が収まってくる頃、痛む腹筋を押さえながら、窓から見える星空を見ながら、俺は口を開いた。
「俺は、愛する弟と妹を守るために、愛する我が国と結婚するんだ。一匹の兄として、一匹の王族として、これ以上の幸せと誇りがあるか? ない! ないぜ! ないんだよ、ブラウ! はははっ! あはははは! お前ら、愛してる!」
一匹の王族としての誇りが一匹の兄としての幸せに繋がることは分かっていたし、一匹の兄としての幸せが一匹の王族としての誇りに繋がることも分かっていた。それ以上に、二つの幸せと誇りが、一匹の雄竜としての幸せに繋がらないことも分かっていた。それでも、俺は幸せなんだ。
「俺が王竜だって叫んでいれば、ヴェルデやスミュルナに傾きかけた刃は全て俺に向く。俺が王竜だって叫ぶのは、欲しているからじゃない。受け入れてるからなんだよ。愛してるからなんだよ」
全てが愛おしくて、黙り込んだブラウも抱き締めてやろうかと思ったが、同性愛者疑惑が流れて支持率低下を招くのも嫌なので我慢した。
――――
……十年前。
――――――審判の崖。
そこは女神の目が最も届きやすい場所とされる。罪人の生死もここで決められる。
王位継承権についての争いを予め起こさないようにする儀式もここで行われてきた。王竜の妃竜以外との雌竜の子竜は妃竜との嫡子と、王位を継ぐにふさわしくないと考えられる子竜はそれ以外の兄弟と、そして、双子が生まれたはその二匹で、儀式を行い、どの子竜が王位継承権を持つにふさわしいか、女神に見定めてもらう、というものである。
子竜達は審判の崖で決闘をする。武器も魔術も使って良い。ただし、魔導機に頼ることは禁じられた。決闘の末、女神の祝福を受けた者が戦いに勝ち残り王位継承権を得、女神に祝福されず戦いに負けた者はその崖より落とされる。
女神の選定とは名ばかりで、実際はただの殺し合いでしかない。暴君の王竜が生まれたことも、頭の出来が悪い王竜が生まれたこともしばしばあったし、それら悪政をした王竜はその兄弟に暗殺され、兄弟が王竜になることもあった。
それでも、『事例に当てはまったのにこの儀式をしなければ、女神の守護は絶え、王国は滅亡する』という一文のために、どの王竜も、どの兄も弟も、どの姉も妹も、家族を殺すことを躊躇わなかったし、やめようとしなかった。長き時を経て、過ちを繰り返しても、塗り変えられることのない、悲しきしきたりだった。
さりとて、塗り変えられることが永遠にないわけではない。今まで負けてきた子竜達が、国のしきたりを恨み、あるいは己の生を嘆きながら、落とされてきた時間があった。この代にも敗者が落とされる時間があった。けれどもその時間になっても、兄は弟の腕をしっかりと握っていた。
「やめろロート! 何をやっている!」
「黙ってください! そういうお父様は俺達に何をやらせているんですか!」
「やめて、ロート兄さん! 離して! このままじゃ兄さんも落ちてしまう!」
「ブラウも黙れ! 双子はなぁ、兄弟はなぁ、殺し合うものじゃない! 一緒にいるものなんだよ! お父様に、決めさせるものか! 俺達双子は、俺達兄弟は、一緒にいるものなんだ!」
「一緒にいてはいけないから、こうして殺し合わせたのだ!」
「一緒にいてはいけない理由って何なんだよ! そんなのお父様の都合なんだろ? 俺達を巻き込むな!」
「双子が生まれた場合、そのどちらかを崖から落とし、王位継承権を持つ者を片方に絞らねば、女神の守護が絶え、国が滅ぶとされる……! お前達はチャロアイトを滅ぼすつもりか!」
「片方が王位継承権を持たなかったらいいんだろう! じゃあ、ブラウは俺の従者でいいじゃないか!」
「何を言って……」
「どうせ、王族のブラウはいなかったことになるんだろう……! なら、王族のブラウは始めからいなかった! 俺と同じ日に生まれたのは、王族じゃない、王位継承権を持たない、俺の従者のブラウだ!」
「兄さん……」
「子竜一匹死ななかったからって滅ぶような国なんか、俺達が作り変えてやるよ……!」
――――
「ブラウ! 勉強教えて!」
俺と共に廊下を歩いていたブラウを呼び止めたのは、ヴェルデだった。この王城を作った王竜は倹約家だったらしく、派手な装飾はあまりなく、むしろ床も壁も石が露出した冷ややかな造りである。しかし、見た目とは裏腹に、すっかり高く昇った日の入る廊下は暖かい。ブラウは困ったように眉尻を下げた。
「ノワールという優秀な先生がいるでしょう」
「飽きた!」
「飽きてはいけません」
「やだー。たまにはブラウに教わりたーい。ノワール、分からないとたまに怖いんだもん」
「私は仕事があるので」
それでも尚、ヴェルデは食い下がる。見上げる目をブラウでなく、俺に向けてきた。ブラウがヴェルデの勉強に付き合えない元凶は俺にあると分かっていて、それを責め、且つブラウの借用許可を求めているのだろう。俺も引き下がるわけにはいかないのでしばらく粘ったが、ここで折れるのはやはり俺なのだ。あっけなくブラウは連れ去られてしまった。
