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 翌朝一之瀬が目を覚ますと、彰子の姿はなかった。リビングにいくとテーブルの上にメモがあった。


 『ありがとう。 彰子』


一之瀬はその意味をどうとっていいのかわからずに困惑した。


 あれ以来、3日間彰子は会社を休んでいる。一之瀬はホワイトボードの名村の青いプレートに時折目をやりながら、ため息をついた。携帯に電話しても、コールはするが電話にはでない。メールをいれても返信もなかった。


 一之瀬は中本と営業に出ていた。中本はここのところ雰囲気が変わって少しずつだが、営業の担当者らしく変わってきていた。一之瀬は彰子にアドバイスをもらってからとことん中本と話をした。中本はもともと無表情なタイプで表現力に乏しい。それを克服したいと思って仕事は営業を選んだのだと言った。それでも、一之瀬についてまわってその仕事ぶりを見て、どんどん自信がなくなっていったようだった。そうすると夜も寝られず、課題で出されたこともPCに向かうと頭が真っ白になってしまって、毎日にらめっこするだけで時間は過ぎてしまった。どこがわからないとか、一之瀬がいろいろ聞いてくれても答えることが出来なかったのだ。最近は本当にやめようと思っていたと、やっと正直な気持ちを一之瀬に告白した。

 一之瀬は中本の思いには一度も気付いたことがなかった。何を言っても反応が薄い中本をやる気がないとばかり思っていた。結局自分の仕事のやり方を中本に押し付けていただけじゃないかと思うとカウンターパンチを食らったようだった。でも、それで目が覚めた。その次の日から、技術じゃなくて、相手の心の掴み方や表情の出し方や会話のコツなど、コミュニケーションのとり方を中心に教えていった。そして今日、はじめての中本一人で商談の実践をする。最後の仕上げだった。一之瀬は事前に中本が作ってきた案件の内容と商談の段取りなど、綿密に打ち合わせをした。中本は緊張して顔が青い。


「中本、いいか、失敗を怖がるな。俺がついてる。必ず拾ってやるから、思い切ってやれ。おまえのいいところは丁寧さと内容の正確さだ。今まで見てきた俺の商談を真似るな。おまえは俺とは違う。おまえらしさでいいんだからな。おまえの人柄を売れ。この案件はおまえ自身だ。今のおまえならできる。自信もっていけ。」


そういうと緊張していた中本が驚いたような顔をして幾分赤みが増す。


「はい。」


少し照れくさそうに笑うと中本にしては元気な声で返事をした。


「さあ、行くぞ。」


「はい。先輩。」


そうして商談は何とか中本一人でこなし、同行していた一之瀬は挨拶と会話をした程度で出番はなかった。商談の内容はまずまずで、相手も乗り気になってくれた。まだまだ、表情が硬かったり、ぶっきらぼうさはあるものの真面目で丁寧なところが相手に好感を持たせたようだった。帰り道の車の中で運転しながらも中本の晴れ晴れとした表情を見て、一之瀬は彰子の言葉を思い出した。


『難しいけど、人を育てるって面白いわよ。』


 今、中本の表情を見ていると本当にそうだと思った。人の成功が自分のことのようにうれしいと感じる自分が不思議でならなかった。今回、中本という後輩に接したことで、人はみんな違う考えや価値観をもっていることは頭でわかっていたはずなのに、自分の物差しでしか人を見られなかった自分に気付かされた。一之瀬は一人前の顔して仕事をやっていたが、まだまだ青二才なんだなと思うと、またひとつ目標ができたようでなんだか仕事が楽しくなってきた。


「中本、今日は上出来だったぞ。緊張してたから少々堅かったが、あちらさんは好印象だったみたいだしな。これで、ひとり立ちだな。」


窓の外を見ていた中本は驚いた顔をして視線を一之瀬に向けると、照れくさそうに輝かしい顔で笑った。


「いい顔してるじゃないか。おまえにもそんな笑顔ができるんだぜ。いい営業になれるよ。」


ちらっと中本の顔を見て一之瀬がうれしそうに言った。


「一之瀬先輩・・・。俺、一時やめようと本当に思ったけど、今はやめなくて良かったと思ってます。今日、緊張して、思うようには行かなかったけど、今までの中では最高の自分だったんです。終わった後、先輩がニッコリ笑ってくれたときには、できないと思って悩んでた頃が不思議なくらい成長した自分に気がつきました。担当してくださったのが一之瀬先輩で本当に良かったと思ってます。」


そういって中本が隣で頭を下げる。


「おいおい、頭下げるのは俺だよ。おまえの気持ちも考えずに俺は自分のやり方ばっかりを押し付けてたんだ。自信なくすのも当然さ。今回は俺もおまえにいろんなことを教えてもらったよ。気がついてやるのがおそくなって、ごめんな。」


一之瀬が申し訳なさそうに中本を見た。


「いえ、とんでもないです。そんな先輩、謝らないでください。」


そして、中本が照れくさそうにもじもじしながら一之瀬に声をかける。


「あの、一之瀬先輩、・・・俺・・・まだまだですけど、一之瀬先輩みたいな営業担当になりたいです。これからもいろいろご指導いただけますか?」


「えっ?俺?」


一之瀬は驚いた。そんなことをまともに面と向かって言われたことは初めてだった。

(彰子さん、これですか・・・。たしかにはまりますよ。)

一之瀬は心の中でそうつぶやいた。一之瀬は同時に今日こそは彰子に会いに行くことを決意した。この3日間は彰子のことを思うと自分ばかりが強引に彰子の心の中にずけずけとはいっていっていいものなのか、ひどくナーバスになって迷っていた。彰子を傷つけたくない思いで一杯だったのだ。でも、今何かがはじけた。あのとき、すべてを受け入れるといってたはずなのに、彰子の前で二の足を踏んでいるじゃないか。腫れ物にさわるような扱いをしているじゃないか。自分は何をもたもたしていたのだろう。自分がしなくてはいけないことはいつでも傍にいてやることじゃないのか。近くに居る安心感をもたせてやることじゃないのか。そう思うと、いてもたってもいられなかった。


一之瀬がPM6:00に会社に戻ると金曜日なので事務関連の人たちの多くははすでに退社し、会社にはまばらしか人がいなかった。営業系はまだこれから帰社してくるようだった。一之瀬はすばやくルーチンワークをすませると早々に会社を後にした。

 彰子の家は電車で15分くらいのところだった。手帳にある住所を頼りになんとか、彰子のマンションを見つけるとの部屋ドアの前に立つ。インターホンを何度か鳴らしたが、留守のようだった。もう一度、携帯に電話してみる。コールはするが、やはりでない。


「くそっ!彰子さんどこいったんだよ。」


泣きそうなぐらいの顔をしてつぶやいた。そしてはっと何かを思い出したように会社に電話した。

「お疲れ様です。一之瀬ですけど。三枝さんってもう帰られました?・・・え?今出た?すみません、急用なんです。追いかけていただけませんか?」




ここまでお読みくださり、ありがとうございます。あと残り2話です。最後まで是非お付き合いください。

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