第十八話 翡翠色の瞳
アルカラが潜伏する場所に向かう為、郁達は色欲の悪魔のイヴと対峙した市民ホールの前に居た。
朱が言うには、一度ゲートを開いた場所ほどホールを繋げるのに適しているとのことだった。
相変わらず扉は錆びており、少し力を加え引くように開き、郁達は歩みを進める。
今回アルカラの潜伏先に潜入するメンバーは上層部からの指示のもとラヴィ、夕凪、郁、リリィの四名が選出された。
万が一アルカラの襲撃に備え、ユヅル、七瀬、チガネ、東雲はノアの箱舟に待機をラヴィは指示した。
「郁さん、イヴさんが消えたのはあの角に間違いありませんか?」
郁は頷くのを確認すると、朱は壁に左手を添える。
そして小さく何かつぶやくと何もなかった壁に空間の穴が開いた。
穴の奥は暗いのか先が見えないが、うっすらと景色が鮮明になっていく。
郁は潜ろうとしたとき、後ろから夕凪に上着を軽く引っ張られる。
「……夕凪ちゃん?」
「雨宮さんに聞いた。
私の為に色々調べてくれてたって……ありがとう」
驚いたように郁は夕凪の方を見て、瞬きをする。
夕凪は唇をグッと噤んだ。
「っ、それだけ潜伏先に向かう前に言いたかったの!
ノアの箱舟に帰ってきたら雨宮さんに聞いたこととか私にも教えて?
私も……郁に話すから。
それで今度は私も一緒に書庫とか行ったり、回収してきた本とか見て調べたりしたい」
夕凪は頬を赤くすると、ぎゅっと郁の上着の裾を握る。
その夕凪の姿に郁は張っていた緊張を少し緩め、笑った。
「……夕凪ちゃんって、素直になったときやっぱり可愛いよね」
「なっ……!
う、うるさい……帰ったらすぐに書庫行くからね、絶対よ?」
郁はこくりと頷くと、夕凪はふんと照れたようにそっぽを向いた。
ホールの中に潜り、進むにつれ、西洋の建物が目の前に現れた。
建物の周りは一面青々とした草に覆われている。
「……館?」
郁はそう呟く。
館の周りは昼なのか夜なのか分からないほど空はどんよりしている。
「時間がありません。
いつ世釋様が気づくか分からないので急いで入ってください」
ホールの先に入ると生温い風が頬に通った。
「ここは……っ、」
郁の隣でラヴィの息を呑むような声が聞こえた。
「此処がアルカラの本土です。
でも、まずいことになりました。
もう気づかれているようです」
朱はそう言うと、顔を頭上に向けた。
郁と夕凪がウォッカで出会ったあの少年が獏のぬいぐるみを抱え、
空中に浮かんでいた。
「……朱ちゃん。僕ね、結構怒ってるんだ。どうしてくれるのさ」
「知らないよ。そんなこと言われてもさぁ、ニアくん」
朱の方を睨むニアに対して朱は肩を竦めた。
郁達の方に近付いてくる足音も聞こえ、そちらに視線を向けると、世釋が目を細め、微笑んでいた。
「ニア、藍の事は攻撃してもいいけど殺しちゃ駄目だよ。
久しぶりだね夕凪。
そして、待ってたよ。ラヴィ・アンダーグレイ」
ラヴィから緊迫した空気が流れる。
「……世釋」
夕凪はいつでも戦闘できるように日本刀の柄に触れている。
猿間の姿は見えないが、真っ赤なドレスを着た女の子が世檡にくっつくように後ろに立っていた。
肌は真っ白で艶やかで美しくふわりと緩く巻かれた金色の髪はとても柔らかそうで、片目だけ翡翠色の瞳だった。
郁はその瞳に見覚えがあった。
藍も朱も目の前に居る少女の瞳と同じ色をしていた。
「……郁さん約束通り私の事守ってくださいね。
今の世釋様にとって私ではなく《《この瞳》》が一番必要なものなので」
朱は郁の服の裾を掴む。朱は少し震えているようだった。
「場所を変えようか?
