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たす様

作者: そそね

クリスマス短編


「ばっきゃろー!」

出版社『集営社』のビルの前で思わず叫んでしまった時には、もう遅かった。

道行く人々が私に怪訝な視線を向けた。

見事注目の的になった。やったー。

首元に巻いた赤のマフラーに口元を埋め、私はそそくさとその場から退散する。

何をやっているのだ、二十五歳。

これではただの変な人じゃないか。

私は眩いイルミネーションで彩られた並木通りを駆けた。

子気味良い歌が流れる街中を、お気に入りのピンク色のスニーカーで一心不乱に駆けた。

今日は十二月二十四日。

世間で言うクリスマスイブ。

(ちくしょう……ちくしょう……ちくしょー!)


すぐに息が切れて、私は失速。

どころか完全に停止した。

「ぜぇー……ぜぇー……」

まだ五十メートルも走っていないのに私は満身創痍だった。

運動不足を辞書で引いたら私の名前が載っているに違いない。

載っていなかったら書き足してやる。そんな歌、昔あったな。

時代の流れと己の体力の無さを憂いた私は肩で大きく呼吸をして、更に酸素を求めて思わず天を仰いだ。

日のすっかり暮れた空には地上のイルミネーションにも負けない幾つもの輝き。

見上げたそれは、手を伸ばせば掴めてしまいそうだ。

私は右腕を虚空に伸ばす。

文字通り筆より重い物は持てないであろう、細く頼りない手だった。

だが、その手はやはり何も掴めない。

私の吐息が白く広がるだけだ。

当たり前のように、あの輝きは遥か遠くにある。

「くそったれ……」

大和撫子とは程遠い台詞が思わず溢れてしまう。

冬も本番だというのに、ダッフルコートに包まれた身体はひどく熱い。

おまけにーーいや、こっちが本番なんだろうーー目頭が焼けそうになる。

空を見上げていてよかったと思う。

奇声をあげた上に、道端で泣き出すって。

ありえない、ぶっちゃっけありえない。

初代世代の私。……帰ろう、家に……。

夜なのに浮かれ切った喧騒を背に、私は帰路へと着いたのだった。


途中、近所のコンビニに寄った。

明らかにやる気のない店員の声が形式的に私を迎える。

私は入り口に付近にあったカゴを持って、今日のご飯やお酒やらを乱雑に放り込んで行った。

レジへ向かうと、前のカップルが何やらひそひそと楽しそうに耳打ちし合っていた。

けっ。

私は内心で唾を吐き掛ける。

わざわざコンビニまで出向いていちゃいちゃすんなや。

そう毒づいてみたものの、やはりレジ前に置かれていた華やかなクリスマスケーキを見て消沈した。

……ですよね。

誰が決めたかは知らないけれど、今日はそういう日。

世間から見れば私の方がマイノリティ。

だからその世論は誰が決めたのだーーと毒づく元気はもう私にはなかった。

買い物を終えて、私は一人アパートへと帰路を歩く。

分かっている。

分かりたくはないけれど。

理解せざるを得ない。

私はもう二十五歳。

風の噂では、高校の同級生のあの子が結婚して子供が二人いるらしい。

私には結婚式の招待状すら届かなかったんだけどな、あはは……。

笑えない。笑えない段階に私は足を踏み入れているのだ。

「さみぃ…………」

汗を掻いたから、余計に冷えるのだ。

誰が聞く訳でもなく、私の呟きはやはり白い塊となって宙に消えた。


「ただいま」

言っても、誰も迎える人はいない。

その代わりに、外とさほど変わりない冷気と暗闇が私を迎えた。

玄関でピンク色のスニーカーを脱いで、部屋の電気を付けた。

女性の部屋とは言っても信じては貰えないような散らかりが具合がそこには広がっていた。

幻想を持つなよ、男性諸君。

これが一人暮らし女性のあるがままの寝床である。

虚しい言い訳をしてみた。一体誰に? だから誰もいねぇって。

一人暮らしが続くとこういうのもあるあるだよね? 共感を求めてみても、とどのつまり誰も頷く人はいなかった。

飽きた。

私はコンビニのビニール袋からビール缶を取り出して、空き巣にでも合ったかのような部屋に無理矢理座るスペースを作り出す。

