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「お前は明日、隣国・ウルガルの皇帝に嫁ぐことが決まった。逃げ出さないように地下牢に拘束しておく」
どれだけ掃除をしても埃っぽく狭い屋根裏部屋に来て、要件だけを告げた冷徹な兄をニコラ・リンメロは見上げる。緋色の瞳と一度だけ目が合ったが、彼はそれ以上ニコラには何も言わず「連れて行け」と後ろにいた衛兵に命令した。
「よかったな、お前のような能無しでも欲しいと言ってくれる奴がいて。お前は我が国の存続のため、同盟の証として嫁ぐのだ。オメガに生まれたことが初めて役に立ったと喜べ、ニコラ。皇帝は大層なオメガ好きのようだからな」
屋根裏部屋とさほど変わり映えのない地下牢に放り投げられ、古い鉄格子に鍵をかけられる。俯いているニコラに、兄である国王のアルディスが捨て台詞を吐いて、薄暗い地下牢から去っていった。
リンメロ王国の王族の一人として生まれたニコラは第三王子で、オメガだ。この国ではアルファ以外は価値がない人間と言われていて、その中でもオメガの扱いは最悪である。
他国や娼館に売られたり、奴隷として働かせたり、ただ『普通の人間』として生きることさえ難しい。男女問わず子供を産めるオメガは発情期やアルファを誘うフェロモンなどのせいで『使えない厄介者』と虐げられ、それがたとえ王族だとしても扱いは同じだった。
ニコラは十五歳の頃に発情期がきてオメガだと分かってからは屋根裏部屋に閉じ込められ、ほとんど誰とも接触せずに過ごしてきた。つい先日ニコラは二十六歳の誕生日を迎えたが、久しぶりに会う兄との最後の会話が「誕生日おめでとう」ではなく「地下牢に拘束しておく」という非道なものであったことに自嘲した。
「ウルガル帝国との同盟のための嫁入り、なんて……」
それは実質、生贄とでも言われているようだった。
ウルガル帝国はここ数年で人間の皇帝から獣人の皇帝に代替わりしてから、領土拡大のためにあらゆる国に戦争を仕掛けて殺戮を繰り返していると有名な国だ。
なんの後ろ盾もない小国であるリンメロ王国を守るため、先代の父から継いで国王となったアルディスはニコラを差し出すことにしたのだろう。
アルディスや、二番目の兄であるヴェインは厄介払いができたよかったと思っているはずだ。ニコラ自身いつかこの国を出ていきたいと思っていたが、やはり自分の道は最悪なものしか用意されていないのかと項垂れた。
「……ウルガルの皇帝に嫁ぐとは、災難ですね」
「誰っ!?」
地下牢にニコラ以外の人がいるとは思わず、声が聞こえた隣の房を見やった。
オレンジ色の炎の灯りに照らされて見えたのは、ニコラと同じように両手を鎖で拘束された若い男性だった。彼はこの辺では珍しい黒髪に青い瞳の持ち主で、その美しさにニコラは目を奪われた。
「リンメロ王国の人、ですか?」
「いえ……数日前に捕らわれた者です」
ニコラは人とほとんど接触しないので、王宮内だけではなく街の噂話なども届かない。ただ、三日前に屋根裏部屋の窓から見えた何かしらの騒動だけは覚えていた。その渦中にいた人物が、今まさに隣の牢にいる男なのだろう。
「捕らわれたのはどうして……?」
「この国の騎士団を窺っていました」
「なぜそんなことを……」
「ウルガルの皇帝を殺すために、騎士団に忍び込もうと思ったんです」
予想外の言葉が男の口から飛び出して、ニコラは目を丸くした。彼は確実に「ウルガルの皇帝を殺す」と言ったのだ。驚いて何も言葉が出ないニコラは青い瞳をじっと見つめたまま、ただ呼吸だけをするために口を薄く開くばかりだった。
「あなたがこの国の末王子なのは存じています。明日、ウルガルの皇帝に嫁ぐことになったのも聞きました」
「……何が言いたいんですか?」
「俺はウルガルの皇帝を殺したい。あなたはウルガルの皇帝に嫁ぎたくない。利害が一致しているとは思いませんか」
「つまり?」
「俺をここから逃す代わりに、あなたのことを遠くに逃がしてあげます」
願ってもない提案だった。長年蓄積した心の疲労によってニコラは甘い言葉に揺らいだ。




