表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/4

第4話 ふたりでひとつ


「二百三十七件」


夜明け前の執務室で、ルーナが言った。机の上には書類の山が築かれていた。財務記録、人事台帳、政策決裁書。王宮の文書庫にあるグラウスの十二年分の足跡を、ルーナは一晩で読み切っていた。


「宰相が関わった二百三十七件の人事異動のうち、自然に見せるように幾つか段階を踏んでいますが、四十一件が彼の一族に直接の利益を誘導しています。残りのうち百二十件は間接的に彼の権力基盤を強化する配置です。偶然でこうはなりません」


ルーナの目の下に隈があった。眠っていないのだ。昨夜、式典の場でイリスが倒れかけた後、ルーナはイリスを自室に送り届け、それから一人で文書庫に向かったらしい。


「お姉さま、少しは眠ってください」


「眠れなかったの。初めてよ、こんなこと」


ルーナは書類から目を上げなかった。その横顔にいつもの穏やかさはなかった。穏やかさの代わりに、イリスがこれまで見たことのない表情が張り付いていた。静かな、しかし確かな怒りのようなもの。


いや、怒りとは違う。この人は怒りを感じられないはずだ。


けれどルーナの翡翠色の目には、何かが灯っていた。壊したはずの場所の奥で、微かに息を吹き返したもの。それが何なのか、ルーナ自身にもわかっていないようだった。


「悪意が見えなくても、論理は嘘をつかない」


ルーナは最後の書類を閉じた。


「行きましょう」


大広間に再び貴族たちが集められた。今度はルーナが召集した。王と重臣が上座に並び、宰相グラウスはその右手に立っていた。昨日の混乱から一夜明けて、宰相の顔には再び完璧な微笑みが戻っていた。


イリスはルーナの半歩後ろに立った。大広間の数百人の感情が肌を叩いたが、昨日ほどの衝撃はなかった。痛みに慣れたのではない。覚悟が痛みの上に立っているだけだった。


ルーナが口を開いた。


「宰相閣下。あなたの十二年間の政務記録をすべて精査しました」


広間がざわめいた。グラウスの微笑みは揺るがない。


「第七期から第十二期にかけての人事異動二百三十七件のうち、四十一件があなたの一族に利益を誘導する配置です。さらに関連する財務決裁のうち六十三件に、本来必要のない中間業者が介在しており、その業者の七割があなたの姻族の経営です」


数字を並べるルーナの声は淡々としていた。だが一つ一つの数字が石のように重く、広間に積み上がっていった。


イリスはルーナの言葉を聞きながら、宰相の感情を肌で追っていた。微笑みの裏側で、冷たい感情が目まぐるしく動いている。最初は余裕、次に警戒、そして計算。この男は頭の中で反論を組み立てている。


「お姉さま」


イリスは小声で囁いた。


「今、焦っています。でもまだ切り札があると思っている。自信がある。まだ崩れていません」


ルーナは小さく頷いた。その目が一瞬だけイリスを見た。ありがとう、と唇だけが動いた。


宰相が口を開いた。


「殿下のご慧眼には感服いたします。しかし人事配置には複雑な政治的背景がございます。数字だけを並べて不正と断じるのは早計かと」


「では」


ルーナが一歩前に出た。


「昨日の婚姻式典について伺います。あの縁談はヴェルディア側からの打診とのことでしたが、外交文書と事前折衝の記録を突きあわせると、最初に縁談を持ちかけたのはあなたですね。決定的なのは三か月前、私に知らせず密使を送っています」