ダッフルコートをやはりその辺に適当に脱ぎ捨て、電気ストーブの電源を入れて、長袖のセーター姿になって缶のプルタブを開けた。

静かな部屋に響くかしゅ、っと爽快な音。

クリスマスソングなんかより私のテンションを上げてくれる音。

うへへ、これですわこれ。

「お疲れ様でした!」

言って、ぐいっと金色の液体を身体に流し込む。

全てを溶かすようや心地よい炭酸の感触が私を包む。

あー、CM来ちゃうなあ。

これ、きっと私CM来ちゃうよなあ。

だからやはり大和撫子とは程遠く、喉を鳴らしてビールを飲む二十五歳の女性がそこにいた。

まさかの私のだった。

半分以上飲み干したところで、ようやく私は一息。

「ぷはーっ、うんめー!」

ぐいっ、と私はセーターで口元を拭った。

どうせ誰に見せる訳でもない服だ。

せめてティッシュ代わりぐらいにはなってもらわないと。

あはは、終わってんな私。

6800円もこのセーターに注ぎ込んだある日の私を往復ビンタしてやりたい気分だぜ。

自らの女子力を嘆いたところで、私はコンビニの袋の片隅に置かれていた角2サイズの茶封筒に気付いた。

気付いたというか、視界に入ってしまった。

見たくはなかった。

出来ればそれは、もう今すぐにでも燃やしてしまいたいぐらいだった。

「……ツマミにもならないよねぇ……」

私はそれを拾い上げて、ビールとおつまみが幅を利かせていたテーブルに中身をぶち撒けた。

テーブルに落とされたのは原稿用紙。

言っても400文字詰の文書用ではなく、B5サイズの漫画用原稿用紙。

私が今日集営社に持ち込んでボツを食らった漫画の原稿用紙だった。


「面白いねぇ、うん面白いよぉ」

そう言われて、私は思わず笑顔になった。

大手出版社の集営社。

少年〜青年漫画、さらには少女漫画までを手広く扱う業界内ではトップを争う出版社だった。

私も幼い頃はーーというか今もだが、その出版社から発売される漫画に心踊らせ読み耽ったものである。

そんな集営社内にある部屋の一角で、私の持ち込んだ漫画を読んだ中年の小太りの編集者は確かにそう言った。

面白いね。

漫画を書く身として、これ以上の褒め言葉はない。

私は内心で高らかにガッツポーズをした。

「ガッツポーズかなぁそれは、んふふ」

「あ、すいませんすいません」

なんと本当にガッツポーズをしていたみたいだった。

私は慌てて姿勢を直す。

それでも表情はどうしても弛んでしまう。

駄目だ、真面目な顔をしろ私。

まだデビューが決まった訳じゃないんだぞ。

と、そこで編集者は言った。

「でもねぇ」

「はい?」

「これじゃ、売れないねぇ。うん、売れる要素がないよぉ。残念だけど、これじゃうちの雑種では連載は取れないねぇ。また書いてきてよぉ、今度はもっと売れそうなものをぉ。それじゃあねぇ、んふふ」

「えっ?」

己の顔が瞬時に引き攣ったのが分かった。

強張るのが分かった。

何を言われているのか理解出来なかった。

だって、だって貴方は確かに面白いと言ったじゃあないか……?

と、内心で思ったはずだったのに、何故か編集者は笑った。

またしても思わず声に出ていたのだろうか?

ともかく、編集者は笑った。それは失礼かもしれないけど、いや間違いなく下卑た笑みだった。

「んふふ、違うんだよぉ。君の書いた漫画は面白いよぉ。とぉってもねぇ。面白いんだけれどぉ、売れないんだよねぇ。これをお金出そうと思って、買おうとはならないんだよねぇ。んふふ、分かるかなぁ。端的に言えば、流行りじゃないんだよねぇ、君の作品は」

「は、流行りですか……?」

「そう、流行り。現代の読者が求めている作品じゃないよねぇ、って事。言っちゃえば、これはオナニーだよぅ。君のオナニー漫画。僕は好きだけどねぇ、んふふ。分かるかなぁ、オナニーの意味? んふふ?」

鼻息を荒くした編集者の視線が私を見据えた。

「売れるにはさぁ、そうだ、君は女性なんだからさぁ。もっとリアルなパンツを書いたりお色気要素を足したりしてねぇ。んふふ、どうかなぁ?」

売れる漫画?

売れない漫画?

なんだそれは?

その違いは何?

面白いと言ったじゃないかお前は。

私の物語を面白いと言ったのに。

挙げ句の果てには、これが私のオナニー?

