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追 憶(6)

19歳の時、妊娠を期に双方の親兄弟と顔合わせをし、結婚式場も予約していた。

気持ちは前向きだった。

あの一件から、倉橋は少しだけ変わった。

前より、早めに仕事を切り上げ帰宅するようになった。

友達などと飲みに出る時は、私を一緒に連れて行くようにもなった。


そんなある日、妊娠初期の血液検査の結果を聞きに行くと、医師から風疹に罹っていた事を告げられ、重度の障害が出る可能性があると説明を受けた。

最初に倉橋に話したが、

「俺には決められない。ひかるの判断に任せるよ。」と言う。

それから何日か考えてみたものの、一人で結論を出すことは出来ず、両親に相談をしに実家へ向かった。

母親は、

「今回は諦めなさい。まだ、若いんだから。次は大丈夫だから。」と言う。

そう、本当は『流産』したわけではない。

最終的に『中絶』を選択したのは誰でもない。この私。


手術の日、病院の待合室で母と二人、座っていた。

他に患者さんは居ない。

会話は殆どしなかった。緊張でいっぱいだった。

「琴野さん、こちらにどうぞ!」

古い町医者。

年期を思わせる木造の柱や桟に、黄ばんで見えるガラス達。

Pタイルの床は冷たさを感じずにはいられなかった。

きっと、普通の定期検診だったなら、こんな風には思わなかっただろう・・・

――もう二度とこんな目に遭うのは嫌だ!――



それから半年が経過していた。

私は、結婚式場で着物用の下着を身に付け、鏡の前に居た。

メイクさんから真っ白なおしろいと真っ赤な口紅が塗られ、文金高島田が被されている所だった。

結婚を止めることだって出来たはず。でも、何となく周りに流されていた。

別に『嫌』と、断る理由も無かった。

そして、この日の内に、婚姻届が受理され『琴野 ひかる』は『倉橋 ひかる』となった。

『晴れて』と言った感じは無い。同棲生活の延長に過ぎなかった。



私が21歳の頃、会社の経営状態は思わしくなかった。

当時、事務所にしょっちゅう遊びに来ていた沢渡は、何を血迷ったのかいきなり、

「俺が営業やるよ!」そう倉橋に行った。

「えっ、営業なんて出来んの?会社の仕事なんてやったこともないのに・・・」

「まぁ、俺に任しとけ。大船に乗った気でいろよ!」

「ん・・・じゃあ、頼んます。」

肩書きは『営業部長』。沢渡が勝手に決めた。


私は何かって言うと、沢渡の営業活動に同行させられていた。

何故か、あの事件以来、私は可愛がられていた。

事務所に来ては、デスクに向かう私に、自分の話を面白可笑しく聞かせていた。

他の従業員達と飲み会をしたり、倉橋が現場で遅い日は、二人で食事がてら飲みに行ったりもした。


沢渡は饒舌だった。

自分が相手にしている女性の話を色々聞かせては、私の知らない世界へと好奇心を(あお)った。

「ひかる、知ってるか?主婦って、抱かれながら、頭の中では違う男を描いて抱かれてる事があるんだ。」

「俺、常日頃から女達に言い聞かせてんのよ。」

「なっ、俺に抱かれて俺の名前を叫んでると、旦那との夜のお勤めの時、間違って俺の名前を言ったらまずいだろ!って。」

「だから、俺といても必ず叫びたくなったら旦那の名前にしろってね。」とか、

「この間、さすがの俺も毎回毎回だから言ったよ!“爪、短くしろ!”って。」

そう言って、沢渡はワイシャツの手首のボタンを外し、両腕を私に見せる。

そこには、あきらかに引っかかれたと思われる無数の生傷があった。

「背中から脇腹から、これだよ!」

「風呂入ると、結構沁みるんだぜ!」

こんな話に、身体の女の部分が熱くなったりした。

何度倉橋に、夜を強請(ねだ)った事だろう・・・



二十歳(はたち)の頃、ソープにいた30代後半女性にえらく気に入られ、その人との一年間の同棲生活の中に於いて『女』と言う生殖動物の本能と(さが)を、身を持って教え込まれたそうだ。

それを、手渡される小遣い元手に他の女に次々試し、その女性と別れた後も向上心は留まることなく、日々勉強(・・)の末に辿り着いたものは、『心』と言うエッセンスを加えることだったらしい。

