第2話 針の褥
「この条約、あなたにはどう見える?」
執務室の机に広げられた羊皮紙の束を、ルーナが指先で叩いた。隣国ヴェルディアからの外交使節団が持ち込んだ同盟条約の草案。イリスがルーナのそばに仕えるようになって十日が経っていた。
「文書のことはわかりません」
イリスは正直に答えた。条文の意味を読み解く知識は持ち合わせていない。ただ、今朝の謁見の間で使節団と対面したとき、肌が感じたものがある。
「でもあの人たちの中に、隠し事をしている人がいます。随員の三人目、灰色の髭の男。あの人からだけ、他と違う種類の悪意を感じました。嘘というより、狩りの前に息を殺すような」
ルーナは頬杖をついたまま、少しだけ目を細めた。
「狩り、ね。面白い言い方をするのね」
そう言うと、条約の草案をもう一度最初から読み直し始めた。一度読んだものを二度読むのは珍しい。三枚目で指が止まり、五枚目で眉が動き、七枚目で小さく息を吐いた。
「ありがとう、イリス。あなたが言わなかったら見落とすところだった」
ルーナが指し示した箇所を、イリスは覗き込んだ。読めない単語だらけだったが、ルーナが静かに説明してくれた。
通商条約に見せかけて、有事の際にヴェルディア軍が国内の港を自由に使用できる条項が紛れ込んでいる。一つ一つは何でもない文言ばかりだったが、七つの条項を組み合わせると事実上の軍事通行権になる。
「七枚に散らして、しかも別々の章に入れてある。一読では気づかないように設計されている。よくできた罠ね」
ルーナの声に怒りはなかった。むしろ感心しているようですらあった。この人はいつもそうだ。悪意を向けられても怒らない。そもそもこの人が怒ったところを見たことがない。それが何を意味するのか、イリスにはまだわからなかった。
午後の交渉で、ルーナは穏やかに条約の書き換えを要求した。七つの条項を一つずつ読み上げ、それぞれが単独では無害に見えること、しかし組み合わせると何を意味するかを淡々と説明した。使節団の顔色が変わるのを、イリスは壁際から見ていた。灰色の髭の男から噴き出す感情が、焦りから敵意に変わり、やがて苦い諦めに沈んでいくのを肌で追った。
条約は書き換えられた。ルーナの勝利だった。イリスは壁際で小さく息を吐いた。あの人の頭脳が正しい方向を向いたとき、これほど鮮やかに物事は処理されるのかと思った。
その夜、成功を祝う晩餐会が大広間で催された。
「出なくていいのよ、イリス」
ルーナは支度をしながら振り返った。鏡の前で侍女に髪を結い上げられている姿は、いつもの図書館とは別人のように華やかだった。
「出ます」
イリスは言った。自分でも驚くほどはっきりした声だった。
今日の交渉で確信した。ルーナは人の悪意が見えない。どれほど頭が切れても、目の前の人間が味方か敵かを判別する感覚が、この人にはない。文書の罠は論理で暴けても、笑顔の裏に刃を隠す人間には無防備だ。晩餐会には数百人の貴族が集まる。その中にどんな悪意が混じっているかわからない。
「大勢の場所は辛いのでしょう? 無理をしないで」
「お姉さまのそばにいます」
ルーナは少し目を見開いてから、ふわりと笑った。
大広間の扉が開いた瞬間、イリスは息を呑んだ。
数百人。
数百人分の感情が、津波のように押し寄せた。
回廊の比ではなかった。嫉妬、虚栄、軽蔑、退屈、欲望、打算、媚び、嘲笑。それらが一つ一つ針となって全身に突き刺さる。針の褥。ただ立っているだけで、無数の針の上に横たわっているのと同じだった。
肌が焼ける。腕が痛い。首が痛い。まぶたの裏まで痛い。
それでもイリスは歩いた。ルーナの半歩後ろを、唇を噛んで歩いた。
主賓席に着くと、ルーナが隣の椅子を引いてくれた。座った瞬間、ほんの少しだけ楽になった。ルーナの半径一歩だけが、嵐の中の凪だった。数百人の針の中に、一つだけ穴が開いている。そこにルーナがいる。