はっ?

ぞわ、っと全身が身震いした。

……悪い……。

「ん?」

編集者がにやにやしたまま首を傾げた。

だから内心で言ったつもりだったけれど、三度口に出していたらしい。

でも、今度は大声でしっかりと言ってやった。

「気持ち悪いんだよ! てめぇら!」


原稿をかき集めて、私は集営社のビルを飛び出した。

そして冒頭に至る。

悔しくて悔しくて堪らなくて、私は思わず叫んでいた。

止められなかった。どうしても止められなかった。

「ばっきゃろー!」

だから走り出した。

走り出す前から身体は十分に火照っていたのかもしれない。

それでも走り出さずにはいられなかった。

悔しい!

悔しい悔しい!

分かっている。

頭では理解していた。

あのエロ編集者の言う事も間違いではない。

むしろ、あれでもプロの編集者である。

正しいのはあいつの意見の方だ、ぐらいまである。

でも、それでも。

それでも、私は走り出さずにはいられなかった。

(ちくしょー! ちくしょーちくしょー! なんなんだよ! なんなんだよあいつら!)

そして、一頻り走り終えたところでーー体力の早すぎる限界を迎えたところで私は思った。

空に手を伸ばして、泣きたくなったのだ。

(……漫画家になりたいってずっと思ってたけど……あはは……向いてないんだな、私は)

そう。

漫画は読まれる為の物語であって。

読まれなければただの私の落書きに過ぎない。

そう、きっとあのエロ編集者の言う通りだと思う。

私はそれこそ家に帰ってオナニーでもしていればいいのだ。

一人で気持ち良くなって、一人で満たされる。

それで満足なのだ、きっと私は。

伸ばした手に、遠くの星を見る。

私はあの輝きには手が届かない。

手を伸ばすのが精一杯。

当たり前に人々に光を与えるような存在には私はなれない。

(あれ……私は、どうして漫画家になりたいんだっけ……)


その答えに満足の行く回答を見出せないまま、私は一人買ってきたアルコールを摂取し続ける。

とにかく酔いたかった。

何も考えたくなかった。

時刻は深夜1時を回っていた。

明日のピザ屋のバイトは明日の私がなんとかしてくれるだろうと本気でそんな馬鹿な事を考えていた。

クリスマスだからめちゃくちゃ忙しいんだろうなぁ。

私はふと携帯を取り出した。

誰に勧められた訳でもないけれど、とりあえず登録するだけ登録していたSNSサイトを開いて見た。

よりによって今日この日ーークリスマスイヴの夜にである。

分かってるぜ、これは怖いもの見たさだ。

きっとこのSNSサイトには目も覆うような、それはもう化け物のような書き込みが溢れているに違いない。

だからこそ覗きたくなってしまう。

好奇心というか野次馬心というか、とにかくそんな感じ。

そんなものはまるで人生において役に立たない代物だとは理解しているけれど、一人で飲み続ける自棄酒のツマミにでもなるかと思ったのだ。

死んだ目で嘲笑ってやるさ、と私は勇むようにSNSサイトを開いた。

ーー化け物どころではなかった。

がたん、と女子力を極限まで引いたテーブルに頭を落とし、携帯は何処かへ飛んで行った。

「……あはは……ははは……そうだよ……そうだよねぇ……私は……私は一人で、どうしてこんな辛い事をしてるんだろう……」

酔いが回っているからだろうか、心根が口から音を伴って零れ出した。

こんな辛い思いをするのなら、もう漫画家なんて目指さなくていいじゃないか。

こんなに悔しい思いをして、こんなにボロボロになって。

そうだ、きっとそう。

漫画家なんて、だからなんで私は目指したのだろうか。

周りの人達はもう幸せそうな家庭を築いて、親に孫の顔を見せたりなんかして。

きっと毎日が笑顔で満ちているに違いない。

今日、今この時だって温もりに満ちた時間を過ごしているのに。

それに比べて私はどうだ?

なんだこの生活は?

