追 憶(2)
日暮里駅の改札口に付いたのは、待ち合わせ10分前だった。
行き交う人々をあちらこちら眺めたが、『社長』らしき人は見当たらない。
待つこと15分。
――あっ、来た――
すぐに前原だと分かった。図面を抱えていなかったら、絶対やくざに見間違われているに違いない。
痺れてきていた足を宥めながら小走りで駆け寄り、改札に差しかかる少し手前で声を掛けた。
「社長!倉橋です。」
前原は私に気付き、歩み寄って来た。
「待たせた?」
「いえ、私も今さっき着いた所です。」
前原も私も、まだ改札の中だった。
「どこか、喫茶店でも入る?」
「どちらでも。」
前原が腕時計に目をやった。
――うわっ、時計まで金ピカだ!――
――整髪剤のにおいがする。身長は170センチ位?それとも、もうちょっと高いのかなぁ?――
「お茶でもと言いたい所なんだけど、実はあまり時間が無いんだよね。ここで判、押しちゃってもいいかなぁ?」
「はい。それじゃあ・・・」私は、慌てて鞄の中から1枚の手形とスタンプ台を出し、改札ゲートの縁の上に置いた。
――心臓がバクバクしてる――
――社長って、カッコいいんだぁ・・・――
前原もセカンドバックの中から小さな革袋を取り出す。口元を開き、自分の左手の上で逆さにすると、中からゴム印と社判が出てきた。
腕を上げた瞬間に、ボタンをしめていなかった背広の裏地が覗いた。
赤い糸の繊細な刺繍柄が、玉虫色の生地に浮き上がっている。
――完璧、やくざ?――
――でも、嫌いじゃないな・・・――
幅10センチ程の狭いスペースの上で手早く捺印がされた。
「わざわざ、すまなかった。」
「いえ、お忙しい所、こちらこそすみませんせした。」
「じゃあこれで。」
そう言うと、前原は足早に元来た方に戻って行った。
――はぁ、疲れた・・・――
――お茶は、地元の駅に帰る迄お預けだ・・・――
電車は空いていた。
一番端の席に腰を下ろし、ぼんやりと移り行く車窓の景色を眺めながら、私は空想の世界へ入っていた。
――着こなしと一緒で、性格も怖い人なのかなぁ?――
――電話の声は結構高音だけど、会ってた時はそんなでもなかったな。テノール系?――
――確か、子供が3人いるんだった。奥さんはどんな人なんだろう?――
――夫婦仲、良いのかな?――
――今は、どの辺りにいるんだろう?――
――もう一度、会ってみたいな。ゆっくりと・・・――
アイドル歌手や好きになる男優などに思い描く感情とはちょっと違った部分で、やけにさっきの情景が、何度も何度も繰り返し思い出されてしょうがなかった。
胸の高鳴りとかとは別物だけど、そっけない口調も、ちょっとした仕草も、細めの指の動きさえ、その一つ一つが、何度も何度も繰り返し思い出されてしょうがなかった。
昼食のあとに飲んだ精神安定剤が今頃になって効いたのか・・・電車の揺れがやけに心地良く、瞼が今にもくっつきそうだった。
――ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ――
私はそれからの3駅、浅い眠りに就いていた。
あれから2カ月が経過し、5月も終わりも迎える頃、事務所に一本の電話が入った。
倉橋が受けたその会話の端々から、相手が前原だという事はすぐに分かった。
「ちょっと待って貰えます?」倉橋が会話を中断して、私に話しかけて来た。
「6月後半に、飲食店の据え付け家具があるらしいんだけど、俺、今の現場ずっと続くから、ひかるが受け持ってくんない?」
私は少し躊躇してから言った。
「私、一人で?現場のことなんて分かんないよぉ。」
「飯島、アシ(アシスタント)に付けるから!」
――飯島ならしょっちゅう現場も出ているし、なら、大丈夫かな・・・――
「前原社長が、私でも良いって言うなら、視るけど。」
「もしもし、すみませんでした。内のやつでも、構わないですかねぇ?飯島も一緒に行かせますから。」
「そうですか。それで、いつそっちに打ち合わせ、行かせれば良いですか?」
「はい。」そう言いながら、倉橋は送話口を手で押さえ、私に再度聞いて来た。
「明日の10時、神楽坂の現地で社長と待ち合わせだから。現調(現場下見)に飯島と一緒に行ってきて!」
私は頷いた。
「はい。じゃ、そういう事で。」倉橋は受話器を置いた。そして、
「おーい、飯島ぁ!」
隣の部屋にいる、飯島に声を掛けながら部屋を出て行った。
飯島 孝祐、23歳。まだ入社2カ月足らずの新人。
営業のアシスタントを主に、もっか現場実践の勉強中。
既婚者。子供1人。住宅ローンの残は34年。『BMW』を乗り回す、傍から見たら『長身のイケメン』。
だけど、私はB型の人が苦手。
私自身、半分はBの血が入っているのに、どうしても構えてしまう。
いつもいつも人の揚げ足を取って嘲笑されているかの様な気になるのは、何故だろうか?
まぁ、年上だし、『社長夫人』の肩書も持っている。社員なのだから、一応は仲良くする姿勢を見せておかないといけないと思った。
19時。仕事を切り上げようとした時、鳴った電話に私が出た。
「はい、アウルです。」
「俺だ!」
――すぐに、声の主が分かった。――
「うん。」
「夕飯に出て来ないか?」
「いいよ!どこで何時?」
「8時にブルートでどうだ?」
――相変わらず、パチンコか・・・――
「分かった。じゃぁ、あとでね!」
自宅に帰り、化粧を施し、濃い紫色のアンサンブルと黒のタイトスカートに着替えた。
夜、あの人に逢う時は、甘い香りのコロンを多めにつける。襟足・胸元・手首、そして腰回りにも。
自販機で、自分のと相手の分の煙草を2箱ずつ購入し、少しだけ早歩きで指定のパチンコ屋に向かった。
――またきっと、帰るのは真夜中過ぎになるだろう・・・――