ブラウの分の書類も抱えて、孤独に執務室に向かう。一国の主ともあろう者がこの労働状況は何だ、と思われそうだが、あくまでも俺がやっているのは王竜代理で、王竜と正式に国民に認められてやっている仕事ではない。尤も、手伝いましょうかと声をかけてきた者もいたが、王族とその従者以外には見せられないような書類もあるので、気持ちだけ受け取った。結局、ブラウがいなければ俺一人でこなすしかない仕事なのだ。
スミュルナの従者のエイジや、今は恐らく暇であろうヴェルデの従者のノワールを呼んでくるという手もあるが、彼らを奪ってしまったら妹と弟の安全面が心配だ。身を守る従者がいないのだから。
執務室の机につき、考え事をしていてふと気付く。現在、従者がいないのは自分であると。マリィには今日は女中をつけた。ここでじっとしていれば誰も襲っては来ないだろう。気にせず、俺は書類捌きを始めた。
例え襲ってきたとしても、それは望むところだ。
いきなり開け放たれた執務室の扉。乱暴なその音は、開けた竜が何者かということをよく表していた。俺は至って冷静に、扉の方を見やる。
望まれざる襲撃者はいつだって、ブラウと共にいるときに来た。
「ここは次期王竜の部屋だぞ。ノックもなしか」
王竜の死の報せも、ブラウとの殺し合いの通達も、いつだってブラウと共に聞いた。ブラウがいたから、絶望の淵に一人で立つことはなかった。
「次期王竜、お命、頂く」
望まれた襲撃者は、どうやらブラウのいないときにこそ来るらしい。
数は二。人型でフード付きの黒衣を纏っている。顔は見えないが体格からして雄だろう。片方は剣、片方はパタ(手の甲に装着する短剣)が得物のようだ。椅子を蹴る。剣を抜き放つ。パタが床を蹴る。同時に俺は机を蹴った。跳び上がる。発達した翼はない。成竜に近づきつつある優れた体ならある。
「この、無礼者が!」
着地点はパタ。が、パタは避けた。パタを貫くはずだった剣は空を、否、絨毯に突き刺さる。俺はそれを抜こうとはしなかった。パタが駆け寄ってきたからだ。隙ありとも言わんばかりの顔。パタ突き出される。咄嗟にしゃがむと、簡単にかわせた。立ち上がり様、頭突きを喰らわせる。相手の顎に入った。俺も痛かったが、相手も痛かっただろう。痛みが一瞬の隙を生む。パタを装備している腕をしっかりと掴み動かないようにする。身長に対して意外と細く、俺は少し驚いた。
「去れ。今なら見逃してやる」
剣を持った方は動く気配がない。パタの方の顔を見つめて言い放つ。と、フードの中が見えて、俺は目が見張られるのを感じた。
雌竜だった。身長はやたら高いが、女であった。可憐とも言えないが、そうでないとも言い切れない。素朴な顔立ちの少女であった。年の頃は俺と同じか少し下くらいか。エメラルドの瞳は見開かれ、俺の顔を映している。
「去らないのならば、殺す」
抵抗し続けていた彼女の腕から力が抜けた。崩れ落ちそうになったので、慌てて支えてやる。高身長故に、俺が抱えたことのある雌竜、スミュルナやマリィよりは重かったが、支えきれないほどでもない。大丈夫か、立てるか、口を開こうとした瞬間だった。剣の方が駆け寄ってきているのが見えた。
罠か。雌竜を捨てることも出来ず、近くに刺さっている剣を抜く。片手で応戦する程度で足りる相手か。お互いがお互いの得物の射程範囲に入る。そのとき、いきなり剣の首がなくなった。
否、斬られたのだ。首からは壊れた蛇口のように血が噴き出している。訳が分からず、呆然としていると、すぐに原因が分かった。斬った得物は、斬った竜は、剣の後ろにいた。
「……ノ、ワール」
襲撃者と同じ色味ながら、纏う品格の違いは一目瞭然。漆黒の黒髪を風に遊ばせ、黒衣を纏い、鎌槍を構えたノワールがそこにいた。涼しげな顔立ちに涼しげな表情を浮かべ、深紅の目は倒れた襲撃者を見下ろている。鎌槍から鮮血が滴った。
「次期王竜候補が従者も衛兵もつけないとは、不用心にも程がありますよ」
この状況には不似合いな、しかし彼にはよく似合う、静かで穏やかなノワールの声。それを最後に、俺の視界はブラックアウトした。
――――
……十年前。
「俺達って双子なんだよな」
「でも、僕と兄さん全然似てないね」
「あかいのとあおいのだしな」
「牙と角だしね」
「双子って何なんだろうなー」
「ねえ、兄さん」
「ん?」
「双子じゃなくて、兄弟だったら、殺し合わなくてよかったのかな?」
「そうだな、兄弟だったら、殺し合わなくてよかったのかもな。俺達とヴェルデやスミュルナで殺し合えとか言われないもんな」
――――
風に遊ばれているらしい髪がくすぐったい。寄りかかっている固い壁は冷たい。立ちながら失神している自分というのもおかしいものだと思い微かに目を開くと、眩しい光が侵入してきた。眉を顰め光に目を慣らしながらなんとか目を開く。
「起きましたか」
びくり、と体が震えた。情けないと我ながら思いつつ、声の方を見る。パタを持っていた黒衣の襲撃者、雌竜の方だった。