広間が静まった。グラウスの微笑みに初めてひびが入った。イリスの肌がそれを捉えた。


「動揺しています。強く」


イリスの囁きを受けて、ルーナが畳みかけた。


「あなたは私を外交の駒として差し出すという名目で、宮廷から遠ざけようとした。私がいなくなれば、あなたのする複雑な人事も財務も、精査できる人間がいなくなるから」


宰相が一歩退いた。それでもまだ微笑みの残骸を顔に張り付けていた。


「殿下、私は常にこの国のために」


「もうひとつ」


ルーナの声が、初めて震えた。


「十二年前。私が五歳のとき、あなたは私にこう言いましたね。感じなければ楽になれる、と」


広間の空気が凍った。


宰相の仮面が完全に剥がれた。その下にあったのは冷酷でも残忍でもなく、追い詰められた獣の顔だった。


「私がいなければ……」


グラウスの声は低かった。


「あなたは五歳のまま壊れていた。周囲の悪意に押し潰されて、廃人になっていた。私があの言葉をかけなければ、あなたは今ここに立っていない。私が救ったのだ」


ルーナの体が揺れた。


翡翠色の目が見開かれ、顔から血の気が引いた。壊した記憶の奥から何かが噴き出しかけていた。五歳の自分が泣けずに震えていた夜の残響が、天才の頭脳を一瞬だけ麻痺させた。


イリスがルーナの手を握った。


冷たかった。氷のように冷たい指だった。いつも温かかったルーナの手が、今は凍えていた。


「お姉さまは壊れていません」


イリスの声は静かだった。大広間の数百人の針が全身を刺していたが、握った手だけが世界のすべてだった。


「壊れた人は、誰かを助けたりしない。お姉さまは私を見つけてくれた。椅子を引いてくれた。ショールをかけてくれた。信じてくれた。壊れた人間には、そんなことできません」


ルーナの指がイリスの手を握り返した。少しずつ、温度が戻ってきた。


ルーナは顔を上げた。目に涙はなかった。その代わりに、壊れた場所の奥で息を吹き返した何かが、静かに燃えていた。


「グラウス宰相。あなたの職務をすべて停止します。調査が終わるまで、登城を禁じます」


宰相は何も言わなかった。衛兵に囲まれながら広間を去る背中から、イリスはもう何も感じなかった。怒りも悪意も消え、ただ空虚だけが残っていた。十二年かけて積み上げたものを失った人間の、空っぽの背中だった。



その日の夕暮れ、二人は宮廷の庭園にいた。


式典も弾劾も終わり、貴族たちも散り、広間は空になった。庭園には二人だけだった。低い石垣に並んで腰かけ、沈む夕日を眺めていた。風が花壇の薔薇を揺らし、甘い香りを運んでくる。


ルーナの周りは、いつも通り静かだった。あの図書館で初めて会った日と同じ沈黙。

けれど今のイリスには、その沈黙の意味がわかっていた。安らぎではなく、傷痕だった。五歳の子どもが自分で自分につけた、見えない傷の跡。


イリスはルーナの肩にショールをかけた。あの晩餐会で借りたまま持っていた、淡い青のショール。


「返すの遅くなりました」


「いいのよ、あげるわ。あなたの方が似合うもの」


しばらく黙って夕日を見ていた。庭園の花が風に揺れていた。遠くで噴水の水音がしていた。


「ねえ、イリス」


「はい」


「私の壊れた場所、治せると思う?」


イリスは少し考えた。風がショールの裾を揺らした。


「治さなくていいです」


ルーナが目を瞬いた。


「私がいますから」


ルーナは黙った。夕日が翡翠色の瞳を琥珀に染めていた。やがてその目の縁に、透明な雫が浮かんだ。声は出さなかった。ただ静かに、頬を涙が伝った。


イリスはその涙を見ていた。


痛くなかった。


悪意でも敵意でもない。この涙が何なのか、イリスの能力では名前をつけられなかった。ただ温かくて、静かで、痛みのないものだった。


ルーナがイリスの肩にもたれた。イリスはそれを支えた。この人の重さを、これからもずっと隣で受け止めていく。二人分の影が石垣の上で重なって、ひとつになった。


風が止んだ。庭園は静かだった。二人の間の沈黙は、もう傷痕ではなかった。



翌朝、王の間から二人のもとに書簡が届いた。


「北方辺境にて、異変あり。至急調査されたし」


ルーナが書簡を読み上げ、イリスを見た。


「行ける?」


イリスは頷いた。


「お姉さまのそばなら、どこへでも」

最後まで読んでいただきありがとうございました。

この物語は、二人の天才姉妹のパイロット版として書きました。

感想やブックマーク、評価をいただけたら、続きを書きます。

二人の次の旅は、北方辺境です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