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第3話 壊したこころ


「あの方は、五歳でございました」


老侍女マルタは窓辺の椅子に腰かけたまま、膝の上の手を見つめていた。皺だらけの手が微かに震えている。イリスは向かいの椅子の端に座り、息を詰めて聞いていた。


「生まれたときから、何もかもが見える方でした。文字は教わる前に読め、数は教わる前に数えられた。三歳で大人の会話を理解し、四歳で嘘を見抜いた」


マルタの声は低く、乾いていた。


「嘘を見抜く子どもを、大人は可愛がりません。お母上はあの方の才を恐れました。自分の企みが幼い娘に見透かされるのが耐えられなかったのです。兄君も姉君も同じでした。あの方がそばにいると、誰もが裸にされたように感じた。家臣たちも遠巻きにするようになり、侍女たちも怯えた」


イリスの肌が痛んだ。マルタの感情は悪意ではない。深い悲しみと、癒えない後悔だった。それは鈍い疼きとなって肌の奥に沁みた。


「あの方は夜眠れなくなりました。人の悪意が、怒りが、恐怖が、すべて見えてしまうから。泣くこともできなかった。泣けば余計に疎まれると、四歳の頭で理解していたのです」


マルタが目を閉じた。


「そしてある日、あの方は笑うようになりました。急に、何の前触れもなく。昨日まで眠れずにいた子が、翌朝にはけろりと笑っていた。私は嬉しかった。ようやく楽になられたのだと思いました」


長い沈黙が落ちた。窓の外で小鳥が鳴いた。


「後になって気づきました。あの方は楽になったのではなく、自分で自分を壊したのです」


イリスの指が膝の上で強張った。


「悪意を感じる部分だけを、要らない書類を処分するように、切り捨てた。五歳の子どもが、自分の心を。あの方の頭脳なら、それができてしまった」


「誰か」


イリスの声は掠れていた。


「誰か、止められなかったんですか」


マルタの手の震えがひどくなった。


「気づかなかったのです。気づいたときにはもう、あの方は笑っていました。穏やかで、賢くて、誰にでも優しい。完璧な王女がそこにいました。壊れる前より壊れた後の方が、周りにとっては都合がよかった」


イリスは唇を噛んだ。目の奥が熱い。泣いてはいけない。まだ聞かなければならないことがある。


「壊れる前に、あの方に近づいた人間はいますか。何かを囁いた人は」


マルタが顔を上げた。その目に暗い記憶が浮かんでいた。


「……当時はまだ宰相補佐官だったグラウス様が、よくあの方のそばにおられました。慰めているのだと思っておりました。けれど今思えば、あの方が一番苦しんでいた時期に、あの方のそばにいたのはあの方だけだった」


感じなければ楽になれる。


その言葉を五歳の天才に囁いたのが誰か、もう聞く必要はなかった。


イリスは礼を言って老侍女の部屋を出た。

廊下を歩きながら涙が頬を伝った。拭わなかった。拭う余裕がなかった。

五歳のルーナが一人で自分を切り刻む姿が頭から離れなかった。泣くことすらできない幼子が、ある朝突然笑い出す。その笑顔がどれほど残酷なものだったか。


そしてその残酷を仕組んだ男が、今もルーナのそばにいる。


部屋に戻ると、侍女が待っていた。


「イリス様、本日の式典にはご出席いただけません。宰相閣下より、体調を考慮して静養されるようにとのことです」


式典。今日、大広間でルーナが隣国王太子との婚姻を承諾する宣誓式が行われる。宰相が手配した華やかな催し。数百人の貴族が見届ける中で、ルーナは笑顔で頷くだろう。悪意が見えないから。それが罠だと気づけないから。


「部屋でお休みください。扉には衛兵をつけますので」


静養ではない。軟禁だった。宰相は気づいた。イリスを邪魔だと判断したのだ。


侍女が出ていき、外から鍵の音がした。


イリスは窓辺に立った。大広間は本殿の東棟、この部屋からは遠い。窓の外は中庭で、二階の高さがある。


ショールが肩にかかっていた。ルーナの、あの淡い青のショール。洗って返そうと思いながら、ずっと羽織っていた。


五歳のあの人を、誰も止められなかった。


でも今は私がいる。


イリスは窓枠に手をかけた。中庭の植え込みに向かって飛び降り、枝に腕を引っ掻かれながら転がるように着地した。膝を強く打ったが構わず立ち上がり、走った。東棟の廊下に出た瞬間、人の気配が肌を叩いた。式典に向かう貴族たちの列が廊下を埋めている。


走った。人の間を縫って走った。


肩がぶつかるたびに悪意が刺さった。嫉妬が刺さった。不審が刺さった。こいつは誰だ、邪魔だ、みそっかすが、という感情が針になって全身を貫いた。晩餐会の比ではなかった。走っているから一人一人との接触が激しく、肌が裂けるような感覚が腕を、首を、顔を襲った。


大広間の扉が見えた。開いている。中から光が漏れていた。


扉をくぐった瞬間、世界が白くなった。


数百人の感情が一度に押し寄せた。歓声と興奮と嫉妬と打算と好奇心と退屈と優越感と劣等感、それらすべてが束になって体を打った。晩餐会で耐えた痛みの何倍もの衝撃だった。膝が折れそうになった。視界が揺れた。それでもイリスは歩いた。


壇上にルーナがいた。


白い式典用のドレスを着て、隣国の使者と向き合っていた。宰相が脇に立ち、婚姻承諾の宣誓文をルーナに差し出そうとしている。ルーナは穏やかに微笑んでいた。いつもの、何も見えない笑顔で。


イリスは人垣をかき分けた。肩を押しのけるたびに悪意の刃が突き刺さった。誰かに腕を掴まれた。振り払った。掴まれた場所が焼けるように痛んだが、足を止めなかった。


壇上まであと五歩。


あと三歩。


イリスは最後の力で声を絞り出した。


「お姉さま、その人はあなたの敵です」


大広間が静まり返った。数百人の視線がイリスに集中した。その視線の一つ一つが針だった。

だがイリスは立っていた。

血の気の失せた顔で、肩にルーナのショールを巻いたまま、まっすぐに姉を見ていた。


ルーナが振り返った。


「……イリス? どうしてここに。顔が真っ青よ」


宰相が一歩前に出た。


「殿下、イリス様は体調を崩しておられます。侍女に任せて式を」


「黙ってください」


イリスの声は震えていたが、途切れなかった。


「この人はお姉さまを遠ざけようとしています。ずっと前から。お姉さまがまだ小さかった頃から」


ルーナの目が揺れた。困惑ではなかった。翡翠色の瞳の奥で、壊したはずの何かが微かに疼いたように見えた。


宰相の顔から微笑みが消えた。一瞬だけ、仮面の下の素顔が覗いた。その瞬間、彼から放たれた感情をイリスは肌で受け止めた。もう隠す余裕のない、剥き出しの敵意。氷のように冷たく、底のない深さだった。十年以上かけて築いてきたものを壊されかけた人間の、凍りついた怒りだった。


ルーナがイリスを見ていた。


イリスの目に、かつて自分で消したはずの感情の欠片が灯るのを、ルーナは感じたのかもしれない。感じられないはずなのに。


壊れた場所の奥で、何かがかすかに脈を打っていた。

読んでいただきありがとうございます。

明日朝7時、最終話「ふたりでひとつ」を投稿します。

この物語の答えを書きました。

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