遠雷
莉子は遠雷の音で目が覚めた。
ベッドから下りると一緒に寝ていた猫も目を覚ました。
足元に擦り寄ってくる猫を撫でつつ、廊下をペタペタと歩く。
ガス台のスイッチを押すと微量の光がリビングを照らす。
冷蔵庫に行き、取り出した麦茶をグラスに注ぐ。
誰もいないリビングは静かで広い。
グラスをシンクに置くと、深い闇に包まれているような居心地の良さを感じる。
雷の光だけが明滅をして、音が聞こえない。
カーテンを開け、外を見ると、マンションの二階に点灯した灯りを見つけた。
私たちはなぜあの灯りのひとつになれなかったのだろう。
ひとつひとつ思い返してみる。
結婚三年目のお祝いをしようと言われて来たのは、ショッピングモールだった。
去年までは海辺の小さな景色のいいレストランを予約してくれていた。
毎日、真夜中に帰ってくる夫。顔を合わせるのは朝だけになっている日々。仕事の多さを考えると仕方がない気がしている。
繋いでいた手をいきなり振りほどかれた。
悠成の顔を見ると、その視線の先にいる女性に注がれている。
すぐに踵を返し、去っていく女性を見ていた。
ダブルベッドにシングルベッドを買い足した意味。
携帯の光がまぶしくて目を覚ますと、悠成は横になりながらも画面を見ていた。
携帯に飛んでくる通知の多さ。首から下げたネックストラップを寝ているときも外さない。
一年間の間に指輪が永遠を意味しなくなっていたことに気がついた。
雨樋がひっきりなしに音を立てる。クーラーがなくても過ごせる。
いつの間にか近づいていた雷が空を白く明るく照らす。
床に寝転がると、猫も隣に来て座り、深い緑色の瞳を閉じる。
左手の薬指には、結婚式の日に交換したリング。小さなダイヤモンドがあしらってあり『from yusei』の文字が裏側に刻まれている。
指輪を外すと、床に転がした。
こんな風に『from riko』の文字が刻まれた指輪が転がっていた。
おざなりになってしまったことに対して、怒ればよかったのか泣けばよかったのか。
あの日の私は笑っていた。
忘れないでと言いながら、胸を刺す思いを上手に隠す。
結婚記念日にもらった赤いバラの花はもう枯れてしまった。
台所の引き出しに隠した離婚届を取り出す。少ししわになっているが受理はされるだろう。空欄を埋めるように名前を書く。
これで夜中の携帯のあかりを見なくて済む。
お互いに背を向けて眠らない日々は、どんなに安らかな時間をもたらすだろう。
枕を濡らした夜は今日限りになる。
手が震えて名前が歪む。
印鑑を押す頃には、雷と雨は止んでいた。
ポツポツと離婚届の紙が音を立てる。
室内なのに雨が降る。心の中の雷が鳴りやまない。
せっかく書いた文字がにじむ。
何もかもぐしゃりと握りつぶしてしまいたい。
猫がテーブルに乗ってきて、涙を吸い取るように舐める。ムギの頭を撫でると嬉しそうに目を細める。
キャリーバッグを用意して、ムギを中に入れる。用意しておいた旅行用バッグはひとつだけ。
最後に彼に贈る言葉はこれだけでいい。
「さようなら」
ドアを開けて閉めた先に自由と青い朝が待っている。
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