壊れた日常の修復(1)
玄関のチャイムで我に返った。
いつの間にか山になっていた灰皿に、無理矢理、吸い掛けの煙草を押しつけて揉み消した。
足早に玄関の前に立ち、ドアを開けずに聞く。
――インターホン位、付けてよ!――
「はーい、どなたですか?」
「ヨシダ電気です。ご注文の品をお届けに来ました!」
鍵を回し、ドアを開けた。
「大型商品だったんで、まだトラックの中なんです。これから上げますが、設置もご依頼されてるので30分程お時間見て下さい。」
「分かりました。」
――これで少しは家らしくなる・・・――
洗濯機・冷蔵庫・テレビ・掃除機が次々運び込まれ、言っていた通り、30分もすると全てが使えるようになっていた。
元々、前原と結婚して新居に移り住んだ時、殆どの電化製品を持って行ったから、まだ自分が使っていた物が全て存在していた。
「電化製品、持って行くんなら構わないよ!」と言う前原に、
「狭くって置けないから、みんな小さいサイズのを買う事にした。」と、嘘を吐いた。
極力、前の痕跡のない空間で、新たな出発をしたかったのだ。
『誰もが使っていた物』は、嫌だった。
『私だけしか使っていない物』のみ、持って出た。
――日曜迄に、全部片さなくっちゃ・・・――
取り掛かった事には『迅速に』がモットーの私。
片っ端から開梱し、それぞれの在るべき場所に納め始めた。
今ではネットで何でも簡単に購入出来る時代になったが、昔から人の買い物に付き合うのが苦手だった。
私は、行った先のフロアを一周して『即決』するのに対し、人は立ち止まってはあれこれと悩む。散々悩んだ挙げ句、
「他のも見てから決める。」の一言。
「これなんか、どう?」なんて、聞かないで欲しい。
――自分の物でしょう・・・――
「なかなか似合ってるよ!」
と言った所で、すぐに決まるわけでもない。
――さっさと、買い物済ませてお茶したい。――
だけどそれが、付き合っている人との買い物で、相手が
「これにするよ!」と言っても、
「そんなの、ダサ・・・」
「もっと良いのがあるって!」などと、平気で窘めてしまう自分もいる。
母親や友人の物には無関心であっても、共に過ごす相手に対して、かなり私の嗜好が入っていた事は否めない。
どちらかと言えば、自分の買い物をするより、付き合っている人の物を一人で選ぶのが好きだった。
そして、そんな時だけは、自分自身納得の行く『嗜好の一品』を捜して何件でも歩き回った。
相手の笑顔を思い浮かべながら、料理を作ったり、アイロンを掛けたり、ベッドメーキングするのが好きだった。
休前日の夜、街に二人で繰り出して飲みながらお喋りするのが好きだった。
『女房』になっても『恋人』で有り続けたかった。
――前原とだったら、そうやってずっと過ごして行けると思ったのに・・・――
――何故、結婚すると、次第に恋人同士でいられなくなるの?――
――私は家政婦じゃない。ちゃんと、一人の女として見てよ!――
――あなただけが疲れてるんじゃない。――
――いくら家事が好きでも、結婚に向かない女っているんだ・・・――
大まかな荷物は仕舞い終わった。
引き出しの中身は追々整理する事に決めた。
折り畳んだ段ボール箱をナイロン紐で結び、玄関に運んでから掃除機掛けを始めたけど、5分もせずに終わってしまった。
――前の家だったら、片付けながらの4階迄。優に一時間は掛かったっけ・・・――
目覚まし時計に目をやると、午後1時を回っていた。
私は三日前の夜、前原から受け取った離婚届を鞄に入れ、区役所に向かった。
この辺りの出張所は悉く閉鎖され、自転車で20分程の庁舎迄行かなければならなかった。
炎天下の中、走り出したは良いけど日差しの強さに寝不足が重なって、今にも目眩がしてきそうだった。
どうにか辿り着き建物の中に入ったものの、冷房費の節約でエアコンはあまり効いておらず、届が受理されて帰る段になっても、まだ汗は引かなかった。
――こりゃ、休憩だ・・・――
――離婚届を出す時、少しは心が痛むかも・・・――
なんて思っていたけど、暑さの方が勝った。
近くにコーヒーショップを見つけ、小一時間を過ごしてから帰路についた。
エアコンのパワーを最大限に上げ、居間とキッチンを仕切るドアを閉めてからシャワーを浴びた。
その冷え切った部屋のベッドに潜り込むと、直ぐ様、眠りに就いていた。
夢を見た。