「ここがどこで、今まで何をしていたか分かりますか」
俺は顔を上げる。床、空、壁。石畳、石造り、快晴の空。屋上だ。それも、ここは、王族以外の進入が許されていない区域だ。通りで風が強いわけである。王族の許しを得なければ、ここへの進入は出来ない。
俺は記憶を漁る。黒衣の襲撃者、ノワール。ノワールの言葉を最後に暗転した記憶。
異変に気付いて、立ち上がろうとしたとき、もう一つの異変に気付く。体が動かない。見ると、拘束具によって壁に磔にされていた。更に、すぐ隣には失神しているブラウが同じように磔にされている。
「貴様っ……!」
「……」
「まさか、ノワールも殺したのか……?」
「……今から、大事なことを話します。よく聞いてください」
「俺の質問に……」
言葉の続きは喉から出てこようとはしなかった。彼女の顔は、酷く歪んでいる。今にも泣き出しそうで涙をこらえているような、今にも逃げ出しそうで震えをこらえているような。言葉を続けるのが躊躇われるような、そんな、つらい顔だった。
「今から、貴方達を殺すために弟君とその従者がやってくるでしょう。私は従者の方に、貴方達の監視を頼まれました」
「ヴェルデ、が……?」
「重要なのはそこではありません」少女竜は目を伏せ、一呼吸置いてから目を開き、口を開いた。「私は貴方達の拘束具を解き、逃がすことが出来ますが、彼らに見つかれば、貴方達も、私も、殺されるでしょう。それでも構わなければ」
少女竜の声は震えている。握り締めた拳も、肩も、震えているようだった。
どうやら、ヴェルデとノワールは俺を殺そうとしていて、この少女竜に共闘を申し込んだようだ。つまり、この拘束具を解くということは、ヴェルデとノワールを敵に回すことに等しい。彼女にとってそれは、とてつもない恐怖との戦いなのだ。そして、俺とブラウのために勇気を出して、その戦いに挑もうとしている。
「何故そんなことを……君は俺を殺しに来たんじゃないのか」
「始めはそのつもりでしたが、ロート様は良い方だと分かりました。私はロート様を支持します」
ロート様は。その言葉に、胸を抉られる。俺だけは良いのではなくて、兄妹皆が良い竜だったはずだ。皆が、支持されるに値する、良い竜だったはずだ。
いつからだったのだろうか、ヴェルデが王座に対して眼をぎらつかせたのは。気付けないで、ここまで来てしまった自分を呪った。
心臓が握りつぶされるような切なさと、内蔵を吐き出したくなるような悔しさに襲われながら、辛うじて口を開く。
「そう考え直してくれたのなら拒む理由はない。共に闘ってくれ」
「はいっ!」
少女竜は拘束具を外す作業に取り掛かった。そう長くはなかったが、会話をした。彼女の家族は年老いた祖母一人だということ、祖母を養うために汚い仕事に手を染めていること、共にいた男はその手ではかなり有名な腕の立つ暗殺者だったこと、彼とは今回の仕事が初めてだったこと。
「貧富の差というのは、ここからでは見えないものだな」
「……あっ、すみません、気に、病まないでください」
「いいや、勉強になった。王竜になったら、君のような者が出ないように手を打ちたいな。まずは君を女中に雇おう」
「えっ、そ、そんな……家事は出来ません」
「ならマリィの従者か。それもいい。それで、マリィと共に君が出歩いて、同じような境遇の知り合いに広めていけばいいのさ」
「全部外れました!」
少女竜の嬉々とした声に、俺は肩を回す。眉間に寄る皺も自覚していた。目の奥の痛みも、胸の奥の痛みも、その理由も、自覚していた。
「まずは、ヴェルデとの和解だがな」
失神しているブラウの頬を数回叩き、起こしてやる。いつもの伊達メガネをしていなかったが、所詮は伊達メガネなので気にすることはない。少女竜が拘束具を外している間に状況を教えようと思っていたが、俺よりもブラウの方が現状を把握していた。
ヴェルデが王座を欲している、そのために俺とブラウを殺そうとしていること、ノワールはそれを黙認するどころか賛同・協力していること。それらを理解した辺りから意識がなくなったらしい。
「外れました」
「ありがとうございます」ブラウは静かに礼をすると、改めて少女竜をまじまじを見つめてから、俺を見た。「兄さん、彼女は……? 見たところ王城勤めの服装ではありませんし……」
「新入りの女中だよ。あ、マリィの従者だったか?」
「……何ですか、それは」
しかし、ブラウはそれ以上問いただすことはしなかった。その方が俺は助かったし、彼女も悪い気分をしないで済むだろう。抜け目のないノワールらしく、俺の腰に剣はない。もしもヴェルデとノワールが襲撃してきたのなら、牙とブラウの魔術に頼ることになるだろう。
そういえば、不便があることを思い出した。俺は少女竜に目をやる。
「名前を聞いていなかった。教えてくれないか」
少女竜も、そういえば、という顔をした。彼女が名乗ろうと口を開いた瞬間。そう、口を開いて、名乗るために声帯が震えるまでの、ほんの僅かな時間だというのに、その刹那は酷く長かった。
