14 - 街灯の下の私たち ( 2 )
「…心配だったから」
相手は俯き、声もどんどん小さくなっていく。指は、不安そうに缶の表面をこすっていた。
彼女が何を言っているのかをはっきりと理解した後、僕は、思わず息を呑んだ。
僕は、言葉を失い、その場に体が固まってしまった。ただ、目の前の藤原さんがゆっくりと近づいてきて、手に持った飲み物を僕に差し出すのを、見ていることしかできなかった。
「私、悲しい時は甘いものを飲むの。そうすると、少しだけ、気分が良くなるから。だから、これ、あげる!」
彼女の視線が、まっすぐに僕を射抜く。そして、すぐにまた、俯いてしまった。
「あなたは、いつも、こんなに私のことを気遣ってくれる。私も、あなたみたいに、あなたが落ち込んでいる時に、少しでも気持ちを楽にしてあげたい。でも、私、あなたが私のことをわかってくれるみたいに、あなたのことをわかってあげられない。だから、だから、これが、私に考えられる、一番いい方法だったの。ごめんなさい」
彼女の言葉を聞いて、僕の心は驚きに満たされ、そして、彼女の不器用で、飾らない優しさに、胸を打たれた。
それにしても、今はもう寝る時間だ。彼女が物陰に隠れてこっそり僕をつけてきたことは気にしないが、夜中に一人でいるのは、もし危険な目にでも遭ったら大変だ。だが、それもまた、彼女の決意の表れなのだろう。
本当に、今までこんな経験はなかった。これが、初めてだ。
僕は藤原さんの手から飲み物を受け取り、彼女の前に立ち、その俯いた頭を見た。その頭に、手を伸ばして撫でたいという衝動に駆られたが、理性が、絶対にそんなことをしてはならないと警告した。
「ありがとう、藤原さん。でも、もう遅い。一人で外にいるのは危ないから、次からは、そんなに無理しな…」
「…だめ!」
彼女は二歩下がり、僕との距離を開けた。拳を握った両手を胸に当て、僕を見上げるその顔の表情は、突然変わっていた。それは、あの日、僕にそばにいてほしいと頼んだ彼女と、全く同じ表情だった。
「そんなに優しくしないで、浅村さん。お願いだから…。あなたはいつもそう。理由もなく、私に温もりをくれる。でも、いつも、何も求めずに去っていく。こんな風に、一方的にあなたの優しさを享受するなんて、私には、できない…」
彼女の瞳が、涙で潤んでいる。わずかにひそめられた眉は、怒っているのか、悲しんでいるのかわからない。震える声で、聞いているこちらの胸が痛むようなことを言う。
「…私、どうやってあなたにお返しすればいいの。あなたのこと、ほとんど何も知らないのに。私じゃ、あなたの助けになんてなれないって、わかってる。怖いよ。このまま、借りばかりが増えていくのが。私たちの関係が、どんどんおかしくなっていくのが、怖いの…」
彼女は、しゃくりあげ、俯いた。彼女の前の地面に、ぽつ、ぽつと、二つの雫が落ちた。
「だから、だから、私にも、あなたを、助けられるチャンスをください。あなたの、ただ面倒を見るだけの、お荷物じゃなくて、本当に、何でも打ち明けられる相手として、見てほしい。だから、お願い、浅村さん。私に、そんなに優しくしないで。いいでしょう!」
彼女は最後に、震える声でそう叫ぶと、僕の体を突き飛ばし、アパートの方向へ走り去った。
手上の袋も、彼女にぶつかられた衝撃で、地面に落ち、中身が散らばった。
僕は、呆然とその場に立ち尽くした。
彼女が言いたいのは、ただ世話をされる側でいるのは嫌だ、この優しさに、自分も応えたい、ということか。
彼女は、本当に、普通の人とは違う。
彼女のさっきの行動の全ての原因は、僕の、僕にとっては慰めのつもりだったあの言葉が、彼女の目には、拒絶と映ってしまったからだ。僕の拒絶のせいで、事態がどんどんおかしくなっていくことを恐れた彼女は、僕に、この優しさを止めるように言ったんだ。
アパートへ走っていく背中を見つめながら、僕は、地面に散らばった商品を気にも留めず、全力で、彼女を追いかけた。
追いついて説明する以外に、選択肢はない。もし、今回、ちゃんと説明できなかったら、明日、どんな顔をして彼女と話せばいいのか、わからない。
