奇妙な脅迫状
休職届を出してから、もう何週間が経っただろうか。
部屋のカーテンは閉め切られ、床にはいつ食べたかもわからないコンビニ弁当の空き箱が散乱している。システムエンジニアとして連日終電まで働き、ついに心が限界を迎えた涼は、泥のような眠りの中に沈むだけの毎日を送っていた。
スマートフォンに届く会社からのメッセージを見るだけで動悸がするため、電源はとうの昔に切ってある。社会との繋がりは、週に一度、真夜中にこっそりと行くコンビニだけだった。
そんなある日、郵便受けに一通の封筒が入っていた。
差出人の名前はない。ただ、白い封筒に印字された宛名だけが、それが自分宛てであることを示していた。不審に思いながらペーパーナイフで封を切ると、中には一枚の便箋が入っていた。そこには、ワープロ打ちの無機質な文字でこう書かれていた。
『毎朝七時に、駅前のパン屋「ブランジェリー・コバヤシ」でクロワッサンを一つ買いなさい。従わなければ、あなたの一番大切なものを奪う』
悪質ないたずらか、それとも何かの詐欺か。涼は舌打ちをして便箋をゴミ箱に放り投げた。一番大切なものと言われても、今の自分には守るべきものなど何もない。仕事も、人間関係も、気力すらも失ってしまったのだ。脅す相手を間違えている。そう思って再びベッドに潜り込んだ。
しかし、翌朝。奇妙なことに、涼は朝の六時半にふふと目を覚ました。普段なら昼過ぎまで起き上がれないというのに、ゴミ箱に捨てたあの不気味な文面が妙に頭に引っかかっていた。「大切なもの」とは何だ。もしかして、実家に火でもつけられるのだろうか。それとも、なけなしの貯金口座が狙われているのか。
得体の知れない不安に背中を押されるように、涼は数週間ぶりにシャワーを浴び、無精髭を剃って外に出た。
朝の空気は、肺が痛くなるほど冷たくて新鮮だった。駅前までの道のりを歩くのは久しぶりだった。指定された「ブランジェリー・コバヤシ」は、昔からある古びた小さなパン屋だった。カラン、とドアベルを鳴らして中に入ると、焼きたてのパンとバターの香りが暴力的なまでに鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい! 朝早くからえらいねえ」
粉まみれのエプロンを着た恰幅の良い店主が、満面の笑みで涼を迎えた。涼は戸惑いながらも、指示通りにクロワッサンを一つ買って店を出た。帰り道の公園のベンチに座り、紙袋からまだ温かいクロワッサンを取り出す。一口かじると、サクサクとした食感と共に濃厚なバターの風味が口いっぱいに広がった。
「……美味い」
思わず声が出た。まともな食事をしたのはいつ以来だろう。胃袋が温かい食べ物を歓喜して受け入れているのがわかった。
それから三日後、再び同じ封筒が届いた。
『水曜日の午後二時から三十分間、三丁目公園のベンチで過ごしなさい。従わなければ、あなたの大切なものを奪う』
今度は水曜日だった。涼はその日も指示に従い、指定された時間に公園へ向かった。平日昼間の公園には、ゲートボールを楽しむ老人たちや、砂場で遊ぶ子供と談笑する母親たちの姿があった。涼はベンチに座り、ただぼんやりとその光景を眺めていた。最初は居心地が悪かったが、秋の柔らかな日差しを浴びているうちに、張り詰めていた心の糸が少しずつ緩んでいくのを感じた。
風の音、子供の笑い声、土の匂い。世界はこんなにも穏やかに動いていたのかと、涼は不思議な感覚に包まれた。
脅迫状はその後も週に一度のペースで届いた。
『金曜の夜は、商店街の銭湯に行きなさい』
『日曜の朝は、部屋の窓を全て開けて掃除機をかけなさい』
『火曜日は、駅裏の定食屋でアジフライ定食を食べなさい』
