追 憶(3)
パチンコ屋の自動ドアが開いた瞬間、けたたましい騒音に苛立ちを覚えた。
元々、大きな音が苦手なのだ。
極平凡な核家族で厳格な父親を持つ環境に育った私にとっては、別に物静かだった訳でもないが、大声を張り上げるとか、大声で怒鳴られると言ったようなことは皆無に等しかった。
大きな音でも喜んでいた場所と言えば、映画館位の物だっただろうか・・・
学校内でも決して目立つタイプの類に入る人間ではなかった。
狭い通路を進む度、みんなに振り替えられる。
――そんなに、通行人が気になるの?ほっといてよ!――
恥ずかしくて、しょうがなかった。
――早く見つけて、早く出たい。――
ここに来ると、いつもその事ばかりを願っていた。
通路3本目でようやく探し当て、胸を撫で下ろす。
他の客同様、沢渡も首を横に向け私のことを一瞬見てから、又、台の方に向き直った。
沢渡 和郎、50歳。かれこれ3年の付き合いになる。
「出てる?」沢渡の両肩に手を置きながら聞いた。
「今日もやられていますよ!」明るく、おどけた口調だが、表情迄は読み取れない。
大体、いつも本気でやっているのかどうかさえ分からない。
そう、怒らせなければ、いつもはこんなに穏やか。
怒らせたりしなければ・・・
「もう少しで終わるから、ここに座ってな!」そう言いながら、隣の席の座面をポンポンと叩いたが、私は座らなかった。
その行動が何を意味しているのか、沢渡にはすぐに分かる。
残りの玉を『早く無くなれ』と、言わんばかりに打ち込んでいた。
沢渡の後に付いて店の外に出ると、私は大きく一つ深呼吸をした。
目の前のロータリーには、バスの順番を待つ人々が長蛇の列を成している。
私達は、それを横目に見ながら左に歩き始めた。
「一杯飲むか?」
「うん!」不愉快さは一掃した。
沢渡自身はあまり飲まないが、機嫌が悪くない限りは、私の晩酌に付き合ってくれる。
「鳥伊勢でも行ってみるか?」
「そうだね。いい魚入ってるかなぁ・・・」
言わずと知れた、鳥料理がメインの言うなれば居酒屋である。
私はどちらかと言うと生ものを好んでつまみとし、沢渡は魚中心の焼き物・揚げ物で、『飲む』と言うよりは一杯目のビールを半分グラスに残したまま、食事を摂る事が多かった。
お互い、込み入った話はしない。
日常の出来事や仕事の話などを主体にし、二人の間の話は、敢えて避けた。
二人の最初の『決め事』である、『互いの生活に干渉しない』を、5年も実践し続けていたのだ。
そもそもの出会いは、倉橋が『親父』だと言って家に招いたのが沢渡だった事に依る。
その頃まだ籍は入れておらず、同棲生活を送っていた。
当時18歳の私は、自分で言うのもおこがましいが『内助の功』を発揮し、家事も仕事も一生懸命だった。
色々な料理本を読み漁っては、好き嫌いの激しかった倉橋に、少しでも喜んで食べてもらおうと躍起になったり、又、『美味い!』と、笑顔で答えてくれる事に喜びを感じ、『次はもっと!』と、意欲を燃やしたりもしていた。
今思えば、一回り以上年の違う彼女が可愛くて仕方がなかったのだろう。自分が尊敬する『親父』に、付き合ってる女が作った手料理を食べさせて、自慢みたいな紹介をしたかったのではないだろうか?