もし、彼女が冷静になった後で、この夜の騒動を説明しようとしても、それは、もう手遅れだ。
それにしても、あの時の彼女の震える声は、本当に『彼女』と瓜二つだった…いや、今はそんなことはどうでもいい。
大事なのは、もう二度と、藤原さんを悲しませないことだ。
「藤原さん、聞いて。そうじゃないんだ!」
僕は追いつき、彼女の肩を掴み、僕の方へと向き直らせた。
「藤原さん、聞いて…」
相手の、涙で潤んだ瞳を見つめ、彼女の息が整うのを待ってから、僕は、真剣に言った。
「藤原さん。まず、一つだけ約束して。もう二度と、君が一方的に僕の世話になってるなんて、言わないでくれるか」
相手は顔を横に向け、涙が目尻から流れ落ちる。彼女が答える気がないのを見て、僕は続けた。
「藤原さん。僕にとって、君は、ものすごく才能があって、すごく面白い人だ。君の価値は、君が思っているよりも、ずっと大きい。何より、こんなに勤勉で、賢くて、恩を知っていて、そして愛嬌のある君と接することができて、光栄なんだ。ずっとそう思ってきたからこそ、君は、こういう善意と助けを受けるに、完全に値する」
相手の体が、ぴくりと震えた。耳元が、元々の雪のような白さから、急にピンク色に染まる。そして、大きく見開かれた、少し赤い瞳で僕を見つめ返してきた。
「君は、僕に何も借りなんてない。僕が提供する助けと善意は、全て、君がそれに値するからだ。根拠のないものじゃない。君には言ったことなかったけど、さっき、僕は確信したんだ。君は、僕が心から信頼できる人だって。君がさっき伝えてくれた善意は、僕が今まで生きてきた中で受け取った、一生分に値するものだ。だから、君も僕を信じてほしい。僕が、君に何か見返りを求めることはないし、僕たちの関係が、おかしくなるようなこともしない。君に出会えたことは、僕が想像もできなかった幸運なんだ。僕は、僕たちのこの関係を、大切にしたい。だから、藤原さん。そんなに、自分を卑下しないでくれ。いいかな?」
僕が言ったこれらの言葉で、僕の意図を伝えることができたかどうかは、わからない。とにかく、僕が知ってほしかったのは、僕の目に映る彼女は、彼女が自分で思っているような人間じゃないということ。彼女が、これらの助けに値する人間だということ。そして、僕が彼女を助けるのに、何の邪な目的もないということ。彼女が、大切にされるべき人間だということだ。
「…言わないで、もう、言わないで…」
彼女は、しゃくりあげながら、両手で目から溢れる涙を拭う。まるで、叩かれた子供のようだ。その姿に、僕は、胸が締め付けられるような思いがした。
「藤原さん。僕がこれを言うのは、これから僕が君にしてあげる一つ一つのことが、君の心の負担にならないようにするためだ。もう、そんなに考え込まないでくれ、藤原さん。さっきの僕の態度も、悪かった。君の気遣いを、僕はちゃんと受け止めなかった。ごめん」
僕は腰を曲げ、頭を下げた。
「これからは、互いに助け合って、もっと良い自分たちになろう。いいかな?」
僕は地面を見つめ、相手の返事を待った。
「…やめてよ。だから、そんなに優しくしないでって、言ったじゃない」
彼女は、掠れた声で言った。僕は顔を上げたが、彼女は横を向いてしまい、小声で呟いた。
「…もっと早くそれを思い出してくれれば、よかったのに。それに、手」
そこで僕はようやく、自分の両手がずっと彼女の肩に置かれたままだったことに気づき、慌てて引っ込めた。
「じゃあ、私はどうすれば、あなたを助けられるの?まだ、私に何ができるか、教えてくれてない」
僕はポケットからハンカチを取り出し、目尻を拭う藤原さんに手渡した。
「僕を助ける、か…そうだ!」
彼女はハンカチを受け取った。その潤んだ瞳が、不思議そうに僕を見上げている。
「えっと…その、僕は、明日の午後に出発して、実家の伊香保温泉郷に帰るつもりなんだ。地元の夏祭りに参加するためにね。八月一日の花火大会、すごく綺麗なんだ。一緒に、行かないか」
月明かりの下、僕を見上げる彼女の顔には、少し赤みが差していた。そして、頷いた。