少女竜の向こうに見えた黒。俺はとっさに手を伸ばした。
「きゃあっ!」
「クッ!」
足に力を入れる。ここまで力んで立ったことは未だかつてない。少女竜を抱き締める腕に力を入れる。ここまで強く血縁以外の他竜を抱いたことは未だかつてない。
少女竜には、ノワールの毒牙が引っかかっていた。ワイヤーの鉤爪が黒衣にしっかりと噛みついている。彼女が死に抱かれることがないように、俺は彼女を抱き締める。彼女も恐怖に怯えながら、俺の体に手を回した。
「ブラウ、鉤爪の引っかかっているところを千切ってくれ!」
「分かりました! 失礼します」
少女竜の負担にならないように、抱き方を考慮する。そんな余裕もない。ブラウは少女竜の黒衣とワイヤーに手をかけて、少女竜の黒衣を引き裂こうとしているが中々上手く行かない。
「ろ、ロート様っ、わ、わ、私の名前、は」
「ああ、何だ? 呼ぶ名前がないのは不便なんだ、さっさと教えてくれ」
「わ、私はっ、私は……グ」
もう少しで聞けたのに。鋭い衝撃が頭を襲った。視界に星が散る。気付くと倒れていた。そう時間は立っていない筈。すぐに立ち上がると、隣には同じように立ち上がろうとしているブラウがいた。ブラウだけだった。
遠くでヴェルデが翠鱗の鞭を鳴らしている。俺とブラウはあれで殴られたのだろう。
絶望的光景だった。少女竜は、ノワールの前で倒れていた。自らの作り出した血だまりに沈み、ぴくりとも動かなかった。
「残念だったね、名前も知れなくて」あれほど歪んだヴェルデの微笑を、俺は見たことがない。口角は見る見るうちにつり上がる。「恋でも、しちゃった?」
何が面白いのか、ヴェルデはげらげらと大笑いをし始めた。俺は唖然となる。
自らの血だまりに沈む少女竜、彼女の前に直立するノワール、彼よりもずっと前で翠鱗の鞭を鳴らすヴェルデ。理解に、しばらくの時間を要した。
「……ヴェルデ」
俺は確かめるようにその名を口にした。足が一歩前に出る。
「ヴェルデ、おまえ」
俺は噛みしめるように言葉を音にした。足が二歩前に出る。
「おまえにとっての、俺は、俺達は」
戻すように単語を吐き出した。前に出した足が、地に着くことはなかった。
「兄さん下がって!」
首を締め付けられる感覚。逆らえない後ろからの引力。俺は耐えきれず尻餅を着く形になった。衝撃に瞼が落ちる。次に瞼を上げるころには、俺がいた場所の床は抉られていた。やっと状況を理解した。ヴェルデが翠鱗の鞭を振ったのだろう。俺はその前兆にも気付かず歩んだ。そしてブラウにマントを引っ張られ、今に至る。
見上げたヴェルデの顔は憎悪一色に染まっていた。俺は立ち上がることも出来ず、ヴェルデの顔から視線を逸らすことも出来ない。ヴェルデの憎悪は俺を捕らえていた。
「ロート兄さんもブラウ兄さんも」
凍えるような緑の竜眼。国を愛し、平和を好み、兄を慕い、妹を愛でた、優しい少年竜の瞳の面影などどこにも残っていなかった。否、国を愛し、平和を好んだその心こそが、ヴェルデのその優しい一面を覆い隠したのかもしれない。
「邪魔でしかなかったよ」
ヴェルデの瞳は、優しい少年竜の瞳ではない。冷酷なる王竜の瞳だった。
ブラウの言っていたことも、ヴェルデとノワールの行動理念も、理解していた。それを分かっているのに、あくまでもヴェルデにそれを尋ねた俺の行動はきっと、確認と呼ぶのだろう。
「……そうか」
自分でも驚くくらい俺の返事は凪いでいた。この心は、こんなにも波立っているというのに。ヴェルデから目を逸らす。石畳だけを視界に映す。全身に力を入れる。立ち上がる。剣はない。問題はない。俺には牙があり、ブラウがいる。右手を挙げてブラウを横に呼んだ。
「何でしょう、ロート様」
「兄さん、と呼べと何度も言っている」顔を覗き込んできたブラウの眼だけをじっと見据え、俺はブラウの右手を取る。「いただくぞ」
ブラウの体が強ばるのは分かったが、今はあれやこれやと気にしていられる暇はない。彼のYシャツの右手首のボタンを外し、すばやく袖をまくり腕を露わにさせる。俺は腰を屈め、口を開き、その白く細い腕に噛みついた。雄竜の血よりも雌竜の血の方が美味い。だが、最近はあまり吸っていなかったから忘れていた。雄竜の血だって、血色のワインよりもずっとずっと美味い。ブラウが倒れない程度に吸い、袖を戻してやる。
「もうよろしいのですか」
「お前の実の兄は敬語を許す者だったか?」
「そうですね、とても厳しい方です。……もういいのかい、兄さん」
「ああ、準備万端だ」
愛弟に裏切られたばかりで、勝てる確証もないというのに、俺の心は晴れやかだった。鎖から解き放たれたような解放感があった。
口元が綻ぶのすら感じた。ブラウの角が光り始めたのを見て、俺はブラウの前に立ち両手を前に構える。角の光は精神集中の合図だ。ブラウの集中の邪魔をさせないように、俺はヴェルデもしくはノワールの迎撃準備をする。本来ならば従者の前に出るとは何事かと咎められるだろう。何を咎めるのだろうか。俺たちは、ただの兄弟でしかないのに。兄が弟を守るのは、至極当然のことであるのに。
