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男の言葉に揺らいだニコラだが、自国の者ではなく、地下牢に拘束されるほどの男を信用できるわけがないと冷静になった。
「……どうやって? 僕もあなたも両手を拘束されていて、目の前には鉄格子がある。あなたにこの牢から出る術があるのなら僕との契約が成立したとしても、あなたが本当に僕をここから逃がしてくれる保証にはならないでしょう?」
鉄格子越しに男を見つめると、彼は鎖が繋がっている両手をスッと差し出した。
「では、奴隷契約を」
「え?」
「あなたの奴隷になったら、俺は逃げられない。あなたがもう安全だと思う場所まで連れて行った時に契約を解除してもらえれば、それからはお互いに好きにしたらいいかと」
男が持ち出した『奴隷契約』とは、昔から存在するものだ。
お互いに手のひらを切り、奴隷になる者の血を主人になる者の手に落とし、お互いの血が混ざることで契約が完了する。
主人の手首と奴隷の首元に主従の印が浮かび上がり、その印があるうちは磁石のように離れられなくなる。主人が自分の意思で解除を願わない限りは契約が続き、主人は奴隷を殺せるが逆は不可能なのだ。
もしも奴隷が死ねば主人は自動的に解放されるが、主人が死んだ場合は奴隷は解放されない。一生奴隷の印を背負って生きていくことになるので、自ら『奴隷になる』と申し出る人はいないのである。
「俺は本気です。信じてください」
男は自分の手のひらを噛み切ると、白い腕に真っ赤な血が滴る。地下牢の冷たい床にぴちゃっと音を立てて落下する様子を、ニコラは息を飲んで見つめた。
「俺は、あなたがこの国でどんな立場なのか、どんな扱いを受けてきたのか知りません。でも、オメガだからといって全て言いなりでいいんですか?」
「……っ」
「結婚から逃げられないように地下牢に閉じ込めるなんて、実の兄がするようなことではない。オメガだから仕方がない、というのはあなたの本心なんですか」
床に流れ落ちていく男の血を見つめながら、ニコラはハッとした。二人の兄から蔑まれ、屋根裏部屋に閉じ込められ、人との交流を絶たれたこれまでの人生を思い出すと「それでいいわけがない」と、握った拳が震えた。
「……絶対に、僕を遠くに逃してください」
「約束します」
ニコラは意を決し、そこら辺に落ちていた石の切先で手のひらに傷をつけた。幸いなことに手枷はされていなかったので、鉄格子から手を差し出すと、ニコラの手のひらに男の血が滴った。
「う、わ……っ」
お互いの血が混ざり合った途端、黒い光に包まれた。驚いて目を瞑ったニコラだが「終わりましたよ」と声をかけられ、そっと目を開ける。手のひらの傷はいつの間にか治っていて、その代わり手首には狼と剣の模様をした赤黒い紋章が浮かび上がっていた。
ちらりと男のほうを見やると、彼の首元にも同じ紋章が刻まれていた。紋章はそれぞれの契約者ごとに形が異なるらしく、奴隷を取り違えるということはないのだと何かの文献に載っていた気がする。
本当に奴隷契約をしてしまったと、ニコラは本当にこの決断が功を奏すのか今さら不安を抱いた。
「さて、と。出ましょうか」
「え? でも、どうやって……」
脱出手段を聞こうとしたのだが、男はあっという間に手枷を魔法で外してしまった。
「あなたのお兄さんに助言をしなければいけませんね。手枷は魔力封じのものを使ったほうがいいのと、地下牢には魔力感知の仕掛けをしないと突破されると」
男が地下牢の扉に手をかざすと、パキッという鈍い音と共に錠前が外れた。床に落下した音が響いたにもかかわらず、地下牢の入り口にいるはずの衛兵がやってこない。それどころか、見張りである衛兵は船を漕いでいたのだ。ニコラが不思議に思っていると「あなたに話しかける前に、消音魔法と眠り魔法をかけておきました」と、男は微笑んだ。
「うちは魔法が発展していない国なので、そういう仕掛けはしていないんだと思います……僕も初めて間近で魔法を見ました」
「なるほど。俺が生まれ育って国では、魔法も武力も盛んな国でした」
「どこの出身なんですか?」
牢から救出されたニコラがそう聞くと、男はどことなく切なそうな表情を浮かべた。
「……まず、脱出しましょう。主、俺にしっかりしがみついていてください」
男にぎゅっとしがみつくと、一瞬のうちにニコラたちは王宮の裏手にある森へ移動していた。
「わ、外だ……!」
ニコラは閉じ込められていたので、ここ何年も外に出たことはない。窓を開ければ風を感じられたが、自分の体が薄暗い部屋ではなく太陽の光が降り注ぐ外であることに感動した。
「主、手をお借りしても?」
「あ、は、はい」
久しぶりの外に感動していたニコラの前に男が片膝をつく。主従関係の証である紋章が浮かび上がっているニコラの右手を取り、手の甲を自分の額に押し付けた。
「ラウロと申します。主のため、この命を捧げると誓います」
不思議な男――ラウロは誓いの言葉を口にして、手の甲にそっと口付けた。まるで騎士のような振る舞いにニコラはドキッとして、ただ彼の行動を見つめることしかできなかった。