オナニー漫画を書き連ねて、それを出版社に持ち込んで、駄目出しすら生温いーー今までの人生を否定されたかのような馬事雑言を有り難く頂戴して。

「はん、ばっかじゃねーの……」

私はセーターに手を突っ込んで、窮屈に締めていたブラを外してコートと同じように投げ捨てた。

「ほら、楽じゃん」

この方が、全然楽じゃん。

縛られていたものを取っ払った方がまるで生きやすいじゃん。

馬鹿馬鹿しい。

何が漫画家だ。

そんなもん、ならなくたって幸せに生きている人間が周りにいるだろ。

大人になれ私。

いい加減大人になれよ私。

食えもしない夢を見ていい時間は、もうとっくに過ぎ去っているのだ。

もう知らない。

考えたくもない。

泣きたくもない。

明日の事は明日の私に任せよう。

我ながら酷い酔っ払いの言い訳だったけれど。

とにかく私はそのままテーブルに突っ伏して寝てしまった。

結局は、何故自分が漫画家になりたいと思ったのか思い出せぬまま眠りこけてしまった。

クリスマスイヴの夜。

街が彩られ浮き足立つそんな夜。

私の前に小さなサンタさんが現れたのは、そんな歳末の聖なる夜の事だった。


ーーーーーーーー


何もない真っ白な空間だった。

目も眩む程に明るくて白い純白の空間。

けれどその光は何処か優しくて温かみすら感じる、そんな不思議な空間に私はいた。

「ははん、夢だこれ」

直感してしまった。

気付いてしまった。

推理小説で言えば冒頭に犯人の名前とトリックが書かれていたように、私はその空間を夢だと分かってしまったのだ。

何だか拍子抜けも良いところである。

こんな不思議空間で、とんでもない肩透かしを食らった気分だった。

というか夢を見てしまってるって……。

レム睡眠じゃなくて、ノンレム睡眠じゃん!

私はあれだけアルコールをがぶ飲みしたのに、熟睡出来ていない自分に軽く慄いた。

いつから酒飲みになったのだ、私は。

と、最近の生活を振り返ってみたら確かに問答無用で酒飲みだった。

現行犯で逮捕されるぐらいには酒飲みの生活を送っていた事を思い出す。

「笑えないって……」

今更ながら自省の念に駆られたところで、私はその空間を歩き出した。

ひたすらに何もない、ただただ真白い空間。

まるで穢れを知らないかのような世界。

塵一つ見当たらないような眩しい世界。

使った事はないけれどサングラスの一つでも欲しくなるような場所だった。

しばらく歩いて、私はふと足を止める。

この世界には私しかいないと勝手に思っていた。

それほどの白さと静寂を持つ世界だ、勘違いも無理はないだろうーーと私はだから確信していた。

けれど、しばらく歩いたその先に。

ーー誰かがいた。

誰かーー小さな体躯のその人物は、私に背を向けてこちらには気付いていないようだった。

何かに熱中しているようで、背後に立つ私に気付かない。

私はただそれをぼんやりと見つめていた。

(だから、そう、これは夢である)

