9 - 徹夜明けの藤原 ( 2 )
風呂から出ると、僕がシャワーを浴びている間に、涼しい風が寝室を満たしていた。僕は椅子を引いて座り、昨日読み終えられなかった小説を手に取った。
窓の外の日差しはまだ強く、青い空に白い雲が浮かび、蝉の声が絶え間なく聞こえてくる。
僕は午前中に凪と話した話題を思い出し、カレンダーに目をやった——七月二十五日。八月まで、あと六日しかない。
六日か。
僕は手に持った本を置き、スマホを開いて、実家までのルートを調べ始めた。
ロックを解除した途端、チャットアプリの通知が数件、ステータスバーから飛び出してきた。全て、連絡先を「藤原」と登録している相手からだった。
アプリを開くと、藤原さんとのチャット画面、昨夜の会話の下に、昨日の夜12時から今日の明け方4時までの未読メッセージがいくつか表示されていた。
「動画、編集中」
「眠い」
「もうすぐ完成」
「やっと!」
そして、眠そうな猫のスタンプが一つ。
明け方三時までやってたのか…そんなに急がなくてもいいのに。
でも、確か動画が公開された後の反応はすごく良かったはずだ。たぶん、彼女も起きてそれを見たら、喜ぶんじゃないかな。
僕は点滅するカーソルを見つめ、何か言おうとしたが、まだ昼の十二時だということを思い出し、彼女の邪魔をするのはやめておこうと思った。
彼女のステータスを見ると、最終オンラインは七時間前で止まっている。
でも、徹夜といえば、深い眠りのリズムとは違うだろう。徹夜した後に、その分の睡眠時間を取り戻そうとしても、長年培ってきた体内時計がそれを許さないはずだ。
彼女は朝の六時に他人の家の前に現れることができるくらいだから、こうして急に体内時計を乱すようなことをすれば、体に影響が出るに違いない。
確かに、昨日の彼女の朝食は美味しかった。でも、その後の食材の買い出しや撮影の手伝いで、そのお返しはできているはずだ…いや、違う。今思うと、撮影の手伝いは、お返しの範疇には入らないんじゃないか。僕が自分から申し出たことだし、相手が元々必要としていなかった助けを、勝手にお返しとして分類するのは、適切じゃない気がする。
それに、相手の立場で考えてみれば。徹夜明けで寝不足の時に、睡眠十分な相手から「うわ、徹夜なんてお疲れ様!」とか「すごいね…でも、徹夜は体に悪いから、次からはやめた方がいいよ」みたいな慰めのメッセージをもらっても、相手が気遣ってくれているのはわかるけど、普通、そういう言葉だけでは体のだるさは解消されない。もし相手が何か実質的な行動でその気遣いを示してくれたら、きっと文字よりも嬉しく感じるはずだ。
普通の人は、そう考えるだろうか?たぶん、そう考えるだろうな。
それに、徹夜で頭がぼーっとしている状態では、何をするにも気力が出ないはずだ。そんな時にちゃんと食事を取らなければ、体はどんどん悪くなるに違いない。
そして、もし本当にそうなってしまったら、母さんはきっと僕まで一緒に責めるだろう。たとえ責められなくても、僕自身が、今彼女を助けなかったことで、その後しばらく罪悪感と後悔に苛まれることになる。
結局のところ、彼女が徹夜した原因と、昨日の僕のあのわけのわからない言葉を、イコールで結んでも間違いではない。
僕は振り返って、キッチンへ向かった。
*
僕は隣のドアの前に立ち、深く息を吸い、そして静かに肺から吐き出した。
トントン、トン。
僕は空いている右手で、藤原さんの家のドアをノックした。
左手にはお盆を持ち、その上には、まだ湯気の立つ家庭料理が一式乗っている——玄米粥、ほうれん草と豆腐の味噌汁、焼き鮭、そして小さな器に入ったブルーベリー。
どれもこれも、ありふれた食材ばかりで、一目見てっと驚くようなものではない。でも、料理が得意な藤原さんなら、これらの普通の食材の価値をわかってくれるはずだ。
様々な栄養を補給できる他に、玄米粥は安定的で持続的なエネルギーを供給し、消化を助ける。味噌汁は抗酸化作用があり、タンパク質を供給し、腸内環境を改善する。焼き鮭は脳の保護と抗炎症に効果があり、ブルーベリーは強力な抗酸化作用を持ち、記憶力、集中力を改善し、目の疲れを和らげる効果がある。
簡単に言えば、この組み合わせは栄養バランスが良く、脳機能の回復に役立つ。徹夜後の弱った体に最適なのだ。
本当は、これにキウイやキノコを加えて、免疫力を高めたり、他の栄養素を補ったりしたかった。以前の僕なら、間違いなく買い出しに出かけていただろう。でも、藤原さんが前に言っていた「食材は朝一番に買うのが一番新鮮」という言葉を思い出し、新鮮でない食材が逆効果になることを恐れて、これだけの準備にとどめた。
トントン、トン。
僕は再び、空いている右手で藤原さんの家のドアをノックした。