その方が良いでしょう、ニア」
世檡はそう言うと、後ろに隠れる少女に声をかけた。
「君もゆっくりと話したいでしょう? ラヴィ・アンダーグレイとね。
ねぇ、僕の愛しの《《エリーゼ》》」
次の瞬間、郁の視界が歪み始めると、市松模様の床が近づいてくる。
どこからか落ちているようで、郁は咄嗟に朱を抱える。
無事に降り立つと、朱をそっと床に下した。
「ありがとうございます。郁さん」
「……三人とは別れたっぽいね」
郁は周りを見渡すと、ラヴィ、夕凪、リリィの姿が見えない。
「魔術師は今日は居ないんだね。
その代わり今度は半人半鬼《郁》が朱ちゃんの騎士気取り?」
郁達と同時にこの場に飛ばされたであろうニアは不貞腐れた様な顔をし、郁達と対峙した。
「ようこそ、僕の遊び場へ。
藍お姉ちゃんのこと返してもらうね。
半人半鬼のお兄さんも苦しくないように殺してあげるからね。安心していいよ」
ニアはにっこりとほほ笑むと、指揮棒を手に取る。
「指揮棒……?」
「……最初っから本気モードですか!」
朱はハッと笑うと、焦った様子で郁に耳打ちしようとする。
「郁さん気を付けてください。彼の能力は……っ!」
「さて、それじゃあ貴方に優しい安息の歌をあげましょう」
ニアはいつのまにか郁の目の前に現れると、そっと頬に手を添える。
「朱ちゃんには鎮魂歌を」
その瞬間、シャボン玉が割れた様な音が鼓膜に響いた。
「ラヴィさん……?」
忽然とニアと郁達の姿が消え、夕凪は一瞬驚きはしたが、それよりも今まで感じたことのないラヴィが纏った気の異変に気付き、夕凪はラヴィに声をかける。
「……夕凪は消えたワンコくん達を探して」
「でも……!」
「これは上司命令だよ。
分ったかい? 夕凪」
ラヴィにそう言われ、夕凪は唾を飲み込み、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
世釋は退屈しきったような顔に微笑みを浮かべた。
「良いの?
ニ対一になっちゃうけど」
「世釋、僕を甘く見ない方が良いよ。
それに君には個人的に聞きたいことが出来たよ」
「それじゃあ、僕も本気出さなくちゃなあ……」
夕凪はこの場から離れる前に世釋に一撃を加えようと、刀を貫くと世釋に向かっていく。
しかしパチンと音がすると、夕凪の目の前に大きな扉が現れた。
夕凪は警戒しながらその扉に手をかけた。
開いた扉の先は薄暗く、部屋の中央にはこちらに背を向けた人物が立っていた。
その人物はゆっくりと夕凪の方へ振り向く。
「……え?」
夕凪は声と表情を強張らせる。
扉は夕凪が部屋の中に入ったのを確認したかのようにゆっくりと閉まった。
◇◇◇◇◇◇
「……おる、郁! 起きなさい!!」
耳元で声がし、郁は飛び起きる。
「いつまで寝てるの?
あんたは本当に高校生になっても……」
郁は瞬きを繰り返すと、目の前で呆れた顔をしている人物を見た。
「なにボサッとしてるの?
学校遅れるわよ?」
「……まじか」
郁は溜息をつくと、ベットの横にある窓のカーテンを開けた。
差し込む朝日が眩しく郁は片目を瞑る。
しかし前とは違い意識だけははっきりしていた。
「夢にしては感覚がはっきりしてるけど……多分怠惰の悪魔のニアの能力だよな」
手のひらを見ると、文字が書かれていた。
「《《獏を探して下さい》》か」
「ぶつぶつ言ってないで、さっさと起きなさい郁」
「……わかったよ。母さん」
獏
中国から日本へ伝わった伝説の生物。
人の夢を喰って生きると言われている。
悪夢を見た後に「(この夢を)獏にあげます」と唱えると同じ悪夢を二度と見ずにすむという。
制服のポケットの中に丸められたていた紙切れの文章を見ると、郁は頭を掻き、その紙切れをもう一度ポケットの中に戻した。
「……夢だったと仮定して獏を見つければ現実に戻れるってことか。
このメッセージはニア……いや、朱さんかな?」
朱の姿が見えない為、同じ空間にいるのかそれとも別の場所に居るのか今の郁には確認しようがない。
郁は空を見上げて物思いな顔をしても自然に辿り着いてしまう様、学生時代に何度も通った通学路を歩きながらぶつぶつ独り言をつぶやいていると誰かにぶつかった。
「っ、すいません」
「……郁くん?」
ぶつかった相手の顔を見ると、郁は目を見開いた。
緩く巻いた髪を一纏めにしたポニーテールが揺れ、履いてるチェックスカートはパンツがギリギリ見えそうなくらい短い。
郁を見上げる瞳はキラキラを潤んでいる。
「リリィ……!?」
「そうだよリリィだよ!!
郁くんだ本物? ずっと心細かったよ~!