自分に言い聞かせるように唱えた。

直後、その人物は私に振り返った。

なんとまぁ、夢に及んでまで私は心の声を発音していたようだ。

我ながらやべぇ癖だ。

ーー振り返ったのは少女だった。

まだ年端も行かないような、幼い女の子。

その子は私に振り返って、そして言った。

「ゆめじゃないよ」

大きく絢爛と輝く無垢な瞳が私を捉えた。

あぁ、と嘆息してしまう。

いや、分かっていた。

最初からーー少女の後ろ姿を見た瞬間に分かっていた。

分からない筈がない。

この少女を私は間違いなく知っている。

知って知って、知り尽くしている。

それはもう見紛いようがないぐらいには。

だってーーこれは、小さい時の私なのだから。

ーー六歳、もしくは七歳の時の私に違いないのだから。

不思議な夢だ。

脈絡も突拍子も無い夢を見る事はあっても、幼い自分と対峙する夢なんて今までに見た事がない。

私は果たして幼い頃の自分に何と言葉を掛けていいのか分からずに、その場に立ち尽くしてしまった。

立ち尽くしてしまった私の代わりに、幼い私が言う。

「はじめましておねぇちゃん! あれ? でもおねぇちゃんはわたしだよね? おねぇちゃんがわたしならはじめましてじゃないよね……うーんと、ひさしぶり?」

ちょこん、と首を傾げる幼い私。

可愛い。

じゃなくて、これは幼い自分だから。

私は私に混乱が抜けぬまま言う。

人見知りではあるけれど自分に緊張してどうするのだという話なのでーーだから言葉はスムーズに紡ぐ事が出来た。

「私は君を知っているけれど、君は私を知らないから、はじめましてでいいんじゃないかな?」

私の言葉に目を輝かせる幼い私。

「そっかぁー! さっすが、おとなのわたしだね! おとなのわたしはそうめんだね!」

「……そうめん? ……もしかして、聡明?」

「そう! それ、そうめん!」

何故だろう、訂正出来ていなくても可愛いから許してしまう。

いいなあ、幼女。

こんな時代が私にもあったのか。

そんな時代の私と今の私が対話しているのか。

「不思議な夢だなあ……」

「だから、ゆめじゃないよ」

幼い私が身を乗り出すように私に言う。

「夢じゃないって……だったらこれは走馬灯かな?」

「そーまとー?」

「うん、走馬灯。分からないか。走馬灯って言うのはね、死ぬ寸前に思い出す過去の記憶の事。だから私の子ども時代の事とかがね、思い出として蘇って来るんだよ」

「ふーん、むずかしいーね。よくわかんない」

「よくわかんないよね。私もわかんないよ」

私は笑った。

笑えてかは分からないけど。

これが仮に夢じゃないとしたら。

幼いわたしが言うように夢じゃないとしたら。

ーーこれが仮に走馬灯だとしても。

それでもいいと、笑った。

どうにでもなれと私は眠りに落ちていったのだ。

例えそれが永遠に覚めない眠りだとしても、悪くはない。

むしろそれが私にはお似合いの結末だとさえ思えた。

夢を見たまま死んでいくのなら、私は本望だと思える。

いつまでも漫画家という煌めく星に手を伸ばし続けていた私に相応しい最期だと思える。

だから私は何処までも自虐的に破滅的に笑えた。

不器用にも程があるけれど笑顔を見せる事が出来たのだ。

そんな私を一瞥して「…………」幼いわたしは再び何かに取り掛かり始めた。

私の声に振り返る前と同じように、熱心に何かをしている。

私は気になってそれを覗き込む。

「何してるの?」

「あっ! だめ! まだみちゃだめだよ! おとなのわたし、デリバリーがなさすぎっ!」

「デリバリー? ……ひょっとして、デリカシー?」

「あぁ、うん! それなっ!」

笑顔を見せる幼いわたし。

漫画家志望だから語彙を増やしておいてよかった……。

幼い自分に突っ込むという貴重な体験が出来たのだから。

「もうすぐできるから、ちょっとまってて!」

幼女バージョンの私はそう言って再び何かに熱心に取り掛かり始めた。

私に背中を向けてせっせと何かを作っているみたいだ。

幼女わたしは座っていて、大人私は立っているので、どうしたって視線の高さでちらりとその光景は見えてしまう。

(あれは……折り紙?)

「あーっ! だからみないでっていったでしょー!」

おっと、なんとまたもや口に出してしまっていたようで幼女なわたしに私はマジギレされた。

自分に怒られ自分に謝罪するのもなんだか変な気がしたけれど、とりあえず「ごめん」と謝って私はその場に座り込んだ。

光り輝く地面はアスファルトのように固く冷たく、座布団の一枚でも欲しいところだった。

そんな大層的はずれな事を考えながら、私は熱心な幼いわたしの小さな背中を見つめた。

もう私の事なんかまるで忘れてしまっているかのように、直向きに作業に集中している。

(随分と真剣なんだな……たかだか折り紙を折っているだけなのに……)

