2 - 新しい隣
遠くの森から、蝉の鳴き声が聞こえる。潮風が、体の右側を優しく撫で、夏の熱気が、体の左側を支配する。
「ねえ、何を考えてるの?」
僕は、目の前に広がる砂浜と海、そして夕暮れの夏が織りなす景色を、静かに見つめていた。海水で濡れた両足には、砂浜の砂がまとわりついている。
「ねえ——!あーなーたーは!なーにーを!かんがえてるの!」
声は、少し離れた前方から聞こえた。
学生服にプリーツスカートを履いた一人の女の子が、小首を傾げ、僕を見ている。ポニーテールは右肩に垂れ、水平線に沈みゆく太陽が最後の光を放ち、彼女の体の左側を、眩しく縁取っていた。
瞼が、ゆっくりと落ちていく。
世界が、静かになった。
再び目を開けたとき。
彼女の瞳が僕を見ていた。すぐそばにいるのに、その焦点は、僕の背後、遥か遠くに合わせてあった。
光を失った、空虚な表情。
「はぁ…」
ため息一つ。その後、彼女が微笑むことは、二度となかった。
*
僕は眠りから覚めた。カーテンの隙間から、朝の日差しが僕の顔を照らしている。窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえ、その直後、耳元でけたたましいアラーム音が鳴り響いた。
アラームを止め、ベッドから起き上がると、僕は窓を開けた。外からの風がカーテンを揺らし、僕の顔を撫でる。
空気には、雨水と土の匂いが漂っていた。紺碧の空には、白い雲がいくつか浮かび、鮮やかな陽光に照らされて、その輪郭はひときわ鮮明に見える。
僕は乾いた目をこすり、振り返って食卓へと向かった。
リビングのテレビを何気なくつけると、天気予報が今日の天気を伝えている。僕は冷蔵庫のドアを開け、残り少ない野菜を取り出しながら、昨日の出来事を考えていた。
母さんの話によると、親戚の家の娘さんが、僕と同じ大学に受かったらしい。でも、家から大学までが遠いため、学校の近くのアパートで一時的に暮らす必要があるとのことだ。
そして、偶然にも、昨日まで僕の隣人だった藤野さんが、実家にしばらく帰ることになり、電話でその話をしたことが、この全てのきっかけとなった。
つまり、何もなければ、このアパートに、新しい住人が一人増えるということだ。
「残りのもので、野菜サラダでも作るか」
そう思いながら、僕はさらに他の食材を冷蔵庫から取り出した。
「ピンポーン——」
エプロンをつけようとした、その時。玄関から、チャイムの音が聞こえた。
おかしいな。まだ八時過ぎだ。こんな時間に訪ねてくるなんて、随分と早いじゃないか。
「はい、少々お待ちください!」
僕はエプロンを外し、早足で玄関へと向かった。
「はじめまして。隣に越してきました、藤原花ふじわらはなと申します。どうぞ、よろしくお願いします」
物語は、この時から始まった。
*
「浅村さんのおかげで、大学の近くにお部屋を借りることができました。通学に時間をかけずに済むので、本当に助かります。直接、お礼を言いたくて。あ、ありがとうございます」
僕は微笑んで頷き、紅茶の入ったカップを彼女の前に置き、テーブルの反対側に腰掛けた。
俯いてお茶を飲む彼女を見ていると、心の中の疑念はますます大きくなっていく。昨日から、ずっと頭から離れない、あの考えが…
彼女は、まるで『彼女』と、同じ型から抜き出したかのようだ。
もし、仮面が、仮面をつけている本人と同じ顔だとしたら…そんなことは、ありえないはずだ。
自分の推測に没頭し、次第に現状が理解できなくなってきた僕は、視線をあちこちに泳がせ、眉間に皺を寄せ始めた。
「浅村さん、さっきから黙っていますけど、私、お邪魔でしたか?」
目の前の少女が、不思議そうな目で僕を見ている。僕はそこでようやく、自分の失態に気づき、すぐに我に返った。
「あ、ごめん。徹夜明けで、ちょっと…。全然、邪魔なんかじゃないから、気にしないで」
僕は両目をこすり、再び彼女に視線を戻した。
少女の髪は、顎のラインで切り揃えられたボブスタイル。眉にかかりそうなほど長い前髪には、汗が滲んでいる。そして、耳の後ろから、二房の長い三つ編みが、胸元まで垂れていた。滑らかな線で描かれたような頬と顎のラインが、中心にある顔のパーツを、より精緻で、抑制の効いたものに見せている。従順そうでありながら、心のどこかで人を拒絶しているような、そんな印象だ。
おかしい。『彼女』は、ただデザインされた存在のはずだ。もし、『彼女』の向こう側にいる本人と、『彼女』が同じ姿だとしたら、『彼女』の存在意義がなくなってしまう。
でも、いきなり彼女に『彼女』との関係を尋ねたら、変な奴だと思われるに違いない。だから、今のところ、この疑問は心の中にしまっておくしかない。
母さんは、絶対に何か知っているはずだ。目の前のことを片付けたら、絶対に、母さんと話そう。
「…浅村さん?大丈夫ですか?」
「あ、ごめん、ごめん。すみません…ちょっと、顔を洗ってきます」
「…はい」
彼女の視線を感じながら、僕は立ち上がり、洗面所へと向かった。
*
ああ…。彼の去っていく後ろ姿を見て、嫌な予感が、胸に込み上げてきた。
もしかして、この人、知ってる?
洗面所から、水の流れる音が聞こえる。
そんな偶然、あるわけないか。
…最初から、来なければよかった。
*
僕は両手を洗面台につき、水道水が髪の先や顎から滴り落ちるのを、されるがままにしていた。僕の思考は、正常な状態に戻ることができない。
背後は、しんと静まり返っている。まるで、誰もそこにいないかのようだ。
空気は、そのまま、停滞した。
「浅村さん?」
「ん?」
背後で、カップがテーブルに置かれる音がした。
「独り暮らしって…楽しいですか?」
彼女が、ためらいがちな声で尋ねるのを聞いて、僕は顔を上げ、鏡の中の自分を見つめ、何も考えずに答えた。
「あ…まあまあかな。自由に暮らせるのは楽しいけど、しばらくして、新鮮さがなくなってくると…」
もし、本当に知りたいというなら、本当のことを教えてやっても、構わない。
「その時には気づくんだ。これからの人生は、ただ同じ一日を繰り返すだけなんだって」
そばの空気が、数秒間、停滞した。
「…そうですか」
「そうだよ」
少なくとも僕にとっては、いつからか、もうずっと、そんな感じだ。
僕はそう答え、そばのラックからタオルを取り、乾きかけた髪をわしゃわしゃと拭いた。
「紅茶、ごちそうさまでした、浅村さん。もう遅いので、これ以上お邪魔するのはやめておきますね」
椅子が擦れる音と共に、彼女はそう言って、玄関の方へ向かった。
「うん、気をつけて」
「はい、さようなら」
「さようなら」
そう言って、彼女はドアを閉めた。
「え…」
僕、何かまずいこと言ったか?完全に、変な奴だと思われたな。
まあ、いいか。どうせ、まだ親しくもないし、二人で気まずく時間を過ごすよりは、どちらかが先に帰る方がいい。どうせ、これから、そう頻繁に会うこともないだろう。
僕は振り返って壁の掛け時計に目をやった。長針は、なんと11時を指している。そんなに時間が経っていたのか?
朝食を食べた後、寝るまで、他に特別なことは何も起こらなかった。
これが、僕たちの最初の接触。それは、沈黙と気まずさの中で、幕を閉じた。