沢渡への第一印象は『おじさん』・『お喋り』・『よく食べる人』。
そんな相手に対して、いずれ男女の関係になるとは想像するはずもない。
又、倉橋に於いても、私の浮気相手が『親父』以外だったら、打つ手を考えた事だろう。
だが、倉橋が沢渡の事を会社の『営業部長』に就任させさえしなかったら、私達が付き合う事は無かった。
いや、違った展開にはなっても、やはり付き合ったのかも知れない。
確かに、倉橋との生活には『安心』があった。
私が働かなくとも、楽勝で生活して行けるだけの稼ぎがあったし、生き様に対して、13歳分プラスされた貫録もあった。更に付け加えると、細かな事を一々言うような了見の狭い人間でも無かった。
まさに、当時、私が求めていた『安心』だったのだ。
だが、結局、倉橋に対して最初に抱いた『止まり木』と言う感情を抜け出すことはなく、離婚する迄の11年間は、大きな喧嘩もせず流れ去った。
稼ぐ分、家に居なかった。
朝早くから、夜遅く迄、休日出勤も当たり前の『亭主元気で留守』だった。
帰って来た時はいつも疲れ果てて、飯→風呂→寝る。
構って貰えない私は、次第に留守番だけの毎日に辟易し、友達を誘っては夜の町を遊び歩き、ナンパにさえ応じるようになっていった。
そして、それは度を越し、友達さえも誘わなくなっていった。
明け方まで帰らない日が度々重なってから暫くして、沢渡から自宅に電話が入った。
「ひかるか?沢渡だ。暫く振りだな。たまには一緒にお茶でも飲まないか?」
――何?いきなり唐突に・・・――
「あっ、はい。」
「東口のモンブラン、知ってるか?」かなり古い喫茶店だった。
「はい、分かります。」
「じゃぁ、そこで30分後に。」
「はい、伺います。」
訳の分からないまま、自転車を走らせた。
店に入ると、他に客は居らず、右の一番手前の席で新聞を読んでいる沢渡がやけに目立って映った。
軽く会釈をしてから向かいの席に腰を下ろし、私が座るのを待っていたかの様な素早さで来たウエイトレスに
「アメリカン下さい。」と、注文を入れた。
「元気だったか?」
「ええ、まぁ・・・」
「今日ひかるを呼び出したのは、俊輔から相談を持ち掛けられたからだ。」
――何?相談って!――
「この頃、ひかるが明け方迄帰って来ないんだけど、男でも出来たんじゃないかって!」
「自分から聞けないから、親父が聞いてくれって言うんだ。」
――何で、この人から、そんな事言われなきゃいけないわけ?――
「男なんていません。友達と会ってるだけです。」
「友達って誰だ?」
「中学の同級生です。」
「毎回毎回、同じ友達って言うのか?」
沢渡の目が一瞬にしてきつくなった。
声には『ドス』が利いていた。
――この人は、いったい何者?――
「俊輔から連絡があった次の日、3日前だ。俺は、ある人間にお前を見張るよう指示をしておいた。夜7時に出掛けたよなぁ!」
私は顔色が変わったかもしれない。目を見開いて沢渡の顔を凝視してしまった。
「ん?お前、何処に行った?」
「・・・・・」私は、俯いた。
「駅前で若い男と逢ったよなぁ!えっ!それから何処行った?」
「・・・・・」俯いたままでいた。
「まさか、最後迄俺に言わせるんじゃぁないだろうな!?」
――もう駄目だ・・・――
「食事して、それから・・・ホテルに行きました。」
「ここに、相手の名前と連絡先、書け!」
さっき沢渡が手にしていた新聞と赤いサインペンがテーブルの真ん中に置かれた。
――教える気なんて、あるわけないでしょ!――
「相手には関係ありませんから。」
「俊輔は俺の大事な息子よ!!それが、女房に男がいるかもって俺に泣きついて来たんだから、このまま見過ごすわけにいくまい!」
「俊兄とは、別れます。」
「寝ぼけた事言ってんじゃねぇぞ!!息子の女房、寝盗られて、バレたら離婚だぁ?」
「はい、そうですかって、簡単に済ませる俺じゃぁねぇよ!」
「俺がキレる前に、サッサと書いた方がいいぞ。キレたら、何するか分かんないからな!」
私は観念して、自宅の電話番号と名前を書いた。
こんな言葉つきも態度も、人生初だった。
その他、あれこれ言っていた様な気もするが、恐怖心で一杯の脳裏に焼きついた言葉はここまでが限界で、もう見つからない。
「暫くここにいろ!ちょっと出てくる。いいか、逃げ出すんじゃねぇよ!」
沢渡はやおら席を立つと、新聞を持って店を出て行った。