※閲覧注意 「やめて」と叫んだ私は、女性を守っただけだった
彼の視線が、私の胸元から逸れたときのことを、私は覚えている。
あれは、ただそれだけのことだった。
仕事中、棚の下段の資料を取ろうと腰をかがめた。布地が緩み、胸元が開いていたのだと思う。空気のわずかな揺れで分かる。何人かの同僚の視線が、ほんの一瞬、そこに落ちた。
けれど彼だけは違った。
目が合いそうになった瞬間、はっとしたように視線を横へ逸らし、何事もなかったかのように話を続けた。
それが、最初だった。
――誠実かもしれない。
そんな予感が、私の中に芽を出したのは。
彼は目立つ人ではなかった。
無駄口も少なく、感情の起伏も激しくない。けれど、仕事の手順を飛ばさない。確認を怠らない。誰かが疲れていれば、さりげなくその分を引き受ける。
ただ、ときどき。
ほんの一瞬だけ、空気が張り詰めることがあった。
静かな湖面の下に、なにか重たいものが沈んでいるような。そんな違和感。
本人は気づいていないのかもしれない。でも、私はそれを感じていた。
ある日、大きなミスが発覚した。
提出直前の資料に致命的な誤りがあり、上層部にも顧客にも迷惑をかける寸前だった。
会議室の空気は凍りついた。
「誰が最終確認をした?」
上司の低い声。
一瞬の沈黙のあと、彼が立ち上がった。
「私です」
違う、と私は思った。
最終工程を急ごうと言い出したのは、私だった。
彼は続けた。
「確認を簡略化しました。彼女は止めようとしました。責任は私にあります」
机の下で、彼の手が小さく震えているのを、私は見てしまった。
庇われた、と理解した瞬間、胸の奥がきつくなる。
叱責は彼一人に向けられた。
私は口を開けなかった。開けなかったことを、その日の夜、何度も悔やんだ。
――この人は、無理をする。
それが、私の中で確かな形になった。
それから数週間後の帰り道だった。
駅前の通り。仕事帰りの人波。
私は少し離れた場所で、彼の背中を見つけた。
彼の前を、若い女性が歩いていた。
次の瞬間。
彼の足が、横からその女性の脛を払った。
乾いた音。
女性が小さく息を呑む。身体が固まる。
彼の手が、振り上がる。
考えるより先に、私は走っていた。
「やめて!!!」
夜の空気を裂く、自分でも知らない声だった。
彼の動きが止まる。
私は彼と女性の間に立った。
「大丈夫ですか。今、怖かったですよね」
女性の顔は青ざめている。目が揺れている。
「今のは、合意でもなんでもないです」
私はできるだけ静かに言った。
それから彼を見た。
彼は自分の手を見下ろしていた。信じられないものを見るように。
「ああ……」
掠れた声。
「俺、今……」
言葉が続かない。
私は言った。
「これ以上、誰かを怖がらせるなら、私はあなたを止める」
彼を守るためではない。
これから先、誰かが震えるのを、増やさないために。
女性に頭を下げる。
「本当に申し訳ありませんでした。怖い思いをさせてしまって」
女性は何も言わず、距離を取り、足早に去っていった。
当然だと思った。
気づけば、少し離れた場所でスマートフォンがこちらを向いていた。
翌日、その動画は切り取られ、拡散された。
『暴力男を庇う女』
『共犯』
『最低』
私が女性に声をかけた場面は、ほとんど映っていなかった。
夜。
部屋の灯りを消し、スマートフォンの光だけが天井を照らす。
コメントを読むたびに、呼吸が浅くなる。
指先が冷える。
画面を伏せる。
それでも言葉は頭の中で反響する。
最低。
おかしい。
自業自得。
私はベッドの上で膝を抱えた。
震えは、止まらなかった。
それでも翌朝、鏡の前に立つ。
目の下のクマをコンシーラーで隠す。
指先はまだ少し震えている。
検索窓に打ち込む。
――怒り 衝動 治療
――衝動制御 カウンセリング
電話をかけるとき、喉が乾いた。
彼は最初、拒んだ。
「俺は大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
私は言った。
「昨日、あなたは自分で自分が分からなくなってた」
彼は黙り込んだ。
「私はあなたを守りたいわけじゃない。これ以上、誰かが怖がるのを止めたいだけ」
それが本音だった。
通院は簡単ではなかった。
彼は何度も逃げようとした。
けれど、そのたびに立ち止まった。
自分から予約を取り直した。
怒りが湧いたとき、まず深呼吸をする。
その場を離れる。
言葉にする。
時間はかかった。
半年後のある日。
駅前で、また人波に揉まれたとき。
誰かと肩がぶつかった。
彼の肩がわずかに揺れる。
私は息を詰めた。
彼は立ち止まり、目を閉じた。
そして一歩、後ろに下がった。
「すみません」
そう言って、相手に道を譲った。
夜、彼は言った。
「あの日、俺は誰かを壊すところだった」
静かな声。
「怖がらせたことを、忘れない。忘れたら、また同じことをする」
私はしばらく何も言えなかった。
やっと、自分で止められた。
その事実が、胸の奥に温かく沈む。
「……やっと、自分で止められたね」
私がそう言うと、彼はうなずいた。
世界は相変わらず、私を最低だと言うかもしれない。
離れていった友人もいる。
けれど、あの夜、震えていた女性の顔を、私は忘れない。
だから私は立った。
これからも、誰かが恐怖で固まる瞬間があるなら。
私は、止める。
それだけは、決めている。




