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KUMAGUSU  作者: 一の瀬光
1/7

天才殺しの始まり編

これは何年か前に六本木の「俳優座劇場」や下北沢の「駅前劇場」で上演された舞台の脚本・戯曲です。ぼくはもともとが芝居書きでこれがデビュー作なのです。それを上演尺は変えずに内容を大幅に書き直しので投稿します。すでに上演されたことのある作品なので劇中歌「遠い瞳」も譜面が存在します(作詞作曲はぼくです)が、譜面を投稿するやり方がわからないので泣く泣く割愛しました。上演メンバーは「俳優座劇場」版が文学座で、西川信廣演出、石田圭祐・斎藤士郎・大滝寛。「駅前劇場」版が井上ひさしの劇団こまつ座の残党で今では声優界の大御所である大塚明夫、同じくベテラン声優の福松進也、演出顧問があの「土佐源氏」の坂本長利、音響が帝国劇場「ラ・マンチャの男」等担当の渡辺邦男、他でした。駅前劇場版の音楽はほんとうに素晴らしかったのでそれをここで再現できないのが残念至極です。ちなみにこの芝居を書くための取材で南方熊楠さんのご長女・文枝さんとお知り合いになり、幸運にも舞台の脚本をほめていただき、その後親しくさせていただいのが幸せでした。この改訂版を亡き文枝さんに捧げたいと思います。

                 ★上演について★

    



◎『KUMAGUSU』上演にあたっては、舞台上の動きが常に連続していることが肝

要である。折口ナレーターの存在によりこの流動性はより自然で確実なものとなるだろ

う。たゆまない流れ・テンポがこの劇の背骨である。



◎『KUMAGUSU』は様々な舞台装置の下で上演することが可能であるし、またそ

うあるべきである。変幻自在な舞台回しがこの劇の背景である。



◎『KUMAGUSU』の配役もまた様々な可能性があるが、基本的には次のページの

配役が好ましい。





俳優 A・・・熊楠

 

俳優 B・・・折口ナレーター/革命家マルカーン/熊弥/(きし枝)


