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四季に猫  作者: 雪野梅
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春に猫

 四畳半の北向き風呂無しトイレ共同木造アパート二階。大家は腰の曲がったお婆さん。隣や下の部屋は誰が住んでるかは知らないが、時たまギターの音がする。そんな小生の素晴らしき我が家に何度目かの春が来た。

 比喩ではなく、季節の話だ。

 いつの間にか住み着いた三毛猫は、大家さんに媚を売り、定住の許可まで得ていた上に、定期的に餌までもらう。こやつ、出来る猫である。

 そんな猫が帰ってくるのを待ちながら、今日も今日とて文字を紡ぐ。


「お前さん、どこでそんなに花びらつけてくるんだい?」


 窓から帰ってきた猫はにゃあと鳴く。体につけた桜の花びらをブルリと体を振って、せんべい布団の上に落とすと、そのままおやつの入ったプラスチックケースにカリカリと爪を立てた。


「帰ってきてすぐご飯かい? まったく、大家さんのところでももらってるんだろう。あっという間にデブ猫になってしまうよ」


 などと言いながらも小生の手はペンから離れプラスチックケースの蓋を開けていた。


「ありゃ、ひとつもない。朝晩のカリカリ以外なくなってた。こりゃ買いにいかねばならんよ」


 チュールの入っていた空袋を振ってやれば、猫はガブリと小生の足を噛んだ。甘噛みではない、怒りに任せた本気の噛みだ。この猫は人語をきっと理解しているのだろう。でなければこんなに噛まないはずだ。

 あまりの痛さに情けない声が出てしまう。それに驚いたのか、痛さに振り払った手に驚いたのか、猫はサッと口を離し距離をとる。


「お前さん、すごく血が出たよ。これじゃあ、お前さんのおやつを買いに行けないけれど、どうするんだい?」


 そう言えば、バツが悪そうにこちらに尻を向け尻尾だけで返事をする。ぱたんぱたんと三毛色の鍵尻尾がまるで、ごめん、というように何度も

足に触れながら揺れる。

 滲み出てくる血をティッシュペーパーで拭きながら台所のシンクで暫く流してから、また綺麗なティッシュで拭き取る。絆創膏の箱は空っぽで、ついでにこれも買わないと、とじんわり血の滲んだ手を振った。

 長押しにかけられた上着を取り、靴下を履いてから財布と鍵しか入っていない鞄を肩からかけた。頭はボサボサ、眼鏡は曇っているがいつものことなので気にする必要は何もない。

 最後に窓を閉めてから猫に声をかけた。


「小生のご飯も買いに行くから出てくるよ。お前さんはどうしたい? 家にいるかい? また散歩に行くのかい?」


 猫はちらりと一度こちらを見てからぱしん、と尻尾を畳に叩きつけると立ち上がり、先に玄関の前まで歩いて行く。早く開けろと言わんばかりににゃあと鳴いた。

 はいはい、といささか薄い玄関ドアを開けてやれば、部屋の中では感じなかった春の空気がぶわりと体を包んだ。柔らかい日差しに、花を揺らす風。いつのまにか春は隣にいたようだ。


「ゴミ捨てと夕方から夜の買い物しか行かないから気づかなかったよ。お前さんはいつもこんなに気持ちのいい陽の中を歩いていたのかい?」


 まだアパートの玄関を出て鍵を閉めただけだというのに春めかしい陽気にそわそわしていると、猫は何言ってんだ、というように階段を降りて行く。慌てて後を追いかけるとアパートの敷地ギリギリに生えた桜が誘うように花を散らした。


「川向こうのスーパーに行くけど、お前さんは塀の上で……って先に行かないでおくれよ。まったく、本当に人語がわかるんじゃないのかな」


 トトトトト、と足音がしていたらそう聞こえるかもしれない。猫は機嫌良く尾を上げて前を歩く。折れ曲がった鍵尻尾がふわりと揺れた。

 車の多い道も、人の多い道も猫は小生の前を淀みなく歩く。横断歩道だって色がちゃんと識別できているように安全を確認してから青信号で渡るのだ。小さな子供から、あの猫ちゃんおりこうさんね! などの声を聞きながらスーパーの敷地に入った。


「お前さん、お店には入れないからこの辺りで待ってておくれ。車に気をつけるんだよ」


 猫はにゃあと鳴いた。

 その声を聞いてからカゴを持ってスーパーへと入った。まずは自分のご飯。夕飯の分もどうにかしないといけない。葉物が高く手が出しにくいなぁ、など考え、手に取るのはやはり、もやしに豆腐。惣菜エリアを見ないように見切り品のカゴからいくつか取ってペットコーナーへ。

 本当ならもう二駅先のホームセンターに行きたいところだが、猫が店の前で待っているのだから仕方ない。手早くちゅーるの大袋を取って会計へ向かった。

 運良く空いていたレジで支払いを済ませ、エコバッグに物を詰める。前までレジ袋を使っていたが、猫餌の袋で破けることが増えて三百円で買った袋だ。意外に便利であると思う。

 気合を入れて肩から下げて店を出ると、猫は子供たちのアイドルをしていた。

 コロンコロンと転がり、にゃあと鳴いて撫でられていた。見ていてもいいのだが、親御さんも動かない子供に困るだろう。


「お前さん、終わったよ」


 猫は耳をピンと立てるとにゃあと鳴く。子供たちの隙間をすり抜け、トンっと地面を蹴り上げ小生の肩にうまく乗った。三キロ以上ある猫を肩に乗せるのは少々辛いが、甘えてくる姿は可愛らしく踏ん張ってしまう。


