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第1話 静かなひと

悪意が全部わかる妹と、悪意がまったくわからない姉の、宮廷バディものです。

全4話完結。毎朝7時更新。


「みそっかす姫が来たぞ」


誰かが囁いた。声は小さかったが、イリスの肌には声より先に届くものがあった。


侮蔑。嫌悪。それから薄い好奇心の下に滲む、はっきりとした拒絶。


王宮本殿の回廊を歩くたび、すれ違う人の数だけ、肌が痛みに焼ける。

侍女の会釈には見えない棘が仕込まれ、衛兵の敬礼の奥には嘲りが透けていた。


母が死んだという報せを受けたのが三日前。涙を流す間もなく本殿に召喚され、喪服すら用意されないまま、今こうして誰にも望まれない廊下を歩いている。


腕に鳥肌が立った。首筋が粟立ち、頬の産毛が逆立つ。


痛い。


一人分の悪意は針の一刺し程度のものだ。

だが回廊にはすでに何十人もの人間がいて、その一人一人が大なり小なりの負の感情をまとっている。

針が束になれば刃物になる。腕も、首も、頬も、目に見えない刃で切り刻まれている。

血は出ない。傷も残らない。けれど痛みだけは本物で、幼い頃からずっと、この体はそういうふうに生きてきた。


早く。どこか、人のいない場所へ。


案内役の侍従が立ち止まった。


「こちらが王宮図書館です。第三王女殿下がお待ちです」


重い扉が開いた瞬間、空気が変わった。


書架が天井まで聳える広大な部屋だった。窓から差し込む午後の光に、細かな埃がゆっくりと泳いでいる。紙とインクの匂い。人の気配は奥にひとつだけ。


イリスは恐る恐る足を踏み入れ、そして気づいた。


痛くない。


回廊で受けた悪意の残響がまだ、肌の上でくすぶっている。それなのに、図書館の奥にいるその人物からは何も来ない。悪意も、敵意も、猜疑も、嫉妬も。何ひとつ。


まるで深い水の底に沈んだように、世界が静かだった。


「あら、あなたがイリス?」


書架の影から顔を出したのは、亜麻色の髪を無造作にまとめた若い女だった。手には分厚い台帳を三冊抱え、頬にインクの汚れがついている。第三王女にしてはおよそ王族らしくない出で立ちだったが、イリスはそんなことより目の前の人の存在そのものに釘付けになっていた。


何も感じない。この人からは、本当に何も。


生まれて初めてだった。人間のそばにいて、肌が黙っている。


「どうしてさっきから顔をしかめているの? どこか痛い?」


ルーナが小首を傾げた。翡翠色の瞳に曇りはなく、問いかけにすら悪意はなかった。純粋な心配だけが柔らかく肌に触れて、それはまるで生温い風のようだった。


「……少し、人が多くて」


「ああ、本殿はいつも騒がしいものね。ここは静かでしょう? 私も静かな方が好きなの。本は何も言わないから」


ルーナは笑って、自分の隣の椅子を引いた。何の警戒もなく、会ったばかりの腹違いの妹を自分のすぐそばに座らせようとしている。

普通なら異母姉妹の間には複雑な感情が渦巻くものだ。それなのにこの人の周りには何もなかった。澄んだ水に手を浸すような感覚だけがあった。


イリスは椅子に腰を下ろした。


深呼吸ができた。


いつ以来だろう。人のそばで胸いっぱいに息を吸って、肌のどこにも刃が触れない。痛くない。こんなことがあるのか。こんな人間がいるのか。


「あなたからは……」


言いかけて口をつぐんだ。こんなことを言えば気味悪がられる。離宮に追い返される。この静けさを失いたくなかった。


「なに? 言いかけたでしょう」


ルーナは台帳を机に置いて、まっすぐにイリスを見た。目を逸らさない人だった。


「……あなたからは、何も感じません」


ルーナは目をぱちくりとさせた。それから口元を押さえて、可笑しそうに笑った。


「何も? つまらない人間でごめんなさいね」


つまらなくない。あなたは私が十六年生きてきて出会った中で一番静かで、一番安全な人だ。でもそれを口にする勇気はまだなかった。代わりに小さく首を横に振った。ルーナはそれ以上聞かなかった。