ブラウの発達した部分は角で、俺の発達した部分は牙だ。ヴェルデの鱗のように応用して鞭や剣にしたり、スミュルナの眼のように派手な能力は持っていない。しかしブラウは、俺たち五兄妹から正に角のように一匹飛び出た魔力を、湾曲したその角に備えている。俺の牙は、というと、五兄妹中最も地味だが、最も派手になる可能性を備えているのではないだろうか。
ヴェルデの鞭が伸びてくる。硬質化し、最早しならないそれを剣と呼ぶのだろう。親指と人差し指のひし形から翠鱗の剣をのぞき込んだ。
「凍れ!」
叫ぶは一言。効果は一瞬。翠鱗の剣の切っ先が氷を帯びた。翠鱗の剣は素早く戻っていく。ヴェルデが俺に笑んだ。忌々しい、その意のみを凝縮して。
端的に言えば、俺の牙は、肌を突き破ることが容易で、吸血の役に立つだけだろう。しかし、国民は勿論、ヴェルデを始め、弟妹にも把握されていない能力がある。それ自身が俺の能力で、発達した牙がその道具なのか、それが牙の能力なのかは分からない。
魔力と戦意の高揚を感じて、自らさえ恐ろしくなる。いきなりもたらされた強大な力はいつだって人間を狂わせる。きっと竜もそう変わらないのだ。
「ロート兄さんが魔術使うところなんて始めて見たけど」
「こっそり練習していたんだ」
睨むように笑むヴェルデに、嘘で作り上げた穏やかな笑みを返す。練習していたなど、嘘だ。
俺の能力はそれである。魔術を使えるようになることではない。血を吸った相手の竜としての能力を一時的に使えるようになる能力だ。量を吸えば吸うほど効果時間は延びる。ブラウの血を吸った今は、並大抵の竜には劣らぬ魔力を得た。
吸血行為を、俺は忌み嫌ってきた。王族に似合わぬ野蛮な行為にしか思えなかったからだ。だからこそ、剣を取り、剣を学び、剣を振ってきた。それに、所栓はコピーの能力。オリジナルに勝ることはないし、俺がオリジナルであることなどない。それでも剣がないこの状況では、忌み嫌い続けたこの野蛮な行為による特殊能力がありがたいものと成り得た。そのありがたい能力で、自分と弟を守るために、これから弟を殺すのだ。結局この牙は、我が身を守るために弟を殺すことに役立つ、野蛮な獣の牙でしかないのだ。皮肉に口元が緩んだ。
「我求む、大いなる水の恩恵、虚無の幻」ブラウの口から紡がれた呪文に、大気中の水分が呼応した。呪文に乗った水分は一点に集結した。魔術が発動する。「霧散せよッ!」
蒼角が光を放つ。ブラウが吠えると同時に、集結した水分は文字通り霧散した。屋上を霧が覆う。数メートル先が見える程度だ。風が吹くこの場所でいかにこの霧を保たせるかがブラウの腕の見せ所であり、ブラウが作った僅かな隙をいかに生かせるかが俺の腕の見せ所である。俺は床を蹴った。ヴェルデががむしゃらに鞭を振り回し、空を切る音のみがする。ノワールがどう動くかは分からない。ヴェルデに安全に近寄るためには、跳躍しかないのだ。俺は見事にヴェルデの背後に降り立った。が、足音に気が付かないはずがない。しかし、ヴェルデが振り返る前に口を塞いだ。体格では俺が勝っている。ヴェルデの緑の瞳が驚愕と憎悪のみに染められながら、俺を睨みつけてきた。それがお前の本性なのだ。ならばこれも、俺の本性だ。
露出したうなじに噛みついた。まだまだ幼い弟の首筋は雌のそれと大した差はない。白く柔らかく細い。足掻いて抵抗していた体がぴたりと止まる。
ブラウの血を吸った後にヴェルデの血を吸う。ヴェルデの血を吸い尽くせば、ヴェルデは死に、俺はヴェルデの能力を一時的に使えるようになる。一石二鳥だ。その美味さに酔いしれていると自覚したとき、俺はやはり、自嘲した。長男であるが故に一番王座に近く、けだものであるが故に一番王座に遠い、俺はそんな存在なのだ。
ヴェルデを見る。その目は心なしか潤んでいるようにも見えた。思わず牙を抜く。それがいけなかった。ノワールの鎌槍が霧を斬り裂いた。俺はむしろ前に跳び、ノワールの鎌槍の下を転がりくぐった。ブラウが俺の後ろに駆け寄ってくる。再び精神集中を始めるのを見て、俺は立ち上がりながらYシャツの第一ボタンを開ける。首にはすでにコピーの得物が現れていた。紅鱗の首輪である。それをはぎ取ると、紅鱗は一直線を描き、やがて固まった。ヴェルデの翠鱗の剣の模倣品、名付けるならば紅鱗の剣だろう。
「よく出来てるだろう」
「……兄さんの力は、そういうのだったんだ」
つまらなそうに言い放つと同時に、ヴェルデは翠鱗の剣を構える。ヴェルデはノワールに何かの合図をしたようだった。だが、俺は二人の秘密のサインなどは知らない。どう出るか、警戒して紅鱗の剣を構える。床を蹴ったのはノワールだった。一瞬。間合いが詰められる。瞬間。鎌槍が横から襲い来る。俺はとっさに紅鱗の剣を振る。金属の悲鳴。右手を痺れが襲う。飛んだのは鎌槍の方だった。遙か遠くに鎌槍が滑っていく。