不思議な光景だった。

不思議と言えばこの夢事態が摩訶不思議であるのだけれど。

違くて、私が思ったのはどうして一つの事にそこまで集中出来るのか、という事だった。

今の私は漫画を描いている時だってこうはなれない。

どうしたって目に見えない正体不明の何かが私を邪魔する。

それが幼いわたしにはまるでない。

ひたすら真っ直ぐで、ひたすら真っ白で……それは……それはとても羨ましい……。

「ねぇ」

思わずびくん、と肩を跳ね上げてしまう。

幼女なわたしが私に不意に声を掛けたのだ。

幼い自分の背中を凝視していた私は驚いて、それでもしどろもどろだけど応えた。

「み、見てないよ! 全然お肌綺麗だな恨めしいなとか思ってないよ!?」

「えっ?」

「あ、いや、何? どうしたの?」

「しつりょうほぞんがあるの」

「多分言い間違えなんだろうけど、ごめん全然分からない」

「まちがえた。しつもんがあるの」

「随分と無理がある間違え方をしたね」

「しつもんが、あるの」

「……はい、何でしょう?」

そこでわたしは私に振り返って言った。

その表情は悪意などまるでなく、ただただ純粋無垢な笑顔で幼女は私に尋ねた。

「まんがかにはなれた?」

「…………っ!」

心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥った。

そんな息苦しさと同時に、鋭利な刃物で身体の奥の奥までざっくりと抉られたような痛みと熱さが私の全身を駆け巡る。

わたしに悪意など微塵もない。

どころか、穢れを知らない二つの輝く目でわたしは私にそう尋ねてくるのだった。

もう今すぐにでもその場から消えてしまいたかった。

粉々になって散り散りになって失くなってしまいたかった。

こんな夢、早く覚めろと心から願った。

けれど無駄だった。

わたしはその真っ直ぐな瞳で私を捉えて離さなかった。

「……なれてないよ……ごめんね」

私はわたしから視線を逸らして応える。

そうだった。

そうだったね。

目の前にいるわたしぐらいの年齢で、もう私は漫画家になりたいって言ってたんだっけ。

漫画家を志した理由はだから今の私はすっかり忘れてしまったけれど、私がその夢を抱いてから10年が経とうとしているのだ。

思わず涙が溢れそうになった。

情けない気持ちで身が焼けそうな思いだった。

ごめん……本当にごめんね。

私は10年、一体何をしていたんだろうね。


「そっかあ」

「……へっ?」

そんな私に、わたしは軽い調子で言った。

まるで気にも留めていないように、言ってしまえば大して興味もなさそうに言ったのだった。

私は思わず聞いてしまう。

「……がっかりしないの? ……馬鹿にしないの? 未来の私に失望しないの?」

「えーっ? がっかりなんてしないよー」

「……それは、本当に……?」

「ほんとだよー」

そう言って幼女は鼻歌交じりに作業を続けた。

本当に何も思ってないようなその様子。

私一人が浮き足立っていた。

だから、思わず怒鳴ってしまった。

相手が幼女だなんて事は忘れてしまっていた。

そうだよ、だって目の前にいるのは過去の私。

これは何処まで行っても自白に過ぎないのだ。

だから、私は声を荒げてしまった。

「だって……だって……漫画家になれてないんだよ!?」

「へっ?」

「私はさ……未来の君はさ……この歳になっても夢を捨てれないでいて! 今までの私を否定されるような駄目出しを受けても! エロ編集者にオナニー作品だって言われても! それでも……それでも私は好き勝手に漫画を描き続けて……ほんとは漫画家になる気なんてないかもしれないんだよ! そうして時間だけを無駄に浪費して! もう漫画を描く意味すら分からなくなって! そんな私が未来のあなた! 今あなたが見ているのが将来の自分の姿! 情けないでしょ! みっともないでしょ! ほら、笑ってよ! 馬鹿にしてよ! あんたなんかになりたくないって……お前なんかになってたまるかって泣き喚いてよ……!」

我ながら大人気ないと、さらに拍車をかけて死にたくなった。

別にいいや、私は死んでいるかもしれないんだし。

だってこれは走馬灯かもしれないんだし。

酷い遺言だ。

どうだ、昔のわたし。

お前はこうやって成長するんだ。

さぁ、否定してくれ私の全てを。

あの編集者達と、あの出版社と同じように。

流れとやらに流されまいとみっともなくしがみつく私を突き落としてくれ。

ーーしかし、そんな私の見るに耐えない狂乱を受けて彼女は笑った。

わたしは、なんと笑ったのだった。

「えへへ」

その笑顔はやはり曇りが一つもなくて。

陰りを照らす眩しい太陽のような眩しい笑い顔だった。

「……えっ……?」

私は訳が分からなかった。

ただその場から動く事も、それ以上口を開く事も出来なかった。

な、なんで……?

どうして、あなたはそんな風に笑えるの……?

