第五十九話 あれから
夕凪は建物の屋上に繋がる階段を上り、風の抵抗で少し重い扉を開けた。
開けた先は夜の街が広がり、ネオンライトが反射するように輝いていた。
外に出てみればそこまで風の強さは気にならない。
夕凪は髪を耳にかけると、屋上の柵の近くで景色を見ている人物に近付いていく。
「郁」
郁は咥えていた煙草を口から離すと、ふっと息を吐いた。
そして胸ポケットから吸い殻入れを取り出すと、急いで煙草を消した。
「此処に居るかもしれないって思って……ごめん、一息ついてたみたいね。
邪魔して悪かったわ」
「いや、気にしないで。
っていうか、こっちこそごめん。
俺、今、煙草臭いかも……あんまり近付かない方がいいかもしれない。
夕凪ちゃんに匂いつく……」
郁の制止を気にしない様に、夕凪は郁の隣に立つ。
「……その煙草、北村猿間《彼》の吸っていた銘柄でしょう。
別に気にならないわよ、私は。
時々しか吸わないみたいだから普段の貴方から煙草の匂いなんて匂わないしね。
……まぁ、鼻がよく利くリリィが此処に居れば消臭スプレーとか浴びせてくるかもしれないけれど」
「ははっ、そうだね。
前なんて出会い頭で消臭スプレーの中身全部ぶつけられたよ……」
郁は苦い顔をすると、肩をガクッと落とした。
「あのときは一日中、郁からラベンダーの匂いしてたよね。
人とすれ違う度に風呂入った? って聞かれて、シャワー……浴びましたってしわくちゃな顔して言ってる郁には……ふふっ、笑えたなぁ」
夕凪は肩を震わせながら笑っていた。
郁は唇を尖らせ、そっぽを向いたが、思い出し笑いをし始めた。
「そういえばリリィと東雲くん元気かなー……喧嘩はしてはないと思うけど」
夕凪は身体の方向を反転させ、屋上の柵にもたれかかると、空を見上げた。
「まぁ、一週間後にはこっちに戻ってくるって言っていたし、大丈夫だろう。
施設の再建も順調に進んでいるみたいだし、多くの孤児を受け入れる予定だって東雲に聞いてるよ」
郁はそれを聞いて、嬉しそうに微笑んだ。
「そっか。
でも順調に進んでるのなら良かったよ。
リリィがノアの箱舟に帰ってきて少し経った頃に、孤児院の再建をしようと思ってるんだって俺達に打ち明けてくれたじゃない?
……三人の夢なのって言って嬉しそうに言ってくるリリィに俺、少し嬉しく感じたんだ。
東雲くんも肩の荷が下りた様な表情してて、二人のこと全力で応援しようって思ったんだよね。
あ、でも東雲くんがリリィが無茶な提案をしてくるんですよって愚痴ってたけれど……」
「あぁ、私はリリィから聞いたよ。
施設の前に大きな象を作るのって嬉しそうに計画書を見せに来てくれたわ」
「因みにその像はどんな……?」
郁は眉間に少し皺を寄せると、夕凪の方に顔を向けて、尋ねた。
夕凪も郁の方に視線だけを向けると、口を開いた。
「狼に大きな鳥の翼が付いた架空の生物に乗った騎士の像。
騎士の後ろは一人乗れる空間があって写真映えスポットにしたいのって言ってたわ」
「うーん」
郁は頭を抱えると、夕凪は「まぁ、もう少し考えてみたらって言ったけれどね……」と呟いた後、ふふっと笑った。
◇◇◇◇◇◇◇
カイン・クロフォードを倒した郁達はノアの箱舟に帰還した。
皆、それぞれの戦闘によって負傷していた為、ノアの箱舟内の医療機関に数か月程療養期間が設けられた。
この戦いで多くのノアの箱舟の隊員、関係者が亡くなり、そしてラヴィ・アンダーグレイもエリーゼ・クロフォードと一緒にこの世界から消えてしまった。
雨宮が所持していたエリーゼ・クロフォードの心臓が抜かれ、雨宮が消滅してから 既にラヴィ・アンダーグレイが生存し続ける可能性は難しく、消滅は免れない運命だった。
それを回避したい為に七瀬はカイン・クロフォードに協力し、ラヴィ・アンダーグレイの肉体消滅前に精神のみ分離させ、どんな手を使ってもラヴィ・アンダーグレイという存在を残そうとした。