ノワールはこんなに弱かったのか。チャンスに体が奮え上がった。ノワールの頭部を薙ぐように紅鱗の剣を振るう。生憎彼の腕が頭部をかばったためダメージは与えられなかったが、派手に床に倒れ込んだ。ヴェルデの東西南北全方位をたった一匹で固めていた竜が倒れた。今ヴェルデを守る者は何もない。
俺はヴェルデとの間合いを一気になくし、紅鱗の剣を振り上げる。渾身の力を込めて振り下ろしたそれをヴェルデは何とか受け止めた。が、精一杯と言わんばかりの細腕だ。俺が剣を振れば振るほど、ヴェルデがそれを受ければ受けるほど、ヴェルデは後退し俺は前進する。ヴェルデの背後に、終わりが迫る。落ちろ。ただ、それだけだった。
「こんなやり方しか選べないお前に、永久中立国はつくれない」そう紡いだ俺の声はひどく冷淡だった。「負けを認めろ、ヴェルデ」
「わあぁぁぁっ!」
ヴェルデの姿が悲鳴とともに消える。柵さえもない領域へと踏み入れ、踏み外したのだ。ただ、小さな小さな手だけがヴェルデの命を繋いでいる。俺はその手へと歩み寄った。見下ろすと、涙を溢れさせるヴェルデと、その下には石畳と水を湛えた堀がある。落ちれば石畳に激突、運が良くても絶命するだろう。ヴェルデは俺を見上げていた。
「ごめんなさいロート兄さん! もう馬鹿なことしないから、許して……! 許してください……助けてください……ごめんなさい、ごめんなさい……!」ヴェルデは涙ながら訴えた。声変わりを経ていない声は上擦り、先ほどの憎らしさはどこへ行ったのか、情けなさだけを露呈している。「ロート兄さんっ……」
その瞬間、俺は我に戻った。何をやっていたのだろうか。彼は実の弟である。そんなヴェルデを殺すのか。本能に駆り立てられかわいい弟までも殺すほど、俺はけだものだったのか。後悔の念だけが体中を乗っ取った。俺はすぐに膝をつき、ヴェルデの細腕を握り締める。
「反省したなら、よかった……! まだやり直せる! 共に竜の国を支えていこう、ヴェルデ……」
ヴェルデを床の上に引きずり上げる。俺は久しぶりに心の底から笑ったような気がした。ヴェルデも暖かく笑っている。
そうだ、やり直せる。まだ、まだ、やり直せる。
――――
……十年前。
「ヴェルデ」
「なぁに? おにいさん」
「実は、ヴェルデにはずっと秘密にしていたことがあるんだ」
「なぁに? おもしろいこと?」
「……どうだろう。おい、ブラウ」
「あー、ブラウさん! こんにちは」
「ヴェルデも知ってるよな、俺の従者のブラウだ」
「知ってるよ、とーぜんじゃん!」
「実は、ブラウは俺の弟で、お前のお兄ちゃんなんだ」
「ブラウさんもおにいさんなの?」
「そうだ。でも、いろいろあって、お兄さんって言っちゃいけないんだ。お父様に許してはもらったが、絶対誰にも言っちゃだめだぞ」
「エリスにも?」
「エリスにもだ」
「ブラウさんにも?」
「え? いや、ブラウは当事者だし知ってるぞ」
「そうじゃないよ。ブラウお兄さんって、よんじゃだめ?」
――――
「ロート兄さんは、ほんとに馬鹿だなぁ」
うつむいているヴェルデは、くつくつと笑い声をたてていた。ゆらりと立ち上がったヴェルデは、ふらりと歩き始める。言葉の意味が飲み込めない俺は、呆然としてヴェルデを見つめ続けた。血の気が引くとはこのことか。
「やり直せるわけ、ないじゃん」
どういうことか。問い詰めようとして立ち上がった俺に、何かが覆い被さってきた。赤い。そして、青い。一瞬、思考が停止した。
俺に被さってきたのは、ブラウだ。そうと分かる頃にはちゃんと自立していた。俺に見せているのは背中だが、まごうことなきブラウだ。その背中に大きく痛ましい斬り傷が走っている。青いローブは赤い血に染まり、菫色にすら見える。肩は呼吸と共に上下している。何故、こんなことに? 俺は状況が理解できぬままブラウのその向こうを見やった。
いるのだ。ブラウのその向こうに、倒れたはずのノワールが。疲労や負傷の色を全く見せず、血に塗れた鎌槍を手にして、直立している。
「わたくしも、嘗められたものですね」
自分はあれほどまで弱い、はずはない、とノワールは言っているのだ。先刻の判断を俺は後悔した。ヴェルデが心を入れ替えたとしても、ノワールはそれをまだ知らないし、ヴェルデを狂わせたのはこいつなのかもしれないのだ。奥歯を噛み締める。紅鱗の剣を握り締める。
「今更、やり直せるわけないじゃん。この争いは、僕が生まれたときから始まってたんだ。そういうのは、誰よりも兄さん達が知ってたんでしょう」眉尻と声音を落としたヴェルデ。憎らしげな、悲しげな、様々な思いに彩られた笑み。俺はあの顔を知っている。「王座に着けるのはたった一匹なのに、王座に着ける権利を持つ竜が一匹じゃないから、殺し合わなきゃいけないんでしょう」
あの笑みは、ブラウのそれと同じ笑みだ。一番始めに生まれた俺を憎み、争いの種に成り得る己を悲しむ、幾重もの思いから成る笑み。何もかも違う、全てを持っていた俺はきっとあの笑みを作ることすら出来ないだろう。
ねぇ、だから、とヴェルデは続けた。続く言葉はひどく短かったが。