俳優 C・・・柳田国男/矢吹義夫/プリンス片岡/うるさい男/常楠/孫文/山本大臣

   以上の三人が主な役である。性別は問わない。



俳優 D(男性)・・・フランクス館長ファラオ/小説家モリソン

俳優 E(女性)・・・エジプト美女1/(きし枝)/レディ1

俳優 F(女性)・・・エジプト美女2/レディ2


   さて、演出の方法次第では俳優ABCの三名だけで上演することも可能である。

   『KUMAGUSU』は根本的には熊楠の一人芝居であるともいえる。






第 1 幕



矢吹義夫の自宅書斎らしき所。

黒いマントをはおった男が一人、舞台中央で背を向けて立っている。ふりむく

と黒い上下のスーツ、黒いネクタイそしてイタリア仮面劇風の仮面をつけてい

る。

颯爽(さっそう)としているが超然としてどこか冷たい雰囲気。手には丸い巻き紙を持って

いる。

やがてこの全長約二十五尺の巻き手紙を舞台の上手にポーンと投げ入れる。

コロコロと伸びていったこの手紙を仮面の男が手繰り寄せると、和服に厚眼鏡

の男がその手紙の端を持って、目で読みながら出てくる。

和服の男(矢吹)は舞台中央まで出てきて手紙を読みあげる。

仮面の男は端で見ている。


矢吹       どれどれ・・・「小生の履歴書ごときものを御覧に入れ申し候。

         小生は生まれも卑しく、独学で、何一つ正当の順序を踏んだことなく、聖賢はおろか常

         人の()(てつ)をさえはずれたものなれば、その履歴とてもロクなことはなし、全

         く間違いだらけのことのみ、よろしく十分お笑い下されたく候。()つこれまでこん

         なものを書きしことなく、全く今度が終わりの()(もの)なれば用意も十分なら

         ず、書き改める暇もなければ垢だらけの乞食女のあらばちを割るつもでご賞玩下された

         く候。」



    ちょっと驚いた顔をあげるが続けて






矢吹       「 (ただ)し、小生ごときつまらぬものの履歴書は、また他の平凡に博士号などとり

          し人々のものとかわり、なかなか面黒きことなども散することと存じ申し候。これは

          深窓に育ったお嬢さんなどは木や泥で作った人形同然美しいばかりで何の面白みもな

          きが、茶屋女や旅宿の仲居、お三どんの横扁(ひら)たきやつには、種種雑多の腰の使

          い分けなど千万無量におもしろくおかしきことがあると同じなるべしと存じ候。」



      呆れきった顔をあげ着ていた綿入()れを一枚脱ぎかける。しかしナレーター

      が話し始めるとその動きをピタリと止める。動きを止めたまま



ナレーター     (すでに仮面はとっている)彼の名は矢吹(やぶき)義夫(よしお)。この大正十四年の

          二月には日本郵船株式会社大阪支店副長を勤めています。ちょっと

          した仕事の都合から、博識で名高いある人物の略歴を尋ねたところ、

          本人から送られてきたのがこの長いながーい履歴書。(ナレーター

          が口上を述べる間はずっと矢吹の動きは静止したまま。)


矢吹        何々・・・「荻生徂徠(おぎゅうそらい)の語に『僧侶の行い(きよ)きものは多く猥

          語を吐く』とありしと記憶す。ローマのストア派の大賢セネカも『わが(おこな)

          を見よ、正し。わが言を聞け、猥なり』と云えり。小生は随分陰陽和合の話などで聞

          えたほうだが、行ないは至って正しく、四十歳まで女と語りしことなし。その歳に初

          めて妻を(めと)り時々統計学の参考のためにやらかすが、それすらかかさず日記帳

          にギリシア字で茶臼とか居茶臼とかさかさまローソクとか本膳とかやりようまでも明

          記せり。おいおい、ちょっと待ってよ、履歴書って、こういう具合に書くもんかい?



    汗をふきつつ綿入れをもう一枚脱ぎつつ、ナレーターの声で静止



ナレーター     英仏独伊羅(ラテン)サンスクリット等十八か国語に通じ、人々から「歩くエンサイク

          ロペディア」と謳われながらも中央学界から無視され心ない世間からは怪物(フリー

          ク)と騒がれた植物(しょくぶつ)学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)。その南方が

          死んだのはつい数年前。しかし現在(いま)、人々の記憶の中に彼は存在しない・・・

          なぜか・・・抹殺! そう、抹殺。妙な噂が流れている。なんと南方は殺されたのだ

          という噂。まさか、そうなのか? でも殺されたのだとしたら、誰が? なんのため

          に? 彼の奇行ともいわれた、その型破りな言動のためか。それとも死とエロスの切

          っても切れないその関係の謎の真相をあばき、それを惜しげもなく世間に公表し続け

          たからなのか。いや、動機なんてどうでもいい。 一体誰が殺したんだ?



