豊さんの金魚鉢
アパートの2階。
私の左隣の部屋には豊さんが住んでいる。
年は30代ほど。170㎝ぐらいの身長で腰まである黒い髪に黒いロングワンピース。全身まっ黒な女の人。
目が合うと小さな声で「おはようございます」と言ってにやりと笑う。そんな人。
もう中学生になったんだから、ご近所さんに挨拶ぐらいしなさいとお母さんは言う。でも、豊さんにはしなくていいと言う。
豊さんは私にとって挨拶しなくてもいい隣に住んでいる人だった。
だったんだけど──
今、私は豊さんの部屋にいる。
目の前にはあわあわと薬箱をひっくり返す豊さん。
私は制服姿で両足を投げ出して座っている。
スカートから伸びる左膝には血がじんわりとにじんでいてじんじん痛い。
さっきのこと。
学校から帰って来てアパートのろうかを走っていたら思いっきりこけた。
音に驚いた豊さんが出て来て、私を見てもっと驚いた。
私の手を引いて自分の部屋に入れた。
そして、今である。
「あ、あの、どっちがいいですか?」
豊さんがおずおずと両手を差し出した。
右と左に一枚づつバウソウコウがのっていた。
右手は白ウサギで左手は黒猫。
見た瞬間、言ってしまった。
「かわいい……」
家にある茶色いバンソウコウと違って、それはとてもかわいらしかった。
悩みまくって黒猫を選ぶと、豊さんは「分かりました」と言って消毒液を手に取った。
ティッシュにつけて傷にポンポンとあててくれる。
それからペタリと黒猫のバンソウコウを貼ってくれた。
私の膝がかわいらしくなった。
「ありがとうございます」
お礼を言うと豊さんはにやりと笑った。
あ、なるほど、こう言う笑顔の人なんだと思った。
「これも、あげます」
豊さんはそう言って、私の手に選ばなかったウサギのバンソウコウを握らせた。
びっくりして、うれしくて。
ふと部屋の中を見ると窓際に金魚鉢が置いてあるのが見えた。
縁が青色の金魚鉢。透明できれいな水が入ったそれは何も入っていなかった。
「何か飼わないんですか?」
金魚鉢を指差してそう言うと豊さんは言った。
「金魚鉢を飼っています」
金魚鉢を飼っている。
とてもおかしな言葉だけれど、なんだかしっくりきた。
ピカピカにみがかれたガラス。透き通った水。それは大切にされた金魚鉢だった。
うん、そうか、わかりました。
私は豊さんに向かって頭を下げた。
「おはようございます」
豊さんはふしぎそうに首を傾げて「おはようございます」とにやりと笑った。
豊さんと仲良くなりたいと思った。