「死んで」
翠鱗の鞭が唸った。ブラウがもろに打たれたらしく、よろけた。それでもその場から動かない。ヴェルデの前から、俺の前から、動かない。
「ブラウ、そこをどけ!」
「……イヤ、だね」
「命令だ、どけッ!」
「生意気だな、兄さんのくせに」
こういうときだけ、ずるい。俺は耐えきれなくなって、ブラウの前に出た。純粋な敵意だけを、憎悪だけを、憤怒だけを込めて、紅鱗の剣を振るう。渾身の斬撃は、ノワールの一閃の元に砕け散った。これで俺に武器はなくなった。抵抗手段がなくなった。何も握れぬ手を、むなしく開いて握り締めた。終わり、なのか、と。
……死ぬ。直感した。逃げ道などどこにもない。乾いた笑い声さえも漏れる。ヴェルデが翠鱗の剣を振り上げる音がした。
「僕が、緩衝材になるから」
後ろからの引力。抗えぬまま、俺の視界に空が広がった。浮遊感。落ちる。やっと理解した。ブラウが俺の背に貼り付いていて、その身で落下の衝撃を和らげると言ったのだ。やめろ。言う暇もなかった。
――――
あるとき、ブラウがメガネを欲しがった。俺はそれを許可し、メガネ屋には俺もついていくことにした。ブラウは首を振った。
「駄目ですよ。ロート様は王子なのです。ご自分の立場をご自覚下さい」
ブラウは長方形のアンダーリムの黒縁メガネを買ってきた。知的でよく似合っていた。俺はふと疑問を口にした。
そんなに目が悪かったのか、と。ブラウは首を振った。
「違いますよ。これは伊達メガネです」
翌日、ブラウは前髪を上げた。いわゆる、オールバックという髪型にしたのだ。立派な角が隠れなくていいと思った。俺は何となく気付いた気がした。伊達メガネを欲しがった理由も、髪型を変えた理由も。ブラウは俺の従者であるが、ブラウ自身にも従者はついている。ヴィオレットという雌竜だ。もしかしたら、ブラウは惚れたのかもしれない。俺は思いきって聞いてみた。いきなり見た目を気にし始めてどうしたのか、と。ブラウは笑った。
「鏡を見ているような錯覚は、もうしませんか?」ブラウのその言葉に、胸を襲う鈍い痛みを覚えた。「これで、兄さんと似ているとは、思われないでしょう」
雌竜は俺とブラウ、見た目はどちらが好み、みたいに分かれるらしい。見た目での支持も、国民の支持という意味では結構響いてくる。ブラウは俺と似ているから、実は隠し子だとか、そういう噂だけは立っていた。そして、その噂を元にブラウにも支持はあった。
その支持を全て、散らそうとしてこういう奇行に出たのだろう。或いは、俺の支持率を高めるために。
ああ、俺は何と愚かなのだろうか。弟の気持ちを、ちっとも分かってやれていない。
「ブラウ」
「何ですか?」
「たまには外せ。髪も下ろせ。色の違う俺だって、たまには見たくなる」
「ぷっ……ナルシストですか」
「ああ。俺は大好きだよ。俺にそっくりなお前も、お前にそっくりな俺も」
――――
耳を塞ぎたくなるような音、鈍い衝撃が体を襲った。それだけだった。俺は死んでいない。起きあがって振り返ると、ブラウがいた。その下には血だまりが広がっている。俺の下で、息絶えたのだ。血は、まだ体内に残っているであろう。心の中で謝りながら、ブラウの体を抱き起こす。その首元に歯を立てて、血を吸った。目の奥が熱い。首元から口を離す。ブラウの顔を見た。上げられている前髪を手櫛で崩し、下ろす。俺がいる。色違いの俺がいる。色違いの俺が死んでいる。ブラウはきっと俺で、俺はきっとブラウだった。あの日、審判の崖から落ちるのが俺だったら、俺がブラウになっていて、ブラウが俺になっていた。表裏一体だった。俺たちは、いつだって。いつだって表裏、光と闇だった。それでもずっと一緒だった。同じ日に生まれ落ちたその日から、ずっと、ずっと。
「生まれてから、ずっと一緒だったんだ」
喜びも悲しみも楽しみも分かち合った。怒りは俺が二倍にして、ブラウが俺を鎮めてた。俺を鎮める者はもう誰もいない。ブラウの遺体をそっと置き、両手を胸元に揃えてやる。俺は立ち上がり、ゆっくりと振り返る。ブラウの亡骸に背を向ける。ブラウからもらった魔力。凝縮させて、棒にした。剣の代用だ。最後の剣だ。お前の剣だよ、ブラウ。
痛む体を黙らせ、石畳を蹴る。そこにいる弟に向かう。優秀な従者に連れられ安全に落ちてきたのだろう。距離はそう遠くない。最後の剣を振り上げる。振り下ろす間もなく、最後の剣は翠鱗の鞭の元に砕け散った。黒い影が俺と弟を覆う。ああ、これで、最期だ。そう思う頃に、死神の鎌が俺の背後で振り上げられた。
燃えるような激痛。背中を走る。全てを奪われる。力の抜けた体が崩れ落ちる。俺の髪よりも鮮やかな血が溢れ出る。立ち上がる力はもうない。立ち上がれない。弟がどんな顔で俺を見下ろしているのかも、分からない。目を閉じたら、全てが終わる。石畳と自分の血しか見えない。二つの足音が遠のく。ああ、ヴェルデとノワールは、去っていった。これで、二匹が誰にも見つからず部屋に戻れば、俺達を殺したのは黒衣の襲撃者ということになるのだろう。