矢吹        「・・・小生何一つくわしきことなけれど、いろいろかじりかきたるゆえ、間に合う

          ことは専門家より多き場合なきにあらず。一生官途にもつかず会社役所へ出勤もせず

          昼夜学問ばかりしたゆえ、専門家よりも専門のこと多く知ったこともなきにあらず」



      次の一文は矢吹と熊楠の声が重なり二重となる。矢吹、徐々に舞台よりさる。

      老人姿の熊楠、徐々に舞台へ姿をあらわしおのれの履歴書を自ら語りだす



矢吹(フェイドアウト)熊楠(フェイドイン)   文章としては如何(いかん)なれど、奇異珍怪の事実多き

                       段は小生も自ら信じ申し候。



熊楠        小生、南方熊楠(みなかたくまぐす)は慶應三年四月十五日和歌山市に生れ候。父は西

          南の役ごろ非常にもうけ、和歌山のみならず関西にての富豪となれり。もとは金物屋

          なりしが、やがて米屋・金貸しをも事とせり。小生は次男にて幼少より学問を好み、

          書籍を求めて八・九歳のころより二十町・三十町も走りありき借覧し、ことごとく記

          憶し帰り、反故(ほご)紙に写し出し、くりかえし読みたり。『和漢三才図会』百五巻

          を三年かかりて写す。『本草綱目(ほんぞうこうもく)』『諸国名所図会』『大和本

          草』等の書を十二歳のときまでに写し取れり。しかし学校にての成績はよろしから

          ず。これは生来物事を実地に観察することを好み、師匠のいうことなどは毎々間違い

          多きものと知りたるゆえ一向耳を傾けざりしゆえなり。よって和歌山中学を卒業せし

          が学校卒業の最後にて、それより上京し大学予備門に入りしが、それも図書館通いば

          かりゆえ成績よろしからず。おいおい病気となり帰郷いたし、予備門を退校の後アメ

          リカへ渡れり。ミシガン州立農業工に入りしがある時日本学生が現地学生と喧嘩する

          ことあり。この責めを多くの学生に及ぼさじと小生一人罪をかぶり独り学校を離る。

          もとより小生好むところの植物採集、とりわけキノコやカビの一種たる粘菌(ねんき

          ん)の採集と独学を積みつつアメリカに在ること五年余り、学問の情熱さめやらず、

          いよいよ明治二十五年、経済学問政治の総府たる英国はロンドンへ渡らんことを

          (急に若々しい青年に変わり)決意しました!



      場面転換。一瞬のうちに一八九二年当時のロンドン市街となる。ここは明治二十五年(一八九

      二年)から同三十三年(一九〇〇年)のロンドン市内。道を行き交う(あで)やかな淑女や粋

      な紳士たち、ミュージックホールの踊り子や浮かれ女たちで賑わう街角。若き熊楠もシルクハ

      ットにフロックコートにスッテキ姿。しかし貧乏学生相応のくたびれた服装。ロンドンの熊楠

      は長髪となる



ナレーター     十九世紀末のロンドン。三百年の永きにわたり世界に君臨した大英帝国の歴史の中で

          も最高の栄華を誇ったヴィクトリア朝イングランド。シャーロック・ホームズがロン

          ドンっ子に拍手喝采を浴びていたのもこの時代。あのアメリカのような田舎とは大違

          い、馬車はもちろんのこと地下鉄、バス、タクシー自動車が縦横に走り、時には王侯

          貴族のパレードで華やぐこの大都会に彼はいた。まだ二十五をこえたばかり、頼るべ

          き知人もいなかったが、ここロンドンでは何の不便もない。大新聞から各種クラブの

          発行する雑誌に至るまで、熊楠が必要とする情報はそこかしこにあふれていた。当時

          のこの街は情報化時代の真っ只中にいた。


      ナレーターは雑誌を一冊熊楠に手渡す。熊楠にナレーターの姿は見えない


熊楠        『Nature(ネイチャー)』か。イギリス第一の科学週刊雑誌・・・アメリカにい

          た時からこれに憧れていたんだ。いつかこの雑誌に論文を載せてやるんだ、ってな

          あ。なにせこの雑誌、東洋人の文はほとんど載ってないもんね。(ページをめくりな

          がら)おやおやおや、ちょっと待ってくださいよ。この星座に関する問題は誰も解け

          ずにいる謎だってえ? あはは、何だ、これならすぐ解けるぞ。よし、早速投稿して

          やるか。と言ってもまだ字書(じしょ)もないんだったな。仕方ない、下宿のバアさん

          に借りるか。



      辞書を借りる



熊楠        何だ、この字書はあ? AからQまであるけれど、RからZがちぎれちまってる。

          ま、いいか。


      論文を書く熊楠。ナレーターが中央に出てくる


ナレーター     熊楠が雑誌『Nature(ネーチャー)』に送った答文はすぐに掲載され、それに対

          する好意的な批評が『TIMES(タイムズ)』等の新聞に続々と出た。翌週には当時

          開いたばかりのインペリアル・インスティテュートから晩餐会の招待状も舞い込ん

          だ。(招待状を(ふところ)から出してみせる)この大都会は優秀な人材の登場には

          常に敏感に反応していた。



      ナレーターは熊楠の机に招待状を置く。熊楠は気づき手に取り興奮する



熊楠        見ろ! おれもついに社交界デビューだぞ!(だが立ち上がった自分の服装の汚さに

          がっかりうなだれて)ああ、もう少しましな服さえ持ってたら行けるんだがなあ。



      熊楠がポイと投げ捨てた招待状を拾う怪しげな男。海賊のような黒い不吉な

      片眼鏡をしているが装いは洒落者特有の派手好み



ナレーター     (これから始まるこの男の紹介の間、熊楠とこの男は動きを停止したまま)プリンス

          片岡。この男、スラング、方言、囚人の用語から女郎、スリ、詐欺師の隠語に至るま

          で英語という英語に通じざる所なしという何とも知れぬ言葉の名人。胆略きわめて大

          きく、種々の(はか)りごとを行う。賭博、売春にまで手を広げ、いずれ国外追放に

          なる身だが、今のところは金満紳士お相手の大きな東洋骨董店の(あるじ)におさま

          っている。


熊楠        誰です、あなた?


