埋め合わせ
歩みを進めた先は、新居から3分と掛からない居酒屋だった。
夫婦間の冷めきった頃から通い始めたのだから、もう半年が経つ。
週に2~3度は暖簾をくぐる、いわゆる『常連さん』と化していた。
ちょっと重たい木の引き戸を勢い良く開き、今夜はいつも以上に陽気なフリをして店内に入った。
「お晩です~!」
「何だ!また来たのか!」いつもの口癖。この店の大将の岡本 耀司。58歳。
口は悪いし、態度もデカイけど、みんなこの大将の人柄が好きで通う常連ばかりだ。
「お~、待っとったんよ!ぴかっち。ま、ま、こっちに座りなさい。」常連の通称『善ちゃん』。
この店に初めて入った時、真っ先に声を掛けてくれた1つ歳下の関西人。都会の居酒屋の店主を『大将』と呼ぶきっかけも、善ちゃんが発端だったらしい。
ちなみに、私のあだ名である『ぴかっち』も、この善ちゃんによって付けられた。
いつだって、相手の事なんてお構いなしに、マイペースで面白おかしく事を進めちゃうけど、なんか憎めない。
普段無口な私もここに来ると饒舌になる。それもこれも、言わば善ちゃんが早々とあだ名をくれた事によるのかも知れない。
長めのカウンター席の一席を勧められ、善ちゃんの隣に座った。
「いらっしゃ~い。今、みんなでぴかっちの噂、してたとこなの。」温かいおしぼりとグラスや氷を持って、ママが来た。
「ありがと。何、噂って・・・」受け取ったおしぼりで手を拭きながら聞いたけど、何の話かなんて一目瞭然。離婚の事も、今日の引越しの事も既に話していたのだから。
何を頼まなくとも、勝手に料理が出てくる。裏メニューや多少無理とも思えるリクエストに、苦虫を潰したみたいな顔になりながらも応えてくれる大将が、今の私のお気に入り。
そう。離婚を切り出す前に用意した『好きな人』。いつもの私の鉄則。
芸能人なんておよそ遠い存在の相手に、本気で心ときめかせられる程、若くも清純でもない。身近な所に相手を感じる方が、淋しがり屋の私には似合っていた。
今夜は、私がいつも以上にピッチを上げて飲んでいても、くだを巻いていてもみんな笑って許してくれた。
だけど、心の中はからっぽ。
――これを、虚しいというのかな・・・――
閉店時間を期に、私も店を後にした。
帰り道の重い足取りはどうしても我が家に向かず、家とは反対方向に踵を返すと、携帯のアドレス帳を片っ端から覗き込んだ。
――現状を忘れたい・・・――
――今の私を呑み込んでくれる人――
――そして、『絶対条件』。全てに於いて安全な人――
僅かな登録件数の中から、ようやく一人の人物を見つけ、発信ボタンを押した。
4回目のコール音の途中で相手の声。
「どうした?」
斉藤 知也。私より一つ上の45歳。
若い時分の仕事仲間。と言ってしまえばそれまでだけど、去年の春、幾夜かを共にした。
別に愛情などというものがあった訳ではない。
世間でいわゆる『情事』・『火遊び』と言ったところか。
「逢いたいんだけど・・・」少し間があいた。自分の鼓動が聞こえてきそうだった。
「近くに付いたら電話して。」
「うん、わかった。」
――これであの暗がりに帰らなくて済む――
タクシーに乗り込み、高速道路を飛ばして貰った。首都高のきつめのカーブをあっという間に通り越し、『埼玉県』の文字を目にした頃には穏やかな直線が続いていた。街の灯りはその殆どが翳を潜め、道路を照らす照明がくっきりと浮かび上がり、その役目を確実に果たしていた。
高速道路を下り、次のルートを指示しながら、私は握りしめていた携帯電話のリダイヤル欄を出した。再び発信。
「もうすぐ着く。」
「わかった。」
待ち合わせ場所はいつも決まっていた。指示が入らない限り、あのスナック。
店の外にいなければ、中で飲んでいる。
知也の車を見つけ、タクシーを降りた。ハイエースワゴンの助手席ドアに手を掛けると温かい。
――ずっと走らせていたんだ・・・――
「久しぶり。」
「あぁ。」相変わらず無口だ。飲んでないってことは、いつも以上に無口なはず。
――まっ、いいか。夜中にいきなり電話したのに、逢ってくれただけでもよしとしなくては。――
車を走らせること5分。派手さを抑えたシルバー系のネオンサインのホテルに入った。
ここも、毎回同じ。さすがに部屋までとはいかないけれど。
冷蔵庫を開け、サワーの缶を2本取り出した。
「お疲れ~」
「うん」
――なんか、照れくさい。私がそうなのだから、知也は余計か・・・――
会話は殆どない。甘い囁きも、感度の良さも、笑顔すら・・・
それでも、最後の最後に落ち着いて眠ってしまうのは、ずっと抱き締められたままだから。
本当はメチャメチャ優しいの、知っている。
甘えたい時は無理でも、私がどうしようもない迄に落ち込んでいる時は絶対『NO』とは言わない。
――その時だけは、例え私が『厄介なひかる』であっても――
朝6時半、ホテルの電話のアラームで目が覚めた。
知也の腕をそっと外し、洗面所に。いつもそうだった。私が身支度を整え終えてから知也を起こす。女と違って男の支度なんて10分と掛からない。
近くの駅迄送って貰い、別れた。
――もう、次にこうして逢うことはないだろう・・・――
予感なのか、直感なのか、或いは決意なのか。
定かではないが、それでも、ふとそんな気がした。
――心に空いた穴は、いっとき埋める事が出来た――
――そのうち、きっと一人にも慣れるだろう――
――でも・・・当分の間、朝まで起きてる日々が続きそうだ――