平凡な僕(2)
午後四時。
外の雨は午前中ほど激しくはなく、木々の枝が風に揺れていた。
道路の端には、水が小さな川のように流れている。
僕はPCの電源を切り、外を眺めていた頭を引っ込めた。
「……もう食材がないじゃん」
冷蔵庫の中には、紙パックの牛乳が二本と、サラダになりそうな野菜が少しだけ。
仕方ない。今日は鶏むね肉だけ買って、野菜は明日の朝に買いに行こう。
メモアプリを閉じ、鍵を持って玄関へ。
「こんばんは、藤野さん」
「おお、浅村くん。こんばんは。お出かけかい?」
玄関の前で鍵をかけていると、向かいの手すりにもたれながら煙草を吸っている藤野さんが声をかけてきた。
彼の部屋は開け放たれていて、中では引っ越し業者がせわしなく荷物を運んでいる。
「はい、ちょっと買い物に……。あの、藤野さん、引っ越しされるんですか?」
「うん。家の事情でしばらく実家に戻ることになってね」
「そうですか……。あ、じゃあ、お寿司屋さんは……?」
「ふふ、そうだな。おかげさまで、君のお母さんが資金面で手助けしてくれなかったら、あの店は始められなかった。感謝してるよ」
そう言って、彼はポケットから厚めの封筒を取り出した。
「これ、お母さんに渡してくれ。電子送金とか、そういうのは苦手でね」
なるほど、確かに昔そういう話があった。
帰宅後、封筒を開けて中身を確認すると、ちょうど五万円分と、さらに三万円が加えられていた。
きっと感謝の気持ちだろう。
再び玄関に戻ったときには、手すりの前に藤野さんの姿はなかった。
地面には、吸い殻がひとつだけ残されていた。
夕食は簡単なサラダと、冷凍のローストダック。
鶏むね肉に少しのご飯、生野菜とちぎったパン、トマトを加えたサラダ。マヨネーズをかけるつもりだったが、買い忘れた。
ローストダックは、見た目も味も文句なしで満足感があった。
「もしもし、久しぶり、母さん」
「おっ、息子じゃん! 元気にしてた~?」
電話越しには懐かしい声と、誰かと話しているような賑やかな音が聞こえてきた。
「母さん、最近どう?」
「おや、急にどうしたの? 用があるなら素直に言いなさいよ~」
「……さっきね、隣に住んでた藤野さんが引っ越していったんだ。昔助けてもらった分を返すって、封筒を預かった」
電話の向こうが、一瞬静かになる。
「もしもし?聞こえる?」
「……そっか。じゃあ、ちょっと待ってね。実はさっきね、おばさんと話してて、娘が大学の近くに引っ越すって話してたの。で、聞いたら、あんたと同じ大学だったのよ!」
「え、マジで? 同じ大学?」
「そう。だからね、タイミングもいいし、あんたの隣の部屋を借りられるように今交渉してるの」
「なるほど……じゃあ、もし決まったらよろしく伝えて」
「『浅村くんが隣なら安心だわ~。よろしくお願いね~』って言ってたわよ~」
「う、うん……が、がんばるよ。おばさんの娘さん、ちゃんと支えるから……!」
「『きゃ~、なんて頼もしいの! 今度の夏休み、ごちそうしなきゃね♪』」
いやいや……まあ、言っても無駄か。
「ということで、よろしくね。あ、ちなみにその子、あんたより一つ下だから。お兄ちゃんらしくしてあげて。
お金のことも、ふたりでうまく使ってね。じゃ、またね~!」
「えっ、ちょ、待って、本当にそれでいいの……?」
「大丈夫、大丈夫。あんたのことは信じてるから~。じゃ、バイバ~イ!」
その日の夜は、特に変わったこともなく、普通に過ぎていった。
けれど――
今こうして布団の中でこの出来事を振り返っている僕は、まだ知らなかった。
新しい隣人の登場が、僕の人生を少しずつ、「普通」から外れたものへと変えていくことになるなんて。
耳にタコができるほど聞いたことがあるような締め方だけど――これは、事実なのだ。
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