郁達も体験した怠惰の悪魔の能力によって、繰り返される夢の中に七瀬はラヴィ・アンダーグレイの精神と共に心中しようという計画だった。
しかし、怠惰の悪魔は計画を実行する前に暴食の悪魔によって腹の中に納められてしまった。
怠惰の悪魔の消滅を知ったカイン・クロフォードは七瀬に大量に自身の血を飲ませ、鬼の力をすべて自身に吸収したのち、事が終わり次第七瀬を始末する予定に移行したのだろう。
「アルカラに協力し、結果的にノアの箱舟の関係者たちを惨殺した私は死刑を免れない身でしょうね。
それでもそれだけの罪を犯したと自覚している」
七瀬はそう言うと、言葉とは裏腹にどこか穏やかな表情をしていた。
数日経った頃、療養を早い段階で終えた郁、夕凪そして七瀬、八百に上層部よりお呼びがかかった。
七瀬の最終的な処遇の件だろうと誰も口にしなかったが、上層部へと向かう足取りは皆、そのときは一段と重そうに感じていた。
しかしノアの箱舟に戻った七瀬に待っていたのは、《《絶賛》》だった。
「どういうことか説明をお願いします。
どうして私は……いえ、確実にノアの箱舟の人物達の大半の殺害を私が行いました。
何故それなのに罪に問われないのですか?」
七瀬は上層部の人間達にそう言うと、眉をしかめてひどく憂鬱そうな顔をした。
「……」
七瀬の問いに上層部の人々は口を噤んでいる。
郁は此処に来るのは西野花菜の件以来だった。
あいかわらず郁の位置から上層部の人間の口元までしか見えない。
「彼らに問いても答える権限を持っていませんよ。
彼らは先日この地位に就いたばかりの者が多い」
そう声がすると、カラカラと車椅子の駆動輪が回る音が郁達の方に近づいてくる。
車椅子にはペストマスクの人物が腰かけていた。
アームサポートに置かれている手は骨と皮だけであり、筋肉が歳を取るにつれ衰えてしまったのだろう。
しかし、そのペストマスクの人物を郁は知っていた。
「0、ノアの箱舟の創始者……?」
「……狗塚郁。
そして夕凪はエリーゼ・クロフォードによって私のことが判るようですね。
しかし、貴方がたが思い描いている《《0》》はあの日、あの場で当時のアルカラ怠惰の悪魔によって殺害されております。
私は0ですが、そうですね……簡潔に言うと0の意志を継いだのが今の《《私》》と認識して頂いた方が良いでしょう。
ですが、今は私もこの様に老体です。
まともに出歩くのも難しい」
0の手元には意思伝達装置があり、そこから言葉を発しているようだった。
車椅子の手押しハンドルはチガネが握っていた。
「どうして貴女が罪に問われないか。ですよね?
それは貴女が殺害したのはノアの箱舟の討伐対象であるデッドだったからですよ」
「は?」
八百は呆れた様に声を出した。
七瀬も驚いており、目を見開いていた。
「少し前にアルカラのシキ・ヴァイスハイトによって普通の人間がデッドになった事例があったでしょう?
あのあと早い段階で解毒薬をラヴィ・アンダーグレイと第壱支部の研究員である青柳のお陰で完成したことにより、そこまで被害は広がりませんでした。
ですが、ノアの箱舟内に自身の利益や欲望ばかり考える汚い輩が増えていたようでしてね、シキ・ヴァイスハイトが裏で彼らと接触していました。
彼らはシキ・ヴァイスハイトに渡されたモノをビジネスに使い金を生み出そうとしたり、中には不老不死なんて嘘を鵜呑みにした者もいたようです」
0はそう言い、溜息をついた。
そして呆れた様な素振りで、言葉を続けた。
「大分昔にもその様な事を考える者は居ましたが、時代が変わってもその様な方は変化はありませんね。
彼らはまんまとシキ・ヴァイスハイトによってデッドにさせられていたようです。
ですから、貴女が殺害したのは人間ではなくデッドだったんです。
だから罪には問うことは出来ませんし、むしろデッドによる被害を未然に防いだ貴女はノアの箱舟にとっては絶賛せざるを得ない」
「……デッドだったなんて、そんなはずなかったわ!