最後なんだ。諦められない。何とか腕に力を入れてみる。後ろで死んでいる弟に這い寄る。無様だとか思う余裕も時間も、俺にはなかった。ただ、死んでいる弟を想うことしか俺には出来ない。ブラウの遺体の横に並び、眠っているようなその横顔を見る。胸元に揃えた両手に、右手を重ねた。物足りなくて、体を引き寄せた。体は力無くこちらに転がってくる。冷たくなったブラウの体を抱き締めると、口元が緩んだ。
生まれてから、ずっと一緒だったんだ。
死ぬときも、一緒だ。
独りでなんて、許さない。
――――
「この辺りで良いでしょう」
王城の裏側から中庭に繋がる通路に、運んできた二つの遺体を放るノワール。ヴェルデアスルは静かに頷いた。先日雇った襲撃者の体である。三匹雇った雄竜の内、一匹だけは雌竜だったらしく、ロートに寝返り屋上で殺したまま、遺体は放置してある。一匹はロートを襲わせた際にノワールが、もう一匹はブラウを襲わせた際にヴェルデがそれぞれ殺した。
「後は、ロートとブラウを殺した竜を、ノワールが成敗したって触れ回れば大丈夫だね。僕たちが疑われることはない」
平和で暖かな日差しが中庭に射し込んでいる。歪曲した笑顔で中庭を振り返れば、ヴェルデアスルの内心とは裏腹の、晴れ晴れしい景色が広がっていた。
「……ヴェルデアスル様、ノワール様」
晴れ晴れしい景色の中心に、晴れ晴れしくない顔をした彼女がいた。薄いすみれ色の髪を揺らし、濃いすみれ色の目を見開いて、ヴェルデに、ノワールに、二つの遺体に視線を巡らせていた。
「やあ、ヴィオレット」
彼女の名こそ、ヴィオレット・イレイア。ブラウの従者である。ブラウとに似たようなデザインの紫色のローブに、タイトな白いズボンを履いている。ヴィオレットは返事をしない。晴れ晴れしい天気には合わぬ、静かにまとわりつくような空気が流れた。
「今の、話は」
「それよりもヴィオレ、この先に兄さん達が倒れてるんだ。ブラウ兄さんはまだ生きてるかも……いや、もしかしたら助かるかもしれない」ヴィオレットが体を震わせる。眉尻を落とし、ヴェルデアスルは首を傾げて微笑んだ。「僕達が今から助けを呼んでくるから、先に行って元気づけてあげて」
すみれ色の目を潤ませて、ヴィオレットは地を蹴った。足音が遠のく。反響が聞こえる。ヴェルデアスルもノワールもその場を動かない。ヴィオレットの背を見、足音を聞くだけで、助けを呼びになど行きもしない。むしろ逆の方向に歩き出した。既に死んでいるブラウを探すヴィオレット。その背を追うヴェルデアスル。その斜め後ろを歩くノワール。
やがて、凄惨な殺害現場が見えてくる。ヴィオレットは二匹の双子の竜のそばにヘたり込んでいた。白いズボンが血に染まっている。
「好き、だったのに」
背後に寄ってきている二匹の竜に気付いていないのだろう。ヴィオレットは独白を止めない。
「私も好きだったのに……!」ついに、その頬を涙が流れた。「ごめんなさい……従者の役目もまともに果たせず、貴方も、貴方の敬愛した兄上もお守りできず、ごめんなさい……! こんな私でも好きと言って下さったのに……! 世間体ばかりを気にして、貴方に冷たくしたのに……」
冷静で仕事に私情を持ち込まなかったヴィオレットが、主の死に嗚咽を漏らしている。完璧な従者の姿などどこにもなく、そこには主に愛され主を愛してしまった雌竜の姿しかなかった。
「サフィロのペンダント……ずっと肌身離さずつけていたんです……。ごめんなさい、ブラウ様……!」
ヴィオレットは泣き崩れている。彼女はしばらく動かないでいたが、落ち着いてきて、周りの状況も見えるようになったのか、初めて後ろを向いた。助けを呼びにも行っていないヴェルデアスルとノワールの姿を、その瞳に映す。真っ赤になった目が見張られる。
「なぜ……ここに……?」
「サフィロのペンダントか」ヴェルデアスルは悲しく笑い、優しい弟の眼差しをヴィオレットに向けた。「古い伝統だよね……自分の鱗の色の宝石を贈るのは、求婚と同義……。ブラウ兄さん、婚約してたんだ」
「いいえ、私は受けませんでした……従者と婚約するなど以ての外と、叱りつけたのです……」
「そっか」
ヴィオレットに歩み寄り、その背をそっと撫でるヴェルデアスル。ヴィオレットの涙が堰を切ったように再び溢れ出した。しばらくは止まりそうにない。ヴィオレットの背を撫でる手が、そっと離れた。それでもヴィオレットは変わらず泣き続けている。ヴェルデアスルも変わらず笑みを浮かべ続けている。変化したのは、ヴェルデアスルの左手だけ。その手に翠鱗の剣が出現した。
「来世はきっと」
翠鱗の剣を振りかぶる。ヴィオレットは気付かない。大粒の涙が頬を流れる顔を揺らして数回頷く。
「幸せに、なれるよ」
翠鱗の剣がヴィオレットの体に突き立てられた。
ヴィオレットへの慰めのような、ヴェルデアスルの願いのような、そんな言葉と共に。
part0
【悲劇の兄君と日陰の実弟】
END