「でーきたっ!」

呆然とする私の前に幼女はそう言って駆け寄って来る。

そしてやはり変わらない眩しい笑顔のまま「はいっ! プレゼント!」と言って、私に何かを差し出した。

「……こ、これは……?」

「めだる! きんめだるだよ!」

見れば、彼女の小さな掌に乗っているのは丸く形取られた金色の折り紙。

めだる、メダル、金メダル。

私はやはり呆けたままそれを受け取った。

「め、メダル……? どうして私に……?」

「えへへ、それはがんばったひとがもらうものだから!」

眩しい。

あまりに眩し過ぎて私はその顔をだから直視出来ない。

「……だったら、私はこれを貰えないよ……。私は金メダルなんてこの先も多分……ううん、絶対に貰えないから」

「えー、ちがうよ。わたしはがんばってくれたから、わたしからきんめだるをあげるんだよ! ありがとうって、わたしからわたしへきんめだる!」

「私から、私に……?」

そこで私はわたしと目を思わず合わせてしまった。

きらきらと輝いていて、曇りを知らない瞳。

その持ち主は言った。

「うん! ありがとうのきんめだる! ありがとう! わたしのすきをずっとすきでいてくれてありがとう!」

「私の好き……?」

なんて言ってはみたけれど。

私は分かっていた。

思い出していた。

涙がどうしようもなく溢れ出した。

喉がたまらなく熱くて嗚咽をこぼしそうになる。

構わずわたしは言う。

「そうだよ、わたしのすきは、ものがたりとかおはなしとか! いまのわたしはそれがだいすきっ! だいすきだから、ずうっとだいすきでいたいんだ! おねえちゃんはーーううん、わたしはわたしのだいすきをいまもだいすきでいてくれるんだよね? だからありがとうのきんめだる! だいすきをだいすきでいてくれてありがとうのきんめだる!」

ぎゅ、っと小さな手が私の手を握った。

その中には小さな金色のメダル。

温もりの中で確かに私に渡された小さな金メダル。

ぷつん、と私の中で何かが切れてーーあるいは壊れて、私は泣きじゃくった。

子どものように泣きじゃくって、泣きじゃくって泣きじゃくって。

私は上手く言葉を発する事が出来なかった。

ーーごめんね。本当にごめんね。

そうだよね。

そんな当たり前の事、どうして私は忘れてしまっていたんだろうね。

私がこの歳になっても売れない自己満足の漫画を描き続けているのかなんて、考えなくても分かっていた事だよね。

ーーどうしようもなく、物語が好きだからだ。

ーーどうしようもなく、漫画が好きだからだ。

例えば伝説の竜を倒しに行くような冒険譚だったり。

例えば百年に一度深海に沈んだ神殿に導かれるような伝承だったり。

あるいはほのかな恋心に揺れ動く少女に起きた奇跡だったり。

私はそんな物語が、昔から大好きだったから。

大好きだから今もみっともなく自分の描きたいーー自分の好きな漫画を描き続けているんだよね。

「ありがとう……ありがとうね……」

私はわたしを力一杯抱きしめた。

大人になれなかったんじゃない。

私はきっと、いつの間にか大人になってしまっていたのだ。

どうしようもなく大人になって、いつしか純粋に己の夢と向き合う事が出来なくなってしまっていた。

彼女のように澄み切っていたはずの目はいつの間にか確かに濁ってしまっていた。

好きだから。

大好きだから。

私が漫画を描く理由なんて、それしかなかったはずなのに。

不意に、腕の中で抱きしめた幼女が言う。

「でもね、わたしもごめんね。わたしがまんがかになりたいなんておもわなければね、おとなのわたしはもっとわらっていたのかな」

「……そんな事ないよ、なんで……?」

「だって、ここにきてから、おとなのわたしはわらってないよ? かなしいんだよね? おこっちゃうぐらい、ないちゃうぐらいつらいんだよね? わたしのせいで、かなしいおもいをしてるんだよね? ごめんね……ごめんなさい……」

幼女は小さな身体を震えさせた。

私はきつく歯を食い縛った。

力の限りきつくきつく。口の中はじんわりと血の味がした。

不甲斐ない己が悔しくてたまらない。

悔しくて悔しくてーーーー己の頰を思い切り躊躇なく叩いた。

乾いた音が真っ白な空間に響いた。

「わたし!?」

わたしが驚いて顔を上げた。

その目はやはり潤んでいて赤く腫れぼったい。

「いってぇー……」

「えっ? えっ? なにしてるの!? ばんそうこう!? それともきゅうきゅうしゃ!?」

慌てふためくわたし。

私はその女の子の肩をきつく掴んだ。

「聞け、私。小さい私よ、聞くんだ」

「えっ……えっ……う、うん、はい!」

「金メダル、ありがとうね。確かにこれは貰った。貰ったから、はい」

言って、私はわたしに金メダルを差し出した。

「えっ? それはわたしがわたしにあげためだる……」

「そうだよ、だけど折り紙って金色は一枚しか入ってないでしょ。だから私が君にあげる金メダルは作れないから。折角作って貰ったんだけど、私もあなたに金メダルをあげたいから」