そこには、険しい表情の前原がいた。
私を睨みつけていたのかも知れない。
時々何か喋っていたけど、ハッキリした内容は分からない。
ただ、表情を一切変えない前原に『もう好かれてはいないんだ』と言う事だけ認識した。
携帯電話のコール音で目が覚めた。
居酒屋の大将からだった。
「もしもし・・・」
「何やってんだよ!みんな待ってるんだから!」
「今、何時?」
「もう8時過ぎだよ!何だ、寝てたのか?」
「うん・・・」
「呑気な奴だなぁ・・・はよ来い!」
「支度するから30分後ね。」
夢の内容を思い出そうとしてみたけど、止めた。
――所詮終わった相手。今更・・・――
今回の離婚理由を、この『大将が好きになったから』と、自分の中で勝手に決め込んだ。
店の常連さん達は、私が大将を好きだって気付いていた。
別に告白した訳じゃない。
でも、大将への接し方がみんなへのそれと違うのが、どうやらバレバレらしい。
善ちゃんにからかわれても、肯定も否定もしなかった。
然したる問題ではない。
前原と一緒になりたての頃より8kgも太っていた私は、この店に行く時にオシャレをした事がない。
いつもジーパンにTシャツ。
身体のラインが分かる服は極力避けた。
それは今夜も同様。
重たい引き戸を開けると、休前日らしい賑わいを見せていた。
「やっと来たよ!」大将の一声に、みんなの会話は中断となり、全員の視線を浴びる結果となった。
「お待たせで~す!」
誰が言うでもなく、カウンター席の中央が一つ空き、善ちゃんが椅子を引いてくれた。
「わし、もう酔ってしまいよった・・・」
「引っ越しの片付けし終わったら眠たくなっちゃって!」
――ここにいれば、何も怖くない。――
――みんな、いっとき仲間。――
――誰も私を中傷したりしない。――
店終いをしてから、大将とママに連れられママのお兄さんが経営しているとか言うパブにみんなで行った。
徒歩5分と掛からない距離。だけど、私は看板を初めて目にした。
マリンブルーの看板には、白抜きの文字で『PUB シャングリラ』と書かれていた。
――へぇ、こんなトコに、こんな店、あったんだぁ・・・――
20畳程の店内。
カウンター席と、テーブル席が5つ。
壁には『古き良きアメリカ』チックな装飾品が所狭しと飾られていた。
ママが店のマスターを紹介したくれた。
「ぴかっち、これが私の兄。今後は使ってやってね!」
「ぴかっちって言うのか。宜しくな!はい、俺の名刺。」
――『木下 紘亨』あれ?ママは『大田』・・・――
「ねぇ、何で、きょうだいで名字が違うの?」
「あっ、もしかして聞いちゃいけなかった?」
先に口を開いたのはママの大田 美月の方だった。
「私、結婚してるのよ!旧姓が木下なの。」
「えっ、そうだったんだ・・・」
「でも、秘密ね!あまり知らせてないのよ!!」
「う、うん・・・」
最初に〝ママ〟と声を掛けた時、〝ママじゃないのよ!〟と言われて、大将と結婚してないって事は分かってた。おまけに大将もバツ1で、今は独身って知ったから好きにもなった。でも、ママが他の人と結婚していたとは寝耳に水。
まぁ、女40歳なら当然と言えば当然か・・・ましてや美人だし・・・
女の色気はあまり感じないが、気風の良さは天下一品だった。
「なぁ、俺の名前読めた?」いきなり、兄ちゃんの方が口を挟んできた。
「・・・無理!何て読むの?」
「これで、『ひろゆき』って読むの!わざと、ふりがな入れないんだ!」
「どうして?」そう言いながら、大将に目配せしていた。
大将は、他のみんなとお喋りに熱中していた。
「読めなきゃ、聞いてくんだろ?そしたら、こっちのペースだよ!」
――店のオーナーなのに、この言葉遣い、何?――
ちょっと苛ついた。
「マスターって、幾つ?」
「美月の1こ上!ぴかっちは?」
――はぁ?客で、しかも、年上の私に・・・――
「44!」
「ぴかっち、中学どこ?」
「北弟3」
そう、ここは地元。2度目の結婚を期に地元に戻って来ていた。
離婚しても自分の地元を離れる気にはならず、家賃相場から元の家と差ほど距離のない場所に引っ越した。
「じゃ、俺の先輩じゃん!榎本君とか安田君とか知らない?遠藤君とかは?」
――面倒くせー・・・――
でも、その時のマスターの眼は輝いてた・・・
――話が繋がった?常連になるとでも?だけど、ママの兄貴だしね・・・――