床を擦るような音が近づいてきて、ドアが内側から開かれた。
「はい…テレビの集金の方ですか?私、テレビの契約はしてませんけど」
藤原さんが、パジャマ姿で目をこすりながら言った。
「そうですか。本当にご契約はありませんか?」
「はい。えっと…あれ?あ、浅村さん?浅村さんですか?」
「うん、僕だよ」
彼女は目をこすっていた手を顔から離し、少し赤みがかった目を細めて、しばらく僕を見つめてから、ようやく僕だと認識した。
「あ、あの…今、起きたばかりで、反応がちょっと鈍くて。お見苦しいところを、すみません」
相手は疲れた声で言った。徹夜は、彼女に相当な影響を与えているようだ。
「お疲れ様。もしかして、休んでるところ、邪魔しちゃったかな?」
「いえいえ、大丈夫です。今、目が覚めたところなので。昨日の夜、遅くまで起きすぎてて。でも…この時間に私を訪ねてくるなんて、何か用事ですか?」
「あの…朝ごはん、もう食べた?」
彼女は手でお腹をさすりながら言った。
「えっと…まだです。朝ごはん、何にしようか、まだ考えてなくて。どうしたんですか?」
「あのさ…さっき、君からのメッセージを見たんだ。それで、あんなに遅くまで起きてたなら、まだ寝てるか、朝ごはんを食べてないか、あるいは体調が悪くてちゃんと栄養が摂れてないんじゃないかと思って。でも、メッセージを送って君を起こしちゃうのも悪いし、それに…えっと…君の体が心配になったから。それで、徹夜した人に良さそうなものを作ってみたんだ。もし、もう食べてたら、それはそれでいいんだけど」
なんだか、変な感じだ。こういうことって、理由を誰かに説明して初めて、自分がどれだけ独りよがりだったかに気づく。最初に行動しようと決めた時には、そんなこと考えもしないのに。
僕が話し終えるのを聞いて、彼女はようやく僕が手に持っているものに気づいたようだった。すぐに、彼女の顔に驚きの表情が浮かんだ。
「わあ、すごいご馳走。ありがとう、浅村さん。そんなに気を使ってもらっちゃって」
「いや、そんなことないよ。これ一杯でも、昨日の十分の一にも満たないから」
「ふふ…もう、外に立ってないで、早く入って」
そう言うと、彼女は足を引きずるようにして、振り返って部屋の中へ歩いて行った。
*
「お邪魔します」
僕が玄関に足を踏み入れた途端、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。
僕の部屋と同じ間取りだ。玄関から前を見ると、廊下の突き当たりの壁が見える。玄関からまっすぐ伸びるこの廊下が、家全体を二つに分けている。左手には手前からキッチンと洗面所、右手には手前からリビングと寝室がある。
お盆を食卓に置いた後、僕はすぐに帰ろうとした。
「テーブルの上に置いておくね。じゃあ、僕はこれで」
僕は藤原さんがいるであろう洗面所の方に向かって言い、振り返って帰ろうとした。
「ま、待って!」
僕が持ち上げた右足を踏み出す前に、洗面所から藤原さんの少し焦ったような声が聞こえた。
彼女の突然の緊張した声に驚き、僕は振り返って声のする方を見た。
相手は早足で出てきて、廊下の突き当たり、洗面所の入り口に立っていた。
「浅村さん。あの、できれば…まだ、帰らないでほしい」
彼女の顔には、いつもとは違う表情が浮かんでいる。固く握られた両手は体の横に垂れ、僕を見るその視線には、何か別の意味が込められているようだった。
「そばにいてくれませんか。少しだけでいいから」
お…。彼女のわずかに震える声を聞いて、僕の心臓は思わず、どきりとした。
藤原さんはそこに立っている。家に入る前の疲れた様子から、今のこの状態になるまで、一分も経っていない気がする。彼女が急にこうなった理由が、僕には少しも理解できなかった。
「藤原さん?どうしたの?」
僕は少し戸惑った。どういうわけか、僕も藤原さんが放つ雰囲気に感染したように、わけもなく少し恐慌を感じ始めた。
まさか、家族が急に亡くなったとか?それとも、何か重大な不幸があったとか?いつもは落ち着いて見える彼女が、今、こんなことを言うなんて。
とにかく、彼女は僕の問いには答えず、ただ静かにそこに立っているだけだった。彼女の頭はゆっくりと垂れ、固く握られていた手は、今や不安そうに体の前でもじもじと動いている。
「だめかな。少しだけでいいから…」
相手がかすれた声で懇願するのに対して、聞きたいことは山ほどあるけれど、今は、彼女の気持ちを落ち着かせること以外、何をしても不適切だと思った。
「うん、わかったよ。そばにいる。君はまず、顔を洗っておいで」
「うん…わかった。ありがとう」
そう言うと、彼女は振り返って洗面所に入っていった。
2 - 11am
3 - 3pm