片岡        へへへ、あんたに会わせたい人がいるんでね、ミスター。だあーい英博物館、あすこ

          が好きなんだろう? ブリティッシュ・ミュージアム、そこのお偉いさんに会いたか

          ないかね、あんた? ひひひ。


熊楠        え? ええ! そりゃもちろん!


片岡        大英博物館館長サー・フランクスさまこそはプリンス片岡骨董店のだあーいのお得意

          さまさね。


熊楠        ああ、ブリティッシュ・ミュージアム! 世界中から集めた本と宝がぎっしりと詰ま

          った知識のメリーゴーランド。天国とはあそこのことですよねえ。でも何だって紹介

          なんかしてくれるんです?


片岡        これも仕事のうちってやつさ。ホコリまみれのガラクタどもから本物ってやつを見つ

          けだすのが骨董屋でね。残ったこの目はガラス玉じゃないんだよ、ひーひっひっひ。


      二人、熊楠の部屋から去る

      二人、登場。背後には威圧的な古代エジプト神像が立っている。ここは大英博物館の中。いつ

      の間にかプリンスの片眼帯が反対の目にかかっている


楠        あれあれ? その眼帯さっきの目と違いますよね。さっきは左目でしたよ。僕はこれで

         も記憶のほうは・・・


片岡        (熊楠の言葉を(さえぎ)って)大将、あんたが記憶(ものおぼえ)の良さで売り出し

          中なのは先刻ご承知さ。でもな、記憶力なんかよりもこの世の中じゃあ早く忘れちま

          う才能の方がずうっと役に立つんですぜ。


熊楠        そうなんだ、うん、よおーく覚えておこうっと。


      大英博物館の中をほれぼれと見渡して


熊楠        どうです、この蔵書ときたら! およそ見たこともない珍本(ちんぽん)()

          (ほん)の山だ。それにここで得られるのは知識だけじゃないんです。この蔵書がお目

          当てでイギリス中からやって来る著名な知識人たちと知り合うことだって出来るんで

          すよ。


ナレーター     大英博物館図書室。古代エジプトにあったという伝説のアレクサンドリア大図書館を

          もしのぐといわれたこの図書室にこの日からおよそ六年間、熊楠は通い続けることに

          なる。来る日も来る日も熊楠は貴重な本を手当たり次第にノートに抜き書きするのに

          夢中だった。


熊楠        抜き書きもいいが、英国紳士ともなれば人との交流も身だしなみの一部。(多くの知

          人に挨拶する風情(ふぜい)。その中の一人に気づき呼び寄せる仕草)ハロー、ハロ

          ー!


     スクリーンの向こう側に英国紳士のシルエットが現れる



熊楠        ご覧ください、大の仲良しになった人気小説家のアーサー・モリソンその人です。ほ

          ら、推理作家ではドイルのライバルと言われている。彼の人気作『マーチン・ヒュー

          イットの事件簿』ご存じでしょう?(モリソンのシルエットに嬉々として握手しつ

          つ)彼には毎週英語の論文を添削してもらっているのですよ。


ナレーター     なるほどモリソンは人品(じんぴん)いやしからぬエリート英国人かもしれない。しか

          しこの蔵書にひかれてやって来るのはそんな人たちだけとは限らない。ある日のこ

          と、ここに見慣れない東洋人が・・・


      白い洋服の東洋人登場


孫文        How do you do、 Sir?


ナレーター     先ごろまでロンドン市当局に身柄を拘束されていた孫逸仙(そんいっせん)という名の

          若い革命家中国人、またの名を孫文(そんぶん)という。


孫文        わたし孫です。あなた毎日ここで猛勉強、ちがいますか?