午後が静かに流れた。ルーナは台帳を読みながら時折イリスに話しかけ、イリスは短い言葉で答えた。それだけのことが、イリスにはひどく贅沢に感じられた。


やがて執務室に続く扉が叩かれた。


「殿下、南部の商会から嘆願の方がお見えです」


侍従に連れられて入ってきた初老の商人は、にこやかに頭を下げた。身なりは整い、物腰は丁寧で、顔には人の好さそうな笑みが浮かんでいた。


イリスの肌が引き攣った。


この男からは鋭い何かが来る。笑顔の裏に硬く冷たいものが張り付いている。刃物というほど激しくはないが、明確な悪意だった。他者を出し抜こうとする計算と、それを隠し通せるという確信。騙す意図だ。


「港湾の改修工事に関する提案書をお持ちしました。殿下にご検討いただければ幸いです」


ルーナは提案書を受け取り、目を通し始めた。速い。一枚、また一枚、ほとんど捲るだけのような速度で十数枚を読み終え、顔を上げた。


「よく出来ています。工期の見積もりも予算配分も合理的ですし、港の構造的な問題点も正確に把握されていますね」


商人が満足そうに微笑んだ。その微笑みの下で悪意が膨れ上がるのをイリスは感じた。うまくいった、引っかかった、という種類の暗い喜び。

お姉さまは騙されようとしている。この人は嘘をついている。でも私が口を挟んでいいのだろうか。会ったばかりで、身分も低くて、何の実績もないみそっかす姫が。


イリスは自分の手を見た。震えていた。


けれどこの静かな人を、黙って見ていることはできなかった。


「その人、嘘をついています」


声は自分でも驚くほど小さかった。商人には聞こえなかったかもしれない。しかしルーナは聞き逃さなかった。翡翠色の目がまっすぐにイリスを見た。


「嘘?」


「全部が嘘かはわかりません。でもこの人は、お姉さまを騙そうとしています」


商人の顔が一瞬だけ強張った。すぐに取り繕ったが、悪意の質が変わるのをイリスは感じた。焦りと怒りが混じった鋭い感情が肌を叩く。


ルーナは商人を見なかった。もう一度、提案書に目を落とした。今度は一枚一枚、指先で数字をなぞるようにゆっくりと読み直した。やがて三枚目の中ほどで指が止まった。


「第三項の補修資材費ですが、木材と鉄釘の単価が市場価格の四倍になっています。一項目ごとの差額は小さく見えますが、意図的に十二項目に分散させていますね。総額にすると予算の三割が水増しされています」


静かな声だった。怒りもなく、責めるでもなく、ただ事実を並べていた。


商人が立ち上がった。弁解しようと口を開いたが、ルーナの目を見て言葉を飲み込んだ。そこには悪意はなかったが、すべてを見通す透明な知性があった。


「お引き取りください」


商人が去った後、図書館に静けさが戻った。埃が光の中でゆっくり舞うのを、二人でしばらく眺めていた。


ルーナがイリスを振り返った。


「今のは、どうやってわかったの?」


隠しても仕方なかった。この人は嘘をつく人間の顔をしていない。何より、この人の前では隠す理由がなかった。


「……人の悪意を、感じるんです。肌で。理由はわかりません。生まれたときからずっと」


ルーナは驚かなかった。疑いもしなかった。ただ少し考え込むように目を伏せてから、顔を上げた。


「嘘を見抜けるなら、私のそばにいてくれない? 私、どうも人を信じすぎるらしいの」


差し出された手を見た。インクの染みがついた、ペンだこのある細い指。


この手は痛くないだろうか。握ったら何か刺さるだろうか。


イリスはその手を取った。


温かかった。そして静かだった。何も刺さらなかった。


「……いいんですか」


「もちろん。明日から私の執務室に来て。あなたの席を作るわ」


回廊を戻ると、肌にはまた無数の針が刺さった。

すれ違う人の視線に棘があり、囁き声に刃があった。

けれど今は行き先がある。明日もあの静かな図書館で、あの人の隣に座れる。それだけで、刺される足が前に出た。


本殿の出口にさしかかったとき、一人の壮年の男とすれ違った。


宰相グラウス。


王宮の政務を束ねるその男は、追い返された商人の背中をちらりと見送り、それから穏やかに微笑んだ。すれ違いざま、イリスに軽く会釈までしてみせた。


その微笑みの奥に、イリスは一瞬だけ、骨の髄まで届く冷たい痛みを感じた。


回廊で受けたどの悪意とも違う。もっと深く、もっと静かで、もっと古い。


振り返ったとき、宰相の背中はもう廊下の角を曲がっていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

明日朝7時、第2話「針の褥」を投稿します。


この姉がなぜ悪意を感じないのか。

その答えは第3話にあります。


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