86. 友人作家の死
最近ちっとも姿を見せない友人のことがいい加減気になり、家まで訪ねて行った。家といっても彼の住まいは木造アパートの二階なのだが。何しろ変わり者で友人は殆ど私一人というような男だ。万年床の上でひっそり亡くなっていることもあり得るかもしれないと思ったのだ。
私の心配をよそに、彼は存外元気そうだった。アパートのドアを開けたらすぐ目に入る六畳の書斎兼寝室兼リビングに敷きっぱなしの布団の上に胡坐をかいて私を迎えた。
「なんだ、ぴんぴんしているな。長らくメールに返信もないから、こっちは、もしやと思うじゃないか」
私が非難がましく言うと、彼は私の手土産のおはぎ(もちろん、和菓子屋で買ったものだ)を頬張りながら、「まあ、健康上は何も問題ないよ」と言った。
話を聞いてみると、こういうことだった。売れない小説家の彼は、最近酷いスランプに陥り、原稿が一枚も進まない。元々どちらが本業かわからぬ副業で主に生計を立てている兼業作家である。書けなくなったからといってさほど困ることもなく、本人もそのうち何か思いつくさとはじめは高を括っていた。しかし
「もう半年以上経つが、少しのアイデアも浮かばないんだ。僕はそんな芸術家志向の作家ではない。大衆作家だ。金のためなら今時の流行りに合わせた軽薄極まりない小説だって書くし、エログロだって厭わない。なのに、書けないんだ」
彼は二十代でそれ程メジャーではない新人賞を受賞し、それから二十年。売れたことはないが、廃業を考えることもなく、不定期的に作品を世に送り出してきた。その間、一時的にアイデアが枯渇することは何度もあったが、好きな本や漫画を読んで、映画でも観て、美術展に通うなどすれば、干上がった井戸に水が染み出てくるが如く創作意欲がわいてきたのに、今回は何をやっても、二度と書けないような気がする、と彼は笑った。
そう、彼は笑った。
狂気が宿っていたとか虚ろな目に既に死の影が見えたとかそんなことは微塵もなく、ただおはぎを頬張りながら、微笑んだ。
それほど深刻な状況にあるとは思えなかったものの、さりとてそのうち書けるようになるさなどという無責任なおためごかしを口にする気にもなれず、スランプの原因に心当たりはあるのか、と訊いてみた。彼は、恐らく彼自身も自分に問うてみたのだろう、案外すんなりと答えた。
「多分、人を殺したからではないかと思う」
だが、それは夢の中での話だ、と彼はすぐに付け足した。彼の夢というのは、こうだった。
彼は急な木造階段を上りきったところに立っている。その階段は、彼が子供の頃に両親と住んでいた古い借家のそれだ。二階には彼の子供部屋があった。だが、階段の一番上に立って見下ろしている彼は、大人である。それ故、視点は実際に住んでいた子供の時分より高い。
彼は、階段を上りきった一番高い位置から、頭を下にして落ちていく男を見降ろしている。その男は、彼が蹴落としたのだった。
音もなく落下していく男を見下ろしながら、あのように頭を下にして階段を転げ落ちたら、確実に首の骨を折って死ぬだろうと彼は考え、下っ腹が冷や冷やする感覚を味わうが、男を死に至らしめることになった自らの行為には微塵の後悔もなかった。
「で、その男は死んだんだな。君の夢の中で」
「いや、階段の一番下に居た人が、うまい具合に彼の頭を受け止めてくれたので、死ななかった」
では殺していないではないか、と私は指摘したが、彼は首を振りながら、男は静かな怒りを秘めた面持ちで上に立つ彼を睨みつけながら、階段を上って来たので、ああ、この男に殺される、と夢の中で確信したのだ、と言った。
「で、君は殺されたのか?」
「いや、男が階段の真ん中辺まで来たところで目が覚めた」
ならば、彼は誰も殺していないし、殺されてもいない。しかも、それは夢の中でのできごとだ。
私からの追及を受け、彼は「それはそうなんだが」と少し困惑したような笑みを浮かべたまま言う。
「でも、殺してしまった、と目が覚めた瞬間に思ったんだ。それとほぼ同時に、ああ、僕は殺されたんだなって」
そしてその夢を見て以来、書けなくなった、と。全く要領を得ないが、まあ夢に整合性を求める方が間違いだろう。その夢を見たのは一度きり、男の顔には全く見覚えがないという。わけのわからない不穏な夢を見て、何か隠された意味でもあるのかとずっと心にひっかかっており、それを創作意欲が突然消滅したことの理由にこじつけている、冷静に分析すれば、そういうことになろう。
結局、まあそのうち書けるようになるから、今のうちにせいぜい副業に精を出しておけばいいさ、というありきたりな慰めをして、私は彼の住まいを後にした。
彼がアパートのドアノブにシーツを括りつけ首を吊ったのは、それから三ヶ月後のことである。