熊楠        ニイハオ、ミスタ孫! 猛勉強だなんて、ははは。我ら東洋人同士、ともに手をたず

          さえてアジアからヨーロッパ勢力を駆逐してよろうじゃないか。


孫文        (あわてて)ちょ、ちょっとミナカタ先生、まわり皆ヨーロッパ人ですよ。


熊楠        なあに、この街じゃこれくらい言ってちょうどいいんです。僕も及ばずながら学問の

          方でね、東洋にもすでに立派な科学あり、と気を吐いているのですよ。これでも僕は

          あなたの同士のつもりですよ、わっはっは。


      感嘆しきりの孫文の手をひいて外へ連れ出す熊楠。孫文は白い洋装のまま、

      熊楠はボロのフロックコートに(トップ)高帽(ハット)


ナレーター     すっかり肝胆相(かんたんあい)()らす仲となった二人は毎日のように会っては互

          いの若い夢をぶつけあった。しかし、昼夜を分かたず清朝(しんちょう)政府のスパイ

          につけ狙われる孫文にとって逃亡先のロンドンも危険な場所となりつつあった。


      右の口上中は二人は静止せず、二人ならんで談笑し歩き、ときに激論し、

      ときに屈託なく笑いあう仕草。

      口上が終わると中世の修道僧のような黒いマント姿の男を現れる


マルカーン     孫、ここにいたのか。


熊楠        誰だ、奴は?


孫文        仲間です。アイルランドの革命家マルカーン。(声をひそめて)かなりの曲者(くせも

          の)ね。


マルカーン     孫、とうとう横浜から知らせがあったぞ。支度をしてくれ。


孫文        そうか! わかった、すぐ出発だ。(南方の方へふりかえり)ミナカタ、君に会えて

          本当に良かった。そうだ、いつかぼくの国へ来てほしい。君のためにでっかい植物園

          を用意しておくよ。


熊楠        孫……


      マルカーンの出したウイスキーを三人で分け合って乾杯し


孫文        再見(ツアイチエン)


      汽笛と共に孫文去る。マルカーンと熊楠、見送りながら残る


マルカーン     行ってしまったな。


熊楠        ああ。


マルカーン     クマグス。孫文は革命のためにアジアへ帰ったぞ。君はロンドンにいて何をめざすの

          だ。


熊楠        おれか? おれは雑誌や新聞で欧米の大学者どもと論争三昧(ざんまい)だ。東洋の科

          学ここにあり! の気概でね。



マルカーン     ほお、君もいっぱしの憂国の士ってわけだな。つまりは日本の国威発揚につとめて大

          満足ってわけか。


熊楠        そ、それだけじゃない。


マルカーン     じゃあ何だ! 所詮(しょせん)君は言葉ばかりの男じゃないか。孫文とオレは革命の

          ために一歩一歩現実を押し開いている。だが君ときたらいまだに仕送りだのみの親が

          かり。革命も面白そう、でも学問もやめられないというどっちつかずの頭デッカチ。

          その舌先だけは壮大無比だが、自分の姿をよく見てみろ! 大言壮語してみたところ

          で近所のガキどもからはそのよれよれのおんぼろフロックコートを笑われているじゃ

          ないか。道端(みちばた)ではチンチンチャイナマンとひやかされて、この前なんぞ傘

          で女をひっぱたいたろう、見ていたぞ。


      返答に窮する熊楠にウイスキーの(びん)を乱暴に渡すとマルカーンは冷笑しつつ

      マントにくるまり闇の中に去る。最後まで顔を見せない。


熊楠        おれは、おれはなマルカーン! ただ知りたいんだ、この世界というやつを、もっと

          もっと・・・(ウイスキーをあおる)おいマルカーン、聞いてるか。秘密めいた革命

          だけがな、この世の魅力なんかじゃないぞ。この世の中はな、おれをゾクゾクさせて

          くれる謎に満ちている。たとえば生命の秘密はどうだ。おまえは知りたいと思わない

          のか、命っていったい何だ、命っていったいどこから始まったんだ、動物と植物では

          いったいどちらが命らしい命なんだ、もう謎だらけだろ。でもな、こんな研究どっか

          ら手をつけたらいいんだよ、マルーカンおまえにわかるってのか?(ウイスキーをあ

          おりますます酔って得意げに)ふふふ、ところがなあ、おれさまはなあ、ちゃあんと

