1話・無職のプーさん、女子高生と出会う
俺んちの狭い台所に立ち、慣れた手つきで包丁を使って食材を切り分けていく彼女。その小さな背中を見ていたら、吸い寄せられるように足が前に出た。
「ねえ、フライパンどこ?」
背を向けたままの彼女に声を掛けられ、身体が固まる。でも、一度進み出したら止まらない。
ゴトン、と包丁がまな板に落ちた音がした。
彼女が僅かに強張ったのが分かる。両腕を回して抱きつけば、見た目より遥かに華奢な、女の子特有の柔らかな感触と甘い匂いに混乱して何も考えられなくなった。
あれ、俺、どうしたんだっけ。
なんでミノリちゃんに抱き付いてるんだっけ。
***
彼女と初めて会ったのは、遊び仲間のショウゴに呼ばれて行った先。アイツの新しい女友達の家だった。その女友達の妹の友達が彼女、ミノリちゃん。たまたま居合わせて少しだけ話した。たったそれだけの仲。
ところが、思わぬところで再会した。
「……あの、大丈夫ですか」
「ぜんぜん大丈夫じゃない」
セミの鳴き声がやかましい七月上旬。
炎天下の中、ブロック塀が作る僅かな日陰に逃げ込んで蹲る。強い日射しと暑さに弱り切った俺を見兼ね、通りすがりに声を掛けてくれたのだ。
「良かったら使ってください」
「あ、ありがとう……」
彼女は肩に掛けていたスクールバッグを探り、中から折り畳み傘を取り出して広げてくれた。折り畳み傘が生み出す日陰が砂漠のオアシスのように思えた。何とか立ち上がり、地べたに置いてあった買い物袋を拾い、日傘代わりの折り畳み傘を手に並んで歩く。
「ごめんね、助かったよ〜」
「いえ、気にしないでください」
「曇りだと思って油断してた。買い物終わって外に出たら晴れてるんだもん。途中で力尽きちゃった」
「今日は特に暑いですもんね」
他愛ない話をしていたら家に着いた。
「少し寄ってかない? ジュースあるよ〜」
「え、でも」
「お礼もしないで帰せないもん。ねっ?」
「……じゃあ、少しだけ」
躊躇う彼女を半ば強引に家の中に引っ張り込む。
下心はない。というか、ダウンしたばかりでそんな元気はない。純粋にお礼が目的だ。今を逃せば一対一で会えない気がしたから。
一階は散らかっているので、二階の俺の部屋に通した。ここは本棚とローテーブルしかない。雑然とした我が家の中で一番片付いている部屋だ。
「ね、俺のこと覚えてる?」
上着を脱ぎながら話し掛けると、彼女はニコッと笑いながら頷いた。
「先週リエの家に居た人ですよね」
「覚えててくれたんだ!」
「そんな明るい金髪、他にいないので」
確かに、あの場に居た金髪は俺だけだ。この辺りではまず見ない、薄〜い金色をしている。
リエというのは彼女の友達で、リエの姉であるマリが俺の遊び仲間ショウゴの女友達。つい先日その繋がりで知り合ったばかり。もっとも、先週は顔を合わせただけで自己紹介すらしていない。
「私、能登ミノリって言います」
「ミノリちゃんね。君みたいな礼儀正しい子がマリちゃんの知り合いとはね〜」
ローテーブルの向かいに座る彼女を見た。
近くの高校の制服であるセーラー服に膝丈のスカート。長い黒髪は縛らずそのまま下ろしている。顔立ちは可愛いけど、全体的に飾り気のない地味な子だ。マリは割と派手めな子で、その妹のリエも姉に倣い、肩までの髪を茶色に染めている。傍目から見て、彼女とマリ達との共通点はない。
「リエとは小学校に上がる前からの友達なんです。マリさんは私のお姉ちゃんと同級生で」
「なるほど、幼馴染みか」
「それで、ええと、その」
彼女はこちらをチラチラ見ながら首を傾げている。なんだか気まずそうだ。どうしたんだろう。
あ、俺まだ名乗ってなかった。
「そうそう、俺は──」
「思い出した。確か『プーさん』て呼ばれてましたよね」
「えっ? ……ああ、うん」
それは俺のアダ名だ。
「プーさんは今日お仕事休みなんですか?」
「ウッ……」
平日の昼間からウロウロしているところを見られたのだ。彼女が疑問に思うのは当たり前。
「……無職だから『プーさん』て呼ばれてんだよね」
「あ、ごめんなさい」
心底申し訳なさそうに謝られた。
いいんだ、ホントのことだから。