52. 屍彼女
【あらすじ】シゲルは従順で可愛い彼女の外出を禁止していたが、彼女は言いつけを破って出かけてしまう。マンションの外では、ありとあらゆる災難が彼女に降りかかり、命の危険に晒されるのだった。
たまには二人で外出したいという彼女を、シゲルはいつもの調子でなだめすかした。正直、またかとうんざりしていた。可愛いオトネは彼の言うことなら大抵笑顔で受け入れるのに、最近はなにかと反抗的だ。それというのも、彼が彼女の外出を禁止して久しいからで、二人で暮らすマンションに閉じこもっていることが、そろそろ限界に達しつつあるらしい。
「久しぶりに、二人でレストランに行きたいの。映画だって観たいし。ショッピングも」
彼女があまりにもしつこく言い張るので、シゲルは仕方なくオトネの頬を張り倒した。
「駄目だって言ってるだろう。お前、俺の言うことは何でもきくと誓ったじゃないか」
オトネは涙に濡れた瞳で彼を見上げ、ごめんなさいと呟いてしくしく泣き出した。シゲルは罪悪感に駆られ、部屋の隅にうずくまるオトネの横に腰かけ、彼女の髪を撫でた。
「頼むから、わかってくれよ。君は外に出ちゃいけないんだ。もの凄く危険だからね。君に何かあったら、俺は一人になってしまうんだよ。そうしたら、寂しいからすぐに他の女の子を見つけるだろうな。それでもいいのかい?」
彼の胸に顔を埋め、彼女は二度と我儘を言わないと誓った。彼は彼女を楽々と抱き上げると、寝室に連れて行った。
シゲルが目を覚ますと、ゴーグルがずれて外れかかっていた。不健康に突き出た腹が目に入り、彼は慌ててヘッドセットを装着し直した。視界が、理想的ガールフレンド、オトネのお陰でいつも清潔に保たれているマンションの寝室に切り替わる。あれだけ疲れさせて、すっかり満足して眠っていたのに、ベッドはもぬけの空だった。彼は舌打ちをして部屋の隅に落ちていたパンツを拾い上げて履く――割れた腹筋と鍛えられた長い脚に戻っている――と、オトネが居ることを願って居間に移動した。
喉が渇いたのでコンビニまで。すぐ戻ります。心配しないで。
テーブルの上に、彼女の字でメモが残されていた。
なんてことだ。
シゲルは血相を変えて、大慌てでズボンとシャツを身に着け、マンションの外へ出た。幸い、夕暮れ時だが日が沈むまでにはまだ少し時間があった。
オトネが向かったと思われるコンビニは、マンションからほんの数百メートル、徒歩五分もかからない所にある。しかし、駆け足でそこへ向かう途中、工事現場から落下した鉄骨が歩道に散乱しており、その少し先では、民家の塀に激突しフロント部分を大破させた車が黒煙を上げていた。目当てのコンビニの塀の暗がりに、トレンチコートの襟を立てて顔を隠すようにして立っているのは、疑いようもなく殺し屋だ。
だから危険だと言ったのに!
シゲルはコンビニからレジ袋を下げて出てきて、驚きと罪悪感のこもった目で彼を見つめるオトネを抱きしめた。
「ごめんなさい。あなたはまだ寝ていると思って」
「いいよ、君が無事だったんだから。さあ、早く帰ろう。もうすぐ夜だ」
ナイフを振りかざし襲ってきた殺し屋を長い脚で蹴り飛ばし、シゲルは用心深く周囲を見回してから「走れ!」と叫んだ。
轟音を立てて突っ込んできたダンプカーがコンビニに突っ込んだのを尻目に、彼はオトネの手を引いて走った。先に民家に突っ込んでいた車から立ち上る煙が一層ひどくなっていたので、シゲルは咄嗟に道路の反対側の細い路地に入り、オトネを抱きしめた。この世界のシゲルは身長百八十七センチ、オトネとは頭一つ分ほどの身長差がある。
どん!
