見下す私を見下す私
見下すと見下す。
同じ文字なのに、その響きと意味は全く違う。
子供の頃、覚めた子だねと近所の人からはよく言われた。子供の時の私は社交性というものを知らず、馬鹿なものは馬鹿だなぁと、馬鹿はうつるから近寄らなかった。おママごとに誘われても、私はそれをキッパリ断って、あまつさえ「なんでそんな意味のないことをするの?」なんて言ってたりした記憶もある。
今思えば、好感度最悪の人間だな。私は橋の上から見えるビルや住宅街、流れていく車を見て笑った。そしてこんな奴に友達がいっぱいいるなんて、この世界はどうかしている。私は再び笑った。
『チエちゃんは頭が良くて、すっごく聞き上手なんだよ』
友達Aの声が脳裏に響く。友達の名前は、顔を見るまで思い出せない。顔と名前ばっかりを関連付けて、友達の中身なんかは客観的な事実としてしか見ていないからそうなる。友達Aの特徴は。箇条書きのようにして特徴が羅列されていく。興味のない事と必要のない事にはにはまるで記憶力の働かない、私の頭はとうの昔に堕落した。
私が聞き上手なんかじゃないことを見抜けた人は、これまでも、そしてこれからも現れないだろう。
本当の聞き上手というものは相手の話を親身になって聞き、心から共感、あるいは感情移入して、相手が話しやすい状況を整えて、そして適切な相槌を打てる人のことを指す。私はそれを本で知って、それを猿真似しているに過ぎない。親身になって聞いてなんていないし、相談を持ちかけてくる相手をどうにか救ってやる気もない。ただ相談されたから相談に乗るだけ、それ以外は何もなかった。そうしていた方が、この世界ではずっと生きやすい。
そんな幼稚園生が小学生でも通用するわけがなく、私は早々にいじめの対象になった。読んでいる本を隠されたり、上履きの中に紙を詰められたり、陰湿ないじめが長く続いた。
当時の感情がどうだったかはあまり覚えていない。でも、恐らく泣いてなんかいなかったし、何も感じていなかったと思う。「どうしてこんな無駄なことに労力を割けるのだろうか」という感想しか出て来なかった。いじめをもろともせずに受け続ける私にだんだんと興味を失ったのか、あるいは自分たちとは違う異物として怖がり始めたのか、私に対するいじめは少なくなっていった。
お前は何か変だ。
机の引き出し中にぐしゃぐしゃに丸めた紙を詰め込むいじめ、ほとんどの紙には罵詈雑言が書かれてあったが、その中の一つだけは違った。
お前は何か変だ。
これが私の受けた最後のいじめ。そしてこの言葉は、今も私に重くのしかかっている。
『チエちゃんは誰とでも仲がいいよね』
友達Bの声がふと頭をよぎる。少し冷たく強い風が吹いて、長い髪がぶわっととたなびいた。友達Bの名前は、もちろん顔を見るまで思い出せない。
小学生で陰湿ないじめを受け、最終的にクラスの誰かによって"異物"と認識された私は、親の勧めで中学を受験し、そこそこな偏差値を誇る学校に入った。新たな人間関係の形成、今度のいじめは小学校のような生半可なものではなく、いずれ日常生活に支障をきたす物理的なものに変化するかもしれない。精神的なものには耐性があるが、流石に殴られるのとかは嫌だな。
そう思った私は入学までの間、新たあらゆる小説をを読み漁った。人間の根底にある人間性を変えることは出来ないと思ったのだろう。異物として認識されないよう、私はもう一人の自分を作ることに精を出し始めたのだ。
甘酸っぱい恋愛小説から、爽やかな青春小説。少しグロテスクなホラー小説や、登場人物の発言に注意を向けなければならない推理小説。そこに出てくる登場人物の性格、セリフ、心情、思い、人生論。要らないものは削って、良い人間関係を形成する上で必要なものを自分の人格として付け加えていった。
そして私は、誰にも嫌われない性格を得たのだ。
チエちゃん誰とでも仲がいい?
違う。
仲がいいのではなく、嫌われないだけ。外に出る時に私を膜のように覆うもう一人の私、社交的という採点では満点を取れるだろう。
道路の上にかかる橋に佇む人のやることなんて大抵が決まっている。自殺だ。この世からの逃亡。現実からの遊離。楽もなければ苦もない、あるかどうかも分からない世界へ飛び立つ行為。
しかし私は少し違う。私はここで見下しているのだ。
私は想像する。
この車通りの多い道路に立ちすくむ私を。
そしてそれをズタズタに轢いていく車の群れを。
もう一人の自分は次第に、もとの自分さえも蝕んだいった。当たり前の話だ。人と関わらなければ生きていけない手前、外面がいいもう一人の自分の登場回数が多くなる事は避けられないのだから。
近所の人は明るくなっていい子に育ちましたねと親を褒める。
小学校の時の数少ない私の知り合いは変わったねとわたしを評価する。
家族は私に優しくなった。
いつの間にか本棚にあった大量の本は消えていた。
中学生の頃の友達は高校生になった今でも私に頻繁に連絡を取ってくる。中にはその気をチラつかせるようなものも、たまにある。
雨が降ってきた。辺りを湿った匂いが満たす。眼下をゆく人の中には鞄を傘にして走っている人もいた。ヒールを履いた人は中々に走り辛そうだった。
時に雨は、酸性雨と呼ばれるらしい。それが金属を錆びつかせたり、人の頭皮にダメージを与えて髪を抜けやすくさせたりするようだ。強力なものになると銅像を溶かし、森林を壊滅させるという。
もし今、ここに強力な酸性雨が降ってきたら、私を覆うもう一人の膜は溶け出して、昔の自分が膜を突き破って出てくるのかな。
昨日、大量にあった本の中の、最後の生き残りを捨てた。
朝起きたら自分が虫になっていた、そういう話の本だったと思う。
雨が強くなってきた。制服姿の私はびしょ濡れになりながらも、なおもその端に突っ立っていた。雨を弾き飛ばしながら凄い勢いで走り去っていく車たち、その下に下敷きになっているどちらかの私。
昔の私は、色んなものを見下していた。
本を読まないものを見下していた。
テスト前に勉強しないものを見下していた。
見下してばっかの自分に取って代わって、もう一人の自分が姿を現した。あらゆる本の登場人物、その中の良い部分だけを身体中に貼り付けた無敵の存在。コミュニケーションが取れて、人に優しくて、運動が出来て、友達の名前も……。
私は想像する。
車通りの多いこの道路に立ち尽くすいつかの自分を。
嫌な奴で見下してばっかの奴だったが、自分を貫いていたいつかの自分を。
赤い車が猛スピードで走ってきた。信号が赤になる寸前、想像上の私を思いっきり轢き飛ばし、いつかの私は十数メートル先まで吹っ飛んでいく。足が変な方向に折れ、頭からは歯止めの効かなくなった蛇口のように血を吹き出す自分がそこに転がっていた。
見下す私を見下す私。
ねえ、あなたは今どんな気持ちなのかな?
私は橋を、階段に向かって歩き始めた。
あっそうだ、後でヨウコちゃんにメールを送ろう。そのあとハナちゃんに電話して、今週末遊べないから聞いてみようっと。
ズタズタにされたいつかの私の姿を、もう今の私は捉えていない。
救急車も来ず、誰も気に留めないぐちゃぐちゃの私。
その手には、昨日捨てた筈の「変身」がグッと握られていた。