あの人達は確実に人だったはず……っ」
七瀬は反論するように口を開くが、チガネが言葉を制止する。
「いいえ、確実にデッドでした。
皆さんが療養していた期間中、私がこの目で彼らの死体を確認しに行き、遠方には近くに常在している隊員に確認を取らせました。
七瀬さんが殺害していたのはデッドだったんです」
「……っ」
八百は七瀬の肩に手を置くと、七瀬は八百の方に顔を向けた。
「じゃあ七瀬の裏切り行為はノアの箱舟にとっては水に流してくれるということですかね?」
「そうですね、ノアの箱舟の関係者殺害については。
またカイン・クロフォードの討伐にも結果的に関わっています。
その功績は貴女の行為について目を瞑ることに値します」
郁の隣で夕凪は胸を撫で下ろし、安心したような溜息をつく。
しかし八百は小さな声でポツリと呟いた。
「むしろこれ以上その件について俺らから首を突っ込んでくるなって警告の意味に取れるけどな……」
七瀬は八百の言葉に少し驚いた顔をしたが、ぐっと拳を握り、口を堅く噤んだ。
「貴女には引き続き第伍支部の指揮官としてノアの箱舟に協力して頂きたいです。
アルカラそしてカイン・クロフォードを消滅したとしても彼らが生み出したデッドはまだ各地に居ると報告があります。
今後ともデッド殲滅の為よろしくお願いします」
七瀬は少し躊躇するが、ゆっくりと頷いた。
「それでは貴女の処遇については私からは以上になります。
貴方がた二人は部屋から出ていって頂いて結構です。
その後の話については夕凪、狗塚郁両名のみで構いません。
何故か、という問いにはお答えいたしかねます」
「……七瀬さん、八百さん大丈夫です。
私だけじゃなく郁も付いてますから」
夕凪はそう言うと、チガネそして七瀬達は部屋を後にしていった。
部屋の扉が閉じると、夕凪は揃えていた足を崩し、腕を組んだ。
「あの七瀬さん達の様子だと貴方達、ノアの箱舟の本当の目的は知らないみたいね。
まぁ、ラヴィさん達も言えなかったんでしょうけど。
正しくはノアの箱舟をリビングデッドの脅威から守り、誤って貴方達が生み出してしまった者達を私達に後始末させたいでしょう?」
0はふふっと肩を震わせた。
「やはりそれについても貴方がたは既に把握しているということですか。
しかしカイン・クロフォードに生み出された個体の方が今の現状では大半を占めています。
まぁ、中にはまだ過去の残骸が居ることは否定できませんが……
それを知った上で貴方がたはどういう最終見解を示しますか?」
「……デッドを野放しにすれば失われるはずのなかった命が消えるかもしれない。
デッドの殲滅目的については私は貴方達との考えに同意するわ。
そして貴方達も私達の能力を評価しているからこそ私達にデッドの殲滅を願えざるを得ないこともね。
……でも勘違いはしないで。
私達が貴方達ノアの箱舟を活用させてもらうわ。
貴方が答えられる返事は一つしかないはずよ」
「…ええ、そうですね。
|正真正銘の純血の吸血鬼《エリーゼ・クロフォードと同等》になった貴女の力は今後とも我々、ノアの箱舟に必要な存在です。
あえてここは《《協力します》》と答えざるを得ないでしょう」
0はそう答えると、部屋の扉がゆっくりと開いていく。
まるでもう話すことはないから出ていってくれて構わない。と言っている様だった。
夕凪は深く溜息をつくと、目を細めた。
「……今はこれ以上、貴方《0》に何を聞いても口を噤むでしょうね。
もしまた同じ様におかしなことを貴方達が企んでいたら私達は容赦なく牙をむくでしょうね。
十分に気を付けることを奨励するわ」
夕凪は郁と一緒に部屋の扉の方に進んでいく。
郁は部屋の外に出て、0の方に振り向くと、口を開いた。
「……貴方達はエリーゼ・クロフォードとカイン・クロフォードを本当はどうしたかったんですか?」
郁の問いに0は何か口を動かしていたが、扉はバタンと音を立てて、閉じられた。




