アマリリスの母
「あんなに怒らなくても良いのに。男性は愛人がいても何も言われないのに、どうして私だけ責められるのよ。ずっと我慢してきたのに。少しくらい良いじゃない!」
アマリリスの母マリアが一度目の浮気をした時、再度同じことをしたら離婚だと言われた。いつも優しく微笑んでいたリシタルの冷たい視線に、心も体もガタガタと震え、とてもマリアを愛する同一人物とは思えなかった。
それでも何日か経つと次第にキツい視線は緩和し、以前のように声をかけてくれることが多くなった。
マリアが外出を減らしてアマリリスに関わるようになり、それを見たリシタルがもう一度信じようと思ったからだ。
だがそれはマリアが伯爵家にいた時と同じように、相手が望むような行動をしていただけだった。何故かリシタルは最近アマリリスの機嫌を取っている。ならばと思い、自らも同じように接したのだった。
存外にそれは成功し、以前の居心地を取り戻したマリア。最初はリシタルどころか、使用人達にまで何となく冷遇されていたのも改善された。
さすがにもう我慢しようと思っていた矢先、友人の名を語った手紙が届いたのだ。最愛のエルゼルクから。
『最近君に会えなくて寂しいよ。
思い出すのはくるくる変わる可愛い表情、声、髪、そして体。
愛しい君が元気でいるのかと考えると、あっと言う間に時が過ぎてしまう。
どうか君が俺を思って、身を焦がして消えてしまわないように。
君を愛するエルゼルクより』
「………あぁ、エルゼルク。エルゼルク、エルゼルク、エルゼルク。会いたいわ、貴方に。うっ、ぐすんっ」
エルゼルクの青い髪や長くてしなやかな指、そして優しい笑顔を思い出してマリアは泣いた。切なさに身を焦がし、声を殺しながら。
でもその様子をリシタルの側近の1人、侍女のタフィーネは見ていた。扉を少し開けて、手鏡をマリアに向けて。エルゼルクの手紙に気を取られていたマリアが気づくことは微塵もなかったが。
マリアは気づいていなかったが、リシタルは疑いの目をそらしてはいなかった。そう見せかけただけ。信じたいと思っても、一度失った信頼は簡単に取り戻せるものではなかった。
彼女への監視は以前より厳しく、周囲に誰もいないと思っていても潜んで様子を見られていたのだ。
彼女が侍女に頼まずに、外出中に護衛の目を盗んで手紙を出しに行ったことも露見していた。近くエルゼルクと落ち合うことさえも。
隠れ宿でマリアとエルゼルクを発見したのも、半ば予測していたことだった。
「やはり駄目だったか………」
そう呟くリシタルを悼ましく見る公爵家の使用人は、全員が彼の味方だった。
嫁いだ先で使用人との信頼を結べず、夫である優しいリシタルを下に見ていたマリアに味方は誰も居なかった。
公爵夫人という立場を受け入れられず、気持ちは令嬢のままだったのかもしれない。抑圧された生家で出来なかったことを、嫁いでから満たし始めたかのようだったから。
そして美しい男との禁断の恋がスパイスになり、病み付きになったのかもしれない。綺麗な言葉を並べた物語のようなやり取りは、夢のようだったろう。
でもマリアは母親だ。
物語と現実は両立できはしないのだ。
◇◇◇
隠れ宿から公爵家に戻り、リシタルより詰められても言い訳も浮かばない。
怒っていても、また許して貰えると思っていた。
今度こそはもう、絶対止めるとリシタルに誓う。
けれど駄目だった。
愛を囁いてくれた口は引き結ばれ、目は冷たさをなくし諦めているような悲しみに満ちたものだった。
それでもこのままでは離婚されると思い、力の限り叫んだ。
「ねえ、許して、リシタル。お願いよ、愛しているの。アマリリス、助けて。お母様と離れたくないでしょ? アマリリスーー!!!!!」
どんなに叫んでも誰も引き止めてくれなかった。
使用人1人として。
