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1 - 引っ越していった隣人と、最後のありふれた日常

夕暮れ時。沈みゆく太陽が、地平線の向こうの雲を照らし、眩いオレンジ色の光を放っている。


「んー…そろそろ、何か買いに行かないとな」


僕は冷蔵庫のドアのそばに身を寄せた。冷蔵庫の中は、今や空っぽだ。パックの牛乳が二本と、サラダ一皿分にしかならない野菜が少しあるだけ。


肉でも買いに行くか。そう思い、僕は冷蔵庫のドアを閉め、外に出た。


「こんばんは、藤野さん」


家のドアを閉め、振り返ると、廊下の向こうの手すりに、藤野さんが寄りかかり、一人で煙草を吸っていた。


藤野さんは、僕の隣人だ。しかし、今、彼の背後のドアは開け放たれ、引越し業者の人たちが、次々と段ボール箱を運び出している。


「おや、浅村の坊主。こんばんは。散歩かい?」


「あ、はい…というか、藤野さん。それ、引越しですか?」


「ああ、それな。家の事情で、しばらく実家に帰ることになったんだ」


「あ、そうなんですね。じゃあ、お寿司屋さんは?もう、やめちゃうんですか?」


「その通りだよ、浅村の坊主。お前の母さんには、感謝してるんだ。あの時、資金が足りなくて店を借りられなかったところを、助けてもらったおかげで、ようやく店を開けたんだからな」


なるほど。確かに、そんなこともあったな。


藤野さんは、近所の商店街で寿司屋を営んでいる。今でも地図アプリでの評価は絶賛の嵐だが、店の前には「営業終了」の看板が掛けられ、多くの常連客を残念がらせていた。


「ちょうどよかった。ほら、これ。母さんに返しておいてくれ。俺は、お前たち若者が使うような電子マネーとやらは使えなくてな。母さんに渡しておいてくれると助かる」


そう言って、彼は上着のポケットから、分厚い封筒を取り出し、僕に手渡した。


「はい。必ず、母にそのまま渡します。藤野さんも、お元気で」


「ははは。浅村の坊主、うちの息子も、お前みたいに物分かりが良ければなあ。さあ、自分の用事を済ませてきな」


「はい。では、また、藤野さん」


彼は煙草を持つ手でひらりと手を振り、再び、目の前に沈みゆく夕日を見つめた。


引越し、か。


僕は振り返って家に戻り、札束の詰まった封筒を家の安全な場所に置いた。再び玄関を出ると、廊下も隣の部屋も、いつもの静けさを取り戻しており、手すりのそばには、もう藤野さんの姿はなかった。





「もしもし?久しぶり、母さん」


「あら!息子じゃないの。久しぶりねえ」


電話の向こうから、母さんの聞き慣れた声がした。背景の音から察するに、誰かと話している最中だったようだ。


「母さん、最近、体調はどう?」


「あらあら、いつからそんなに人を気遣えるようになったの。何か用事なら、はっきり言いなさいな」


「隣に住んでた藤野さんが、さっき引っ越して行ったよ。それで、前に借りてたお金を、僕に託してくれたんだ。確認したけど、金額、合ってるよ」


僕はそう言って、電話の向こうの反応を待ったが、なかなか母さんの声は聞こえてこなかった。


「もしもし?聞こえるか、おい?」


「…あ、ああ、聞いてるわよ。ちょっと待って、それより、隣の寿司屋のご主人が、引っ越して行ったってこと?」


「うん、ついさっきね」


僕の返事を聞くと、電話の向こうで彼女が誰かと話す声が聞こえる。かすかに、「大学」「ちょうどいい」「一人暮らし」といった単語が聞こえた。


「ただいま、浅村。実はね、あなたのおばさんの娘さんのことなんだけど。ちょうど今、その話をしててね。大学が家から遠いから、最近、学校の近くでアパートを探してるんだって。それで、大学の名前を聞いてみたら——あら?あなたが受かった大学じゃないの?」


「え?あ、てことは…」


「だから、隣の大家さんと相談してみるわ。うまくいけば、あなたたち、お隣さんになるのよ」


「そうなんだ」


母さんの電話の向こうから、突然、別の声が割り込んできた。


『浅村の坊主、もしそうなったら、よろしく頼むよ。隣が浅村の坊主なら、おばさんも、安心して娘を一人暮らしさせられるからさ。これから、よろしく頼むよ〜』


「あ…はい、大丈夫です。新しい生活に慣れるように、全力で協力します」


突然、電話の相手が代わり、僕は、考える前に、思わず口走っていた。


『おやまあ、浅村の坊主は、本当にしっかりしてるねえ。他の若い子とは違うよ。次の夏休みには、おばさんがご飯、ご馳走してあげるからね』


いえ、そんな、結構です——まあ、言ったところで、聞きやしないだろうけど。


「はい、浅村。そういうわけだから、あの子のこと、よろしくね〜。こっそり教えといてあげるけど、もしあなたが中学の時、ずっと部屋で流してたあの曲を覚えてるなら、あの子に会ったら、絶対にびっくりするわよ。とにかく、良いお兄ちゃんのお手本になるのよ!お金は、あなたたちで使いなさい。じゃあね、バイバイ〜」


「待って。借りたお金の額、忘れたの?こんな大金、僕に任せちゃっていいわけ?」


「『あなたたち』って言ったでしょ、浅村。それに、あなたの性格はわかってるわ。無駄遣いするような子じゃないでしょ?だって、あなたのことを一番よく知ってる、お母さんだもの」


「わかったよ…でも、僕が中学の時に部屋で曲を流してたこと、まだ覚えてたんだ。でも、その子に会ったら驚くって、どういうこと?」


「もちろん覚えてるわよ。母親の記憶力をなめないで!理由?色々あるわよ。それは、あなたが自分で、ゆっくり見つけていきなさいな。今ここで私が言っちゃったら、面白くないでしょ。はい、じゃあね、バイバイ!」


明らかに、理由を教える気はないようだ。相手は「バイバイ」と言うと、一方的に電話を切った。


一体、何なんだ…


中学の頃の僕は、確かに、一人で部屋にこもって、大好きな人の歌を聴いていた。でも、それが、これから引っ越してくる相手に会って驚くことと、何の関係があるっていうんだ?




正直に言って、あの時の僕の心には、もう答えがあった。もし、本当にそうだとしたら。


もし、本当にそうだとしたら、今年の夏休みは、もしかしたら、三年前の夏休みよりも、もっと違う何かが起こるかもしれない。


楽しみに、待っていよう。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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