というでかい音と共に、事故車が爆発し、爆風が通過していくのが感じられた。シゲルの腕から抜け出したオトネは、悲鳴を上げた。
「背中に破片が!」
HPが急激に減ったことが感じられたが、シゲルは「平気だよ」と言って、またオトネの手を取り、激しく炎上している事故車から降り注ぐ火の粉を避けながら先を急いだ。工事現場からは、ちぎれた先から火花をまき散らすコードが何本もぶら下がり、生き物のように蠢いていた。
「くそっ」
シゲルは背中が破れ血が付いたシャツを脱いで片手に巻き付けると、反対の手でオトネの肩を抱き、襲いかかるコードを振り払いながら、どうにかマンションの前にたどり着いた。エントランスのオートロックを解除しようとして、手が震えて力が入らないために何度か心配し悪態をついたシゲルは、オトネに頼もうと振り向いた。
オトネはコンビニのレジ袋から取り出した、ミニ大福(五個入り)の最後の一つを口の中に放り込むところだった。先に入れた四個もまだ口の中に残っているため、リスのように両の頬を膨らませ、目を白黒させている。
「オトネ!」
喉に詰まらせたのだと気付き、シゲルは餅を吐かせようとした。しかし、粘着性のある餅と餡子が混ざり合ったものがオトネの口の中に張り付いて出て来ない。
オトネが白目を剥いて倒れた。シゲルは彼女の体を抱き止めようとしたが、力が弱っているせいで彼女の華奢な体は彼の腕をすり抜けた。
いつの間にか彼らに忍び寄っていた黒い影が、オトネの腕を乱暴に掴んで彼から奪い取った。逃げていく影とオトネをシゲルは恐怖の目で見送った。いつの間にか、太陽の残りの僅かなオレンジの光がほぼ消え去っていた。
もう手遅れだ。
彼はどうにかオートロックを解除し、自分の部屋に戻った。
リビングのローテーブルの上に、オトネのメモが残っていた。
喉が渇いたのでコンビニまで。すぐ戻ります。心配しないで。
だからあれだけ外に出るなと。しかしもう後の祭りだった。彼はがっくりとソファに座り込み、両手に顔を埋めた。
どれくらいの時間が経過したのか。気が付くと、かさこそという耳ざわりな音がしていた。玄関の方だ。時計を見ると、もう完全に夜だ。カチリ、という音と共に、ドアが軋んで開く音。がちゃん、とチェーンに阻まれ、悪態をつく声。オトネの声だ。
「シゲル、あたしよ。ドアを開けて」
ぞっとするような猫なで声。少し前まではオトネだったものの声。彼はできるだけ平静を装って、寝室へ行き、それから玄関へ向かった。
薄く開いたドアの隙間から細い腕が伸びて、チェーンを外そうともがいていた。ゲームを始めて百八十六日、彼女は最愛の恋人だった。彼がそのように設定し、二人の関係を築いてきたのだ。童顔で華奢だが脱ぐと豊満で、恥ずかしいと言いながら彼の要望はなんでも叶えてくれる、現実の世界には絶対に存在しない理想的な彼女。
リビングデッド・ハニー(Living-Dead Honey)、通称屍彼女は、VR恋愛ゲームである。プレイヤーの好みによってカスタマイズされた「恋人」との恋愛を楽しんでいると、ある日恋人が死にゾンビになってしまう。変わり果てた恋人を受け入れるのか、それとも恋人の魂の安息を求めてゾンビハンターとなるのか、プレイヤーの好みで選択できる。とにかく、恋人がゾンビ化してからがこのゲームの真骨頂だと開発者は考えており、一定のラブラブな期間が過ぎると、車に轢かれたり風呂で溺れたり、恋人は様々な理由で命を落とすように設計されている。しかし、プレイヤーの中には、シゲルのようにゾンビになる前の恋人にぞっこん惚れこんでしまい、彼女のゾンビ化をなんとしても阻止してゲームを継続させようとする者が少なくない。これまでの最高ゾンビ化阻止記録は、三年と少々で、シゲルはその記録を塗り替える気満々だったのだが……
まさか、餅をのどに詰まらせるとは
とりあえず、愛の巣から外に出なければ、彼女が死ぬきっかけは劇的に減る、と聞いていたため、シゲルは時に暴力に訴えてでも、オトネを監禁状態にしていたのだ。
「シゲル、シゲルね? 早く開けて。ゾンビに追われてるのよ……」
日没後はゾンビが跋扈する時間である。ゾンビに噛まれれば、恋人だけでなくプレイヤー自身もゾンビになってしまうため、最も危険な時間帯だ。ゾンビの動作は生きていた頃より遅く、知能も低くなる。そのため、恋人がゾンビになった場合は、彼女に噛みつかれないように専用のマスクを購入し装着させれば、今後も生活を共にしていくことが可能だ。
彼はゆっくりと、チェーンを外した。
「信じてたわ、シゲル。私がどんなになっても愛してくれるって」
ゆっくりとした動きで、オトネが中に入って来た。ワンピースの前が破れて、片方の乳房が剥き出しになっていた。髪に泥がついてよごれていたが、皮膚が青白く生気を失っていても、まだ美しかった。スカートの下から、垂れ下がった腸の端が覗いているとしても。
ギクシャクとした動きで、オトネは後ずさるシゲルに追いつくと、背の高い彼の首に腕を巻き付け、顔を引き寄せた。
「私のこと、愛してるでしょ?」
オトネが背伸びをして、血の気を失った唇がシゲル目の前に迫って来た。口の端に干からびかけた餅がくっついていた。
「いいや」
シゲルは後ろ手に隠し持っていた銃でオトネの額の真ん中を打ち抜いた。そして、
「ターミネーション!」
と叫んだ。彼の目の前に、赤と青のボタンがついた小さな箱が現れた。赤いボタンにはYのマーク、青にはNのマークがついている。
「オトネ、ヲ、ターミネーション、シマス、カ?」
どこからともなく機械的な音声が響いた。脳を吹き飛ばされ後ろに倒れたオトネが、ゆっくりとした動作で起き上がろうとしていた。
シゲルは、赤いボタンを押した。その途端、オトネの体が糸の切れた人形のように、くたくたと床に崩れ落ちて動かなくなった。
GAME OVER
という文字が視界一杯に広がった。シゲルはゴーグルを外し、散らかりきった部屋の中を見回した。明日はバイトに行かなければならない。そうしないと、ゾンビの噛みつき防止マスクに課金する金すらない。いっそのこと、自分もゾンビになって恋愛を続けるという手もあったが、徐々に腐っていく恋人と自分の姿を見たいとは思えなかった。
また明日から新しい恋人を作って関係を築いていかなければならないのかと思うと、甚だ面倒だった。バイト代で普通の恋愛ゲームを買った方がいいかもしれない、とシゲルは思った。