当然のようにマリアを無言で馬車に乗せ、伯爵家に引きずり降ろし、リシタルの言伝てを家令が伯爵に伝えた。
そそくさと帰る使用人達は、マリアに微塵の未練もないようだった。
◇◇◇
「選りに選って、エルゼルク殿か。何十人とも同時に付き合う、種馬侯爵と呼ばれる病的な恋愛体質男。お前は奴と結婚したかったのか?」
「えっ、まさか! 彼は私だけが好きだと言ったわ」
驚愕のマリアは彼の噂を知っていたが、信じていなかった。自分が信じたいことだけを信じていた。
でも父からその話を聞くと、それが真実のように聞こえる。
「彼は目の前にいる者に忠実だ。その時だけは確かにお前を愛したのだろう。けれどその一時だけなのだ」
「嘘よ、嘘だわ。そんな、だって。じゃあ、私だけが好きだったと言うの? 全部なくしてまで愛したのに」
「彼は人妻を多く愛していたよ。何故だか分かるかい? 結婚してくれと言われないからだ。離婚してまでの関係じゃない。皆夫に許して貰えるうちに止めているだろう。多少肩身は狭くなるがな。離婚は家の醜聞になるから、どこの家庭も積極的にしないだろう」
「だって、私は? 離婚すると言われたわ」
「それほど怒らせた、否呆れられたのか? きっと離婚届けもすぐ届くだろう」
「お父様、助けて。お願いよ。離婚したくない。リシタルは優しいの。何でも言うことを聞いてくれるの。子供だっているのよ」
「子供はお前に何か言ったか?」
「………」
アマリリスとは言葉も交わさなかった。
彼女は2階の自室の窓から、馬車に乗る私をただ見ていただけ。泣くことも蔑むこともなく、ただただどうでも良いように。
あんなに叫んでいる母親を見ても、感情を動かしていなかった。
(他人が騒いでいても、多少は動揺する筈なのに。もしかしたら、そんな人間だと既に見切られていた、とか)
「あははははっ。お父様、私は娘に捨てられていたみたいです。エディタには浮気をする前から軽蔑した目で見られていましたわ。私がアマリリスに関わらず、着飾って夜会にばかり出掛けるから。………私の居場所は私が自ら壊していたようです」
脱力して跪く私を、父は優しく抱きしめた。
「………俺の姉が他人の夫を略奪しようとして、その夫の妻に刺されて死んだ。表向きの死因は、両家と話し合って事故にしたがな。お前にはそんな風にならぬように、厳しく育てたつもりだ。姉は我が儘でそうなったと思ったから。………何が間違っていたのかな? なあ、教えておくれマリア」
マリアを抱いたまま泣き崩れる父親に、何も発することが出来ないマリア。
(そんなこと知らなかった。美しかった伯母様が殺されたなんて!)
マリアの母親も2人をじっと見つめ、悲しげに泣いている。
(ああっ、私は。私はたくさんの人の傷を抉り、傷つけたのね。愛されていないと思っていたけれど、違ったのね)
自分の浅慮のせいで取り返しのつかない事態を引き起こしたマリアは、どうしたら良いかもう分からなかった。
◇◇◇
マリアの兄夫婦は王宮勤めの為、城近くに別邸を借りて暮らしていた。
父親から手紙を貰い帰宅すれば、みな寝込んで憔悴しているではないか。
だから兄は、みんなを食堂に連れ出した。
「まともに食べないと、良い考えはでないです。まずは食事をしますよ」と、活を入れたのだ。
食事後に話し合って、マリアはしばらく修道院に入ることになった。
マリアと両親は、離れて暮らす必要があると考えたからだ。
兄は妹にされた厳しい教育を知っていたから、責めることはしなかった。ただ結婚して幸せな姿を見ていただけに、残念に思っただけだ。
魔が差すことで後悔した妹には、懺悔する場所が必要だ。ちゃんと悲しむことができるのだから、改善は可能だろう。
妹は既にエルゼルクのことに意識は向いておらず、リシタルや子供達のことを考えているようだった。もう元には戻れない。けれど幸せを願って生きることはできる筈なのだ。