「どうして? なんでわたしにわたしがきんめだるをくれるの?」

「ありがとうの金メダルだよ」

「ありがとうの?」

「そう、ありがとうの金メダル。素敵な夢を持ってくれて、漫画家になりたいという夢を持ってくれて、ありがとうの金メダル」

「……つらくないの?」

「つらくないよ、全然つらくない。うん、そりゃまぁつらかったけど……今の私はもうつらくない。悲しくなんてない。あなたに金メダルを貰ったから。私は好きだから好きな漫画を描いてるって、あなたが思い出させてくれたから」

「……そっか!」

笑って私から金メダルを受け取るわたし。

その時、私は己の異変に気付いた。

私の両手が透けて向こう側の景色を映し出しているのだった。

夢の終わり。

夢から醒める時間。

でも、私はちっとも怖くなかった。

夢から醒めても、私は夢を見続ける。

幼い私が夢見た光景を私はそのまま見続けるのだから。

「もう、だいじょうぶ?」

「うん、大丈夫。私はわたしの大好きを、大好きなままでこれからもいられるよ」

「あは、ありがとう」

「あは、ありがとう」

私とわたしは最後にもう一度きつくハグをした。

その温もりは確かに私の中にある。

「ねぇ?」

「うん、何?」

「わたしは、わたしになりたいよ。わたしは、おおきくなってもわたしになりたい。わたしはわたしがだいすき」

「…………ずるいなあ、もう」

そうして世界は光に包まれた。

私のいた空間と同じ、眩い清らかな光だった。


ーーーーーー


ぱちり、と目が覚めた。

瞼と頭が鉄のように重かったけれど、意識はしっかりとしていた。

スローモーションのような速度で鉄塊と化した顔を上げる。

「……………………」

おそらく付けっ放しだったであろうテレビには、早朝のニュース番組が映し出されていた。

左上に小さく表示されていた時刻は6:30分。

「…………さみぃ」

同時に肌を刺すような冷気に身をぶるりと震わせた。

意識は覚醒しているのだが、私はぼんやりとテレビの画面を見つめていた。

音は聞こえて来るが、それが果たして言語なのかさえ分からない。

私が寝伏していたテーブルには散乱する空き缶。

どれくらいだろうそのままでいたのだろうか。

それは果たして分からなかったけれど。

私はふと見つけた。

散乱する空き缶やおつまみの空袋の片隅に、金色に輝くそれを見つけてしまった。

それは丸い形に折られていて、まるで金メダルのようだった。

(……あんにゃろー)

何故か私は笑っていた。

重い頭はそこでスッキリと晴れていた。


窓を開け離す。

一段と強い冷気がボロアパートの狭い室内に流れ込んだ。

「うひょーー」

炬燵なんて高級品がない私にとって、それはそれ寝起きの身体に丁度いい目覚ましだった。

寒さに弱い私がそこで窓を瞬時に閉めなかったのも、この6800円もしたセーターのお陰かもしれない。

それならばまず炬燵を買えよ、と言われるかもしれないが。

……たまには6800円のセーターも買ってみるんもんだな、と思った。

だって、そこで窓を閉めていたら私はきっとこの光景を見る事が出来なかった。

ーー朝日に燦爛と輝く一面の銀世界を、きっと見る事が出来なくて終わっていた。

「……やるじゃん、私」

きらり、と朝日が雪に反射して私を照らした。

眩しい。

それはあまりに眩しい。

思わず目を瞑ってしまいそうな程だった。

それでも私は目を閉じる事なく、その世界を焼き付けた。

ーー私の大好きを大好きでいられるのは私だけ。

それはこの輝く雪景色のような幼女が教えてくれた事。

スノーホワイトのように穢れのない瞳が私に伝えてくれた事。

思わず頰が緩んだ。

私を縛るものなんて何処にもない。

私を縛るものなんて、何処にも存在していなかったのだから。

「よっしゃ! 描くか、漫画!」

私が私の好きを好きでいられるのなら、私は何度だって立ち上がれる。

例えそれが流行りじゃなくても、例え大手出版社の連載に向いていなくても。

私はきっと私の好きを好きでいられる。

だってーー世界はこんなに眩しいのだから。

そうだな、次は何を描こうか。

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