「顔色が悪いわ」
ルーナが囁いた。
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。手が震えていた。膝の上で握った拳に力を入れて、なんとか震えを押さえ込んだ。
不意に、肩に温かいものがかかった。
ルーナのショールだった。薄い絹の、淡い青のショール。もちろんそんなものでは悪意の痛みは防げない。けれどルーナの手が触れた肩の部分だけ、ほんの一瞬、痛みが遠のいた。
「寒いんでしょう? 震えているもの」
違う。寒いのではない。でもイリスは訂正しなかった。ショールを両手で掴んで、小さく頷いた。この人は気づいてくれた。震えていることに気づいて、自分の肩を冷やしてでも何かをしてくれた。理由が違っていても、そのことがただ嬉しかった。
しばらくして、イリスはずっと気になっていたことを口にした。
「お姉さまは……小さい頃からこんなに聡明だったんですか?」
ルーナはグラスを傾ける手を止めた。ほんの一瞬、視線が宙を泳いだように見えた。
「さあ。小さい頃のことはあまり覚えていないの。覚える必要がなかったから」
何でも覚えている天才が、覚えていないと言った。その矛盾にイリスの胸が小さく軋んだ。
晩餐は長かった。イリスは食事の味を覚えていない。ただルーナの隣の、針の届かない小さな場所で息をしていた。
宴も終わりに近づいた頃、宰相グラウスがルーナに歩み寄った。
「殿下、本日の交渉は見事でございました」
穏やかな声。丁寧な物腰。だがイリスの肌は覚えていた。あの日、廊下ですれ違ったときの、骨の髄まで届いた冷たさを。
「つきましてはひとつ、ご相談がございます。ヴェルディアの王太子から、殿下との縁談の打診が参っております。先ほどの交渉で殿下のお力を目の当たりにし、ぜひにと」
ルーナは少し考える素振りをした。
「政治的には合理的な選択肢ね。両国の関係安定にもつながるし、検討する価値はあるわ」
イリスの肌が叫んでいた。
宰相から滲み出す感情は、商人の詐欺とも使節団の狡猾さとも違う。もっと静かで、もっと根深い。ルーナを遠ざけたいという意図が、善意の皮を何枚も被って横たわっている。婚姻という体裁のいい追放。この人はお姉さまを、この聡明な人を手元から遠くへ送り出したいのだ。
けれどイリスにはそれを証明する手段がなかった。感じるだけで、証拠は出せない。宰相は論理的に正しいことしか言わない。悪意を感じますとだけ言って、誰が信じるだろうか。
「殿下の才覚を活かすには、外の世界がよろしいかと」
宰相が微笑んだ。完璧な微笑みだった。そしてその奥に、あの冷たさがまた光った。
ルーナは頷きかけていた。
イリスは何も言えなかった。ショールを握る手に力がこもった。
その夜、自室に戻っても眠れなかった。肌の痛みは引いていたが、胸の奥が騒いでいた。
あの人をあのまま一人にしてはいけない。でも私には感じることしかできない。感じるだけでは足りない。宰相が何を企んでいるのか、証拠がいる。そしてそのためには、多分あの人の過去を知らなければならない。
なぜあの人には悪意がないのか。なぜ人を疑えないのか。生まれつきの気質では説明がつかない。あれほどの天才が、悪意という概念だけをすっぽりと欠いている。まるで誰かに切り取られたように。
だからせめて、知らなければならないことがある。
翌朝、イリスは王宮の東棟を訪ねた。ルーナの幼少期から仕えているという老侍女の部屋の前で、深く頭を下げた。
「お願いがあります。お姉さま……ルーナ殿下に、昔、何があったのか教えてください」
読んでいただきありがとうございます。
明日朝7時、第3話「壊したこころ」を投稿します。
姉はなぜ悪意を感じないのか。
次の話で明かされます。