その後 妹は、遠くにある戒律の厳しい修道院へ入った。行くだけで何週間もかかり容易に戻れない、妹自らが選んだ場所だ。
両親は止めた。
もう少し近くにいても良いのではないかと。
「………私は甘えると駄目になるようです。こうしてお父様、お母様、お兄様、お義姉様に愛されているだけで幸せ者です。暫く自分と向き合う為に行って参ります。本当にありがとうございました」
その言葉を誰も遮ることは出来なかった。
両親は泣きながら頷き、兄夫婦は肯定の言葉を伝えた。
修道院に連絡を取り、2週間後に妹は旅立って行った。
深く淑女の礼をして、穏やかに微笑んでいた。
◇◇◇
その後に時々手紙が来る。
初めは何も出来なかった掃除や家事も、少しずつできるようになったそうだ。
心乱すものがない居場所は、安らかだと。
それを読んで一安心したり、憐れんだりする両親。兄である私達は健康を祈る。寒い場所で風邪などひかず、元気でいられるようにと。
年齢を重ねても美しい妹に、後妻に欲しいと数件の打診が来るが、断って欲しいと連絡が来るばかりだ。悪い条件ではなく穏やかな人達だから、幸せになれるかもしれないのに。
こちらに帰ってくることもなく、ずっと修道院での生活が続く。さすがに両親も弱くなり、妹に会いたいと言いだした。
それを伝えると妹は、こちら戻って来ると連絡をくれた。そしてこちらに出来た孤児院に勤めるという。
その孤児院は妹の娘、アマリリスが建てたものだ。今の妹なら知っていての決断だろう。
戻って来た妹に少し驚く。
ピンクブロンドの髪は剃り、大きかった瞳は年齢からくるシワやたるみで少し小さくなっていた。名前も洗礼名のマリーと名乗るという。雰囲気が変わり、誰も気づかないかもしれないと思った。妹もアマリリス達に会いには行かないそうだ。
あれから10年が経ち、みんないろいろと変わっていた。両親は妹に会えて元気を少し取り戻した。やはり愛していたのだろう。もっと早く、妹が道を踏み外す前に伝えられたら良かったのに。
それももう過ぎたことだが。
「ただいま戻りました。お父様、お母様、お兄様、お義姉様。はじめましてユリアさん、ラルク君」
「「「「おかえりなさい。元気で良かった」」」」
「はじめまして叔母様」
「はじめまして」
頬を染める子供達は本当に可愛くて、何だか泣きたくなった。
◇◇◇
いつのまにか出来た、新しく増えた家族達。
恥ずかしげにする姪と甥に、知らずと眦が下がるのに気づく。そして過ぎていた時間にも。
それでも自分には必要な時間だった。
これから自分は小さな孤児のお世話をする。
自分の子を見なかった自分がだ。
皮肉かもしれないが、それでも楽しみにしている。
兄の子達は幸せそうで、素直に育っているようで安心した。どうかずっと幸せでいて欲しいと願ってしまう。
兄からリシタルが今も独身で、懸命に頑張っていると聞く。子育てにも熱心だそう。
自分にはもう何もできないので、元気でいて欲しいと祈った。勿論子供達の分も。
自分はもう、勝手に何かをすることは許されないから、心で思うだけだ。
エルゼルクは病気で寝込んで、衰弱して亡くなったらしい。小侯爵は成人済みで、当主の心配もないそうだ。
急な衰弱ぶりに、毒が盛られたのではないかと憶測が上がったがすぐに終息した。
妻も子もエルゼルクのことが大好きだった様子なので、愛人宅で盛られたのかもしれないと言われていたそう。
本当に病気かもしれないし、毒かもしれない。
誰かが何かをしたかも分からないまま。
かつて最愛だと思った人なのに、もう何も感じない自分は薄情者なのかもしれない。
せめて冥福を祈る。
「さようなら。お元気で」
過去の恋情が自分に残っていないと知り、少し寂しく思ったことが何だかおかしかった。