「帰ろうか。っあいた!」


 帰ろうと向きを変えるとガブリと耳を噛まれた。何事かと思えば猫はにゃあと鳴く。


「寄り道かい? まったく、どこに行きたいんだか」


 噛まれた耳をさすりながら、猫を肩から下ろすと、また、トトトトトと足音を立てんばかりに進む。ゆらりゆらりと揺れる尾を見つめながら着いていけば、家へ向かう道。気が変わったのか? と思いながらも何度も振り返る猫に合わせて後をついていった。


「おっと、ここで真っ直ぐか。帰るのかと思ったよ」


 猫はにゃあと鳴いた。川を渡ってすぐの道を曲がれば家へ、真っ直ぐ進めば昔ながらの小さな商店街。

 猫は、ほぼほぼ錆びたシャッターが降りている寂れた通りを抜けてさらに奥を目指しているようだった。

 歩調を合わせてくれているのか、少し離れればこちらを振り向き待ってくれる。決して駆け出したりはしない。春の陽気に汗をかき、息が少しだけ上がってきたぐらいに猫は止まった。


「お前さん、どこまでいくんだい。まさか、この藪の中を通ろうって言うんじゃないよね」


 猫はにゃあと鳴いて、少し坂になっている藪の入り口にするりと入ってしまう。人が通ろうにも、子供ならば通れるが大人となると辛いのではないかと思うほどの藪。鬱蒼と茂り、小さな羽虫が飛んでいるのが見えた。

 どこにいるのか猫はにゃあにゃあと鳴き、早く来いと伝えてくる。

 幸い人通りはない。意を決して藪の中に足を突っ込んだ。

 バキバキと小枝が折れ、落ち葉が割れる。湿り気のある土が足元を安定させてくれない中を、猫の姿と声を追いかけ、なだらかだが登るのに苦労する獣道を肩で息をしつつ足を進めていく。

 靴はもう泥まみれて、上着は枯れ葉が絡みついていた。岩の上で猫は小生が登ってくるのを待っている。ふわんふわん揺れる尾がまだかと言っているようだった。


「お前さん、なんで、こんな、険しいっ……道を」


 そうかなぁ、と言わんばかりに猫はにゃあと鳴く。

 猫の待つ岩まで辿り着くとまた、ピョンと飛び降り先を進んでいく。それを何度か繰り返すと、ようやく平たい道に出た。


「おや、驚きました。猫の道から人が出てくるとは」

「は?」


 身体中についた枯れ葉を落としていると、法衣に袈裟を纏ったお坊さんが仏顔というのだろうか、笑みをたたえながら箒を動かしていた。


「あ、え? なんかすみません?」

「いえいえ、大丈夫ですよ。それよりも枯れ葉がついています。怪我などはありませんか」

「それは大丈夫です」

「ならばよかった。猫がよくあそこから出てくるのですが、人が出てきたのは初めてですね。お次は参道からいらっしゃるといいですよ」


 そうお坊さんが指差した方を見れば、綺麗に石畳を敷いた参道が広がっていた。お前さん! と声をかければ猫は顔を洗ってにゃあと鳴いた。


「ああ、あなたはあの三毛猫の飼い主さんですか。利口な子で、他の猫たちが悪さをしたりすると諌めてくれるのですよ」

「ええ、あの猫がそんな……」


 ちらりと見れば、さっさと来いと言わんばかりに猫は大きくにゃあと鳴く。にゃあにゃあと鳴く声にどこからか別の猫が顔を覗かせるほどだ。


「お呼びのようですね」

「すみません、前、失礼します」

「はい、大丈夫ですよ。この先に大きな桜もありますから猫さんとの散歩を楽しんでください」

「ありがとうございます!」


 お坊さんの前を走り抜けて猫のそばまで行くと、にゃあと鳴かれた。そのまま石畳をトコトコと進めば柵に囲われた大きな桜が見えた。全ての枝に花をつけ、春の風に揺れるその前で猫は止まった。


「綺麗だねえ。結構この街に住んでいたけど、これは知らなかった。お前さん、もしかしてこれを見せるために案内をしてくれたのかい?」


 桜の花がふわりふわりと宙を舞う。それに合わせて猫の尾もふわりふわりと揺れた。

 よくよく見れば山肌や街中も桜色に彩られているのが見える。猫の頭や体についた花びらで春を知った気になっていたが、もう春なのだ。


「お前さん、ありがとうね。そういえば春なのに出歩かないなんてもったいなかったよ」


 足元を歩く猫は満足げに擦り寄り、一つ頭をゴツンと脛に当てた。


「でもね、参道があるのを知っていたろう」


 猫はにゃあと鳴いた。


『吾輩は猫である。名前はないが、猫ちゃんやらにゃんこさんやら呼ばれるが、いっとう心地いいのはやはりこのうだつの上がらぬ青年が呼ぶ、お前さんであろう。何しろこやつはちゅーるをくれる。あれほど美味いものは猫生で初めてなのだから。それはさておき、この男、まったくもって外を歩かぬ。吾輩のちゅーると自身の飯意外に出るのは数件先の銭湯だけなのだ。こように春の日差しが気持ちいいというのに、愚かなり。なので吾輩は共に外に出るように仕向けてやったのだ。ちゅーるがないことに少々怒ってはいるが、共に出られたのは万々歳ではある。だがしかし、まさかこんなにひ弱だと思わず、吾輩の通り道を教えてやれば泥まみれの落ち葉まみれ。次からは整えられた冷たい道を歩かせてやろうと、ほんの少しだけ心の隅に記憶しておいた。いやはや、今日も楽しいかな』


 

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