よくわかんない所に居るし、ニアっていう男の子にぬいぐるみ投げられるし~……」
リリィは郁に飛びつくと、えぐえぐっと泣く。
「わーい、胸柔らかいマシュマロみたいだぁ……じゃなくて、やばい思考が思春期の男子学生みたいだ……!
リリィちょっと離れて欲しい。周りの視線が痛い……」
登校中の学生、サラリーマンもこちらを見ては、コソコソと何か喋っていた。
リリィは郁から離れると申し訳ないような顔をする。
「ふぁ、ごめんね。
でも最初パンツ一枚であと裸だったの……犬ちゃんにいっぱい追いかけられるし大変だったんだから……!!」
「は、裸……服はどうしたの?」
郁は想像してしまい、リリィから視線を外すと鼻を咄嗟に抑える。
「路地裏に身を隠してたら鼻息の荒い男の人に服もらった。
飛びついてきたから気絶させるくらいの力で叩いてしまったんだけど……申し訳なかったな」
リリィはしゅんとした顔をすると、肩を落とした。
そんなリリィに郁は両肩に手を置き、首を左右に振った。
「……男の人の親切心には感謝するべきだとは思うけど、それは叩いて良かったと思う。
とりあえずリリィが無事でよかったよ。
あと、スカートとても短いから俺のジャージの短パン貸すね。
無地の黒だからリリィが履いてるスカートと違和感ないと思うから」
郁はスクールバックから体操着のジャージの短パンをリリィに渡した。
短パンを受け取ると、リリィは照れた様に笑った。
「ありがとう郁くん」
リリィなんでこんなに無防備なんだろうと郁は心配になった。
郁はリリィに獏のことを怠惰の悪魔の能力で現実ではない夢の中に居ることを一通り説明した。
「とりあえず俺は学校に行く。リリィには申し訳ないけど周辺を探してほしい」
リリィはこくりと頷く。
「学校さぼろうかと思ったけど何でか学校に行かないといけない気がするんだ」
「多分それってその獏が郁くんの学校に居るかもしれない気がするってこと?」
首を傾げるリリィに郁は首を横に振った。
根拠はない郁の只の勘だが、獏に繋がる何かが今、向かっている学校にある予感がしていた。
「私も郁くんの学校行ってみたいけど……流石にバレちゃうよね」
「バレるというか……スーツとか着たら男子高校生が喜びそう」
また余計な事を口走ってしまったと郁は気づき、自身の口を手で覆う。
「とりあえず危険。
リリィが思ってるより学校は危険な場所なんだ!! ごめん!!」
郁はそう言うと、リリィと別れ、学校へ急いだ。
◇◇◇◇◇◇
ニアは指揮棒を振るうと、倒れている郁とリリィが宙に浮くと、二人の頭の上には砂時計が現れる。
「時間が経つほど覚めない夢を死ぬまで見ているといいよ」
ニアは倒れている朱を抱きかかえると、手を額に添える。
「僕の為に藍お姉ちゃんは必要なんだ。
だから朱ちゃんが消えるようにおまじないかけておくね。
早く僕だけの藍お姉ちゃんになってね」
「ニアくんお疲れ様ー。
さて、ほなさっさっとその瞳を摘出するさかい離れとってー」
シキはニア達に近付くと、メスを取り出した。
「……藍お姉ちゃん大丈夫だよね。
もし何かあったら……」
「はは、はよぅ止血やるわ。
藍ちゃん傷つけるようなことしいひん。
計画ももう大詰めやし、僕らは僕らの仕事早うせんとねぇ?」
ニアは心配そうな顔をすると、瞳の摘出作業をしているシキの横にしゃがむ。
シキの手際はとても良く、ニアは感心したような声を出した。
「そういえば何で藍お姉ちゃんにエリーゼ様の瞳があるのさ」
シキは少し考えると口を開く。
「元々は早い段階で回収できる予定やったらしいけど、あのビッチ女の失態で予定がズレたらしいわ。まぁ、結果的に藍ちゃん本人がこっち側に来てくれはったんやけど、摘出できる状況になってなかったから時間がかかったらしいわぁ。
やからニアくんが嫌っとる《《朱ちゃん》》にちょっとは感謝せぇへんとな。
あの子が魔力をぎょうさん使ってくれたおかげで回収できるんやから」
「……気づいてたんだ」
ニアは驚いた様に目を見開くと、シキはふっと笑った。
「いいや、ニアくんの様子を見て判断しただけや。
最近のニアくん頬膨らませて何度その頬を口に含んでしまいたいって我慢して涎が垂れそうになったか……殺気なんてもうにやけてしまうくらい愛おしかったわぁー」
「シキくんって本当気持ち悪いよね」
ニアはシキに怪訝そう顔を向けた。