「遠藤とはクラス一緒だった。安田はバレー部だった子でしょ!榎本ってのは・・・知らない。」
話し終えるか否かで、いきなり、唄い出したのは大将だった。
この曲を唄い慣れているのが分かった。
始めて聴く歌声は甘く優しく、そして、切なかった。
――少しだけ訛りを感じた――
傍から見ているだけの『好き』は、少しだけ近距離の『好き』に変わった。
一軒目で、2時間ガンガン飲んでて、かなり酔っ払っていたのだろう。
大将の後にいち早く近づこうと一生懸命だった私は、明らかに選曲ミスを犯した。
唄いながら、ぼろぼろ泣いた。曲が終わる頃には面影を追ってまともに唄えていなかった。
――所詮、私は泣き上戸のひかる。――
――健ちゃんを嫌いになったわけじゃぁない!――
――健ちゃんが勝手に私を一人ぼっちにしたんじゃない!!――
私は、別れて始めて泣いた。
その後、どうしていたのか、何時に帰ったのか、どうやって家に辿り着いたのか・・・
サッパリ覚えていない。
意識が戻ったのは、翌夕暮れだった。
着の身着のまま、窓も開けっ放しで、お膳の下に上半身を突っ込んで寝ていた。
――今日は土曜日。どうやって長い夜を過ごそう・・・――
大将の店は土日・祝日が休みだった。
――しょうがない。古巣に返り咲いてみるか・・・――
店名は『今井』。親子で営んでいる、小料理屋だった。
曇りガラスの入った格子戸を開けると、この中にも知っている顔の常連さん達が居た。
「お久で~す!」
「いらっしゃい!ホントご無沙汰だったじゃない。」変わらぬママの声に、ホッと安堵した。
大将の店に通うようになってから、ここには一度も顔を出していなかったからだ。
奥のテーブル席に座り、他愛のない世間話をしていた時、携帯が鳴った。
――えっ、大将?――
「もしもし?」
「何してんの?」
「家の近くで飲んでるとこ。」
「一人?」
「そうだけど。」
「行ってもいいかなぁ?」
「全然構いませんよ!」
15分程で大将がやって来た。
アイボリーのジャケットに黒のスラックス。VネックのTシャツらしき服も黒だった。
背はそんなに高くないけど、引き締まった身体つき。
日頃から体力作りをしているだけあって、実年齢よりも、かなり若く見える。
普段は毒舌だらけなのに、繊細な仕事ぶりやさり気ない優しさ、それに、野球のナイター中継や古い映画のストーリーに熱弁を揮う無邪気さ。
そんな大将の事が私も好きだった。
そもそも、私は歳の離れた人にしか興味が湧かなかった。それも、かなり上の人にしか。
「岡本さん、いきなりどうしたの?びっくりした!」
「いや、昨日のひかる、呂律が回ってなかったし、大丈夫だったかなと思って電話したら、飲んでるって言うから・・・」
「俺も、掃除と洗濯終わって暇してたし!」
――何か、くすぐったいよ。――
店以外では『大将』と呼ばない事を、昨夜みんなの会話から知った。
『ママ』も『ママ』ではなく『美月ちゃん』に代わっていた。
そういうものなんだと、私も自然に倣った。
――だから今夜は、私の事も『ひかる』なの?――
鯵の塩焼き・ほうれん草のお浸し・出し巻き卵を注文し、大将の話に耳を傾けていた。
ここに移って来る前の店の話とか、板前の修業時代の事とか、或いは浮名を流していた頃の武勇伝なんかも・・・
一瞬の沈黙が流れた。そして、大将が腕時計に目をやると、
「カラオケでも行くか?」
「そうしますか・・・」
その店を後にし、タクシーに乗り込んだ。
――私が離婚する迄は、こんなこと、一度も無かったのに・・・――
――今日の大将は、いつもと雰囲気が違う。外にいるせいかなぁ?――
大手チェーンのカラオケBOXに入った。
今夜の大将はよく飲む。
――お酒、弱いのに・・・――
私もつられて同じペースで飲んでいた。
そして、『ほろ酔い』の私がトイレから戻り大将の横に座ると、視線が絡まってしまった。
私はふざけ半分、酔った勢い半分で、大将に軽いキスをした。
次には笑って、『ほんのジョークよ!』と言うつもりだった。
でも、離した唇は、今度は大将の方から重ねられた。
肩を抱きしめる腕からも、優しいのに熱いキスからも、かなり手慣れているのが分かった。
そして、いつしかそれに応えずにはいられなくなっていた。
頭の中が、大将一色になった。
「家、来るか?」
「うん。」
タクシーで10分の間、二人に会話は無かった。