沢渡に対して、女が身も心も()いては人生まで投げ打ってしまいたくなるのは、『心を伴っての行動』に、その時(・・・)だけは徹していたからだろう。



「ひかる、女ってのは身体だけ与えても駄目なんだよ。そこに『心』を入れてやって、始めて本気で燃えるんだ。例えばこうだ。」そう言ってあれこれ話し出した。


「一回戦の後が辛そうだったら、取り敢えず相手の好きな飲み物を抱き抱えて口に注いでやるんだ。煙草が好きなら、火を点けて口にくわえさせてやる。」とか、

「何でもない日に、花屋に寄って花束を買ってやる。普段冷たい俺が、そんなことすると泣いて喜ぶのよ。」とか、

「女の体調に合わせて、その日の強弱をコントロールするんだ。〝どうした?調子悪いのか?じゃぁ今日は軽めにしとこうな〟って具合に・・・」

「もっとも、『軽め』だけで我慢出来た女なんて、今までお目にかかった(ためし)が無いけどな!」なんて事を、サラっと言って退けた。


だけど、多分、みんな知っていたと思う。

沢渡がどんな奴か分かっていても、きっと、離れられなかったのだ。

《金の切れ目が、縁の切れ目》って。

どれだけの女から、どれだけの札束が流れたのか知らないけど、『愛』を語らない沢渡だった。

普通だったら『愛してるよ』位のセリフはあって当然だと思う。

でも、沢渡は決してそこだけは『勘違いすんな!』の世界だったらしい。

10年来の『恋女房』はいたけど籍は入れておらず、私は1回だけの面識しかない内に、その人は何処かにいなくなってしまった。

それから何年も、沢渡はずっと探し続けていた。


元々は、ジャズバーのオーナーだったらしいけど、カラオケブームの波に遅れまいとスナックに転向したらしい。

『恋女房』をママに仕立て、自分は『マスター』。女の子も、常時4、5人はいたとか。

5年間その店を経営していた間に、客だった倉橋を含め、他の『親父』と慕う総勢12人の子供達を作ったり、外で引っかけた女達が入れ替わり出入りしていたりと、当時、女の数の多さには何処にも引けを取らず、それに群がる男の客達で大層な盛況ぶりだったらしい。

しかし、次第に沢渡の取り合いで女同士が店の中で喧嘩をしたり、自分の遊びの時間が無くなったりした事に徐々に苛立ちを覚え、その内、商売にも飽きが来てしまったと言っていた。

私が知り合った18歳の頃には既に無職だった。



あの事件に対する沢渡への『嫌悪感』や『恐怖心』は、無くなっていた。

日々接している内に、まず、頭の回転の速さに驚いた。

そして、常識も非常識も満載だった。

営業活動を通して、私の中に知識や教養・戦略法といったものを次々と植え付けていったりもした。

そんな沢渡を、いつしか尊敬するようにさえなっていた。

しかし、私が『尊敬』するのに対し、沢渡は25歳も離れた私に『女』を映し描いていたのだ。




その日、事務所ではバイトの女の子が休み、倉橋は飯島を伴って現場に行っていて、沢渡と私の二人きりだった。

いつもの様に、馬鹿げたとも思える沢渡の冗談話に耳を傾けながら帳簿をつけていたが、急に黙ってしまい、何の気なしに沢渡に視線を向けた。

遠くを見ながら何やら考えている様子に、

「どうしたの?」

「・・・・・」返答がない。

「何、急に・・・?」

その時、沢渡の真剣な眼差しが私に向けられた。

「なぁ、ひかる。俺、変なんだよ。今、何を思ったか当ててみ?」

「そんなの、分かるわけないでしょ!」

「俺さぁ、お前の事、抱きたい。」

一瞬、何を言ったのか意味が分からなかった。

「変な冗談言わないでよ!」笑いながら沢渡を見た。けど、

「そうなんだよ。俺、変だよな。でも、俊輔の事はちょっとこっちに置いといて、今、お前を抱きたいと思った。」

「ひかるは俊輔の女房で、俊輔は俺に取っちゃ可愛い息子で、そう考えたら絶対あっちゃあならん事を、俺は思った。」

「お前が男を作ったあん時は、正直言って俊輔が可哀想で仕方なかった。何であんな出来損ないにイカレちまったのかって、腹立たしかったよ!」

「俺、あいつに言ったんだ。目を覚ませ!女はいくらでもいるって。でも、あいつはひかるがいいって譲らなかった。」

「今なら、俺にもお前の良さが分かるよ。」

「お前は純粋だ。多少馬鹿な所はあるが、若さからくる馬鹿さだろう。年と共にそんなのは消える。」

「それに、甲斐甲斐(かいがい)しく俺の世話を焼くのを見てたら、忙しいのもいっとき忘れる程、心が和んだ。」

「どこにでも落っこってる、そんじょそこいらの安っぽい女じゃぁ無かった・・・」

「俺が、本気で抱きたいと思った女は女房以来よ!」

「そんなこと、いきなり言われたって・・・。俊兄の『親父』でしょ!無理に決まってるじゃない!しっかりしてよぉ・・・」

沢渡が煙草に火を点けた。それを見て、私も煙草を吸った。

何分経過したのか。

10分位の様な気もするし、1分だけの様な気もする。

口火を切ったのは沢渡だった。

「それじゃぁこうしよう。」

「俺は、今すぐにでもお前を抱きたい。しかし、お前の意思も考慮しなきゃならん。」

「もし、お前の答えがNO(ノー)なら、俺は黙って身を引く。今後一切会社にも出入りしないし、お前の眼の届かない所へ行って生きるよ。」

「でも、もしYES(イエス)なら、いっとき俊輔の事を忘れて、今の俺達の状況全てを忘れて、今からホテルに行ってくれ!」


私はどちらの返事も出来ずにいた。

まず、沢渡がいなくなる事を考えてみた。

今日迄の、共有した時間。

短い様で、実に中身の濃い充実した日常だった。

朝起きると、事務所に行って沢渡が来るのを心待ちにしていたのかも知れない節があった。

一緒に食事をし、一緒に飲み歩き、その頃の私の生活と言ったら倉橋といるより沢渡といた方が長く、又、倉橋と在り来りな会話をするより、沢渡のその時々に応じた会話の方がはるかに新鮮で興味深かった。

その沢渡に、もう会えない・・・


「さぁ、どうする。ひかる?」

「言っとくが、これは一生涯の秘密だ。俺は、墓の中迄持って行く。」


私は立ち上がると、受話器を持ち上げ倉橋のポケベルに転送した。

そして、デスクの引き出しから鞄を取り出すと、

「行くよ!」と、沢渡に声を掛け、先に歩き出した。

――もう、どうにでもなれ――


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