どれもこれも、命を脅かすような要求ではなかった。むしろ、それらの「命令」をこなしていくうちに、涼の生活は劇的に変化していった。朝は決まった時間に起き、日光を浴び、三食まともなものを食べ、夜は湯船に浸かってぐっすりと眠る。部屋は片付き、顔色も少しずつ生気を取り戻していった。パン屋の店主や定食屋のおかみさんとも、少しだけ世間話をするようになっていた。
休職から半年が経つ頃、涼の心に巣食っていた黒い霧はすっかり晴れていた。復職の目処も立ち、久しぶりにスマートフォンの電源を入れる余裕すら生まれていた。
そんな折、最後となる手紙が届いた。
『明日のお昼、駅前の喫茶店「ルノア」に来なさい。これが最後の命令です』
ついに脅迫状の主と対面する時が来た。涼は不安よりも、むしろ奇妙な感謝の念を抱いていた。このふざけた脅迫状がなければ、自分は今でも暗い部屋で一人、腐り果てていただろう。一体誰が、何のためにこんな手の込んだことをしたのか。
翌日、指定された喫茶店に入ると、窓際の席に一人の見知らぬ初老の男性が座っていた。スーツを身にまとったその男性は、涼の顔を見ると静かに微笑み、向かいの席を勧めた。
「初めまして、涼さん。私は弁護士の木村と申します」
「弁護士……? あなたが、あの手紙の?」
「私が送りました。しかし、依頼主は別にいます」
木村は鞄から、一枚の古い封筒を取り出してテーブルに置いた。それを見た瞬間、涼の心臓が大きく跳ねた。見覚えのある、丸みを帯びた見事な達筆。それは、涼が休職する少し前、くも膜下出血で突然この世を去った母親の字だった。
「お母様が亡くなる半年ほど前、私のもとにこれを託されたのです。もし息子が心身を壊して立ち止まってしまったら、少しずつ郵送してほしい、と」
涼は震える手で封筒に触れた。母親は昔から過干渉で口うるさく、一人暮らしを始めてからも「朝ごはんは食べたか」「部屋は片付けているか」と毎日のように連絡をしてくる人だった。涼はそれが煩わしく、仕事の忙しさにかまけて着信を無視し続けていた。母親が倒れた時も、涼は大きなプロジェクトの対応に追われ、最期を看取ることすらできなかったのだ。
「お母様は、あなたが仕事で無理を重ねていることをずっと心配しておられました。ただ、まともに言ってもあなたは反発するだけだろうからと、あえてこんな『脅迫状』という形をとったそうです」
木村は優しく目を細めた。
「パン屋さんも、公園も、定食屋さんも。全てお母様があなたに生活リズムを取り戻させるために、ご自身で歩いて見つけた場所だそうです。『あの子は、ああでも言わないと朝起きないから』と笑っておられましたよ」
涼の目から、せき止めていた涙がどっと溢れ出した。
従わなければ、一番大切なものを奪う。
あの言葉の意味が、今ならはっきりとわかる。
母が奪うと言って脅していたのは、命でも財産でもなかった。不規則な生活や孤独、絶望といった「悪いもの」から、涼の『心身の健康と、生きるための笑顔』を奪われないように守ろうとしていたのだ。不器用で、口うるさくて、どこまでも過保護な、母なりの精一杯の愛だった。
「手紙は、これで全てです。お役目を果たせてホッとしました」
木村が立ち去った後も、涼はしばらくその席で泣き続けた。冷めてしまったコーヒーの横には、母の字が書かれた封筒が静かに置かれていた。
店を出ると、空は抜けるように青かった。深呼吸をすると、冷たい空気が胸の奥まで心地よく広がっていく。涼は空を見上げ、小さく「ありがとう」と呟いた。明日の朝も、きっと七時には目が覚めるだろう。駅前のパン屋でクロワッサンを買い、公園のベンチで風を感じるのだ。
奪われかけていた彼の大切な人生は、もうしっかりと彼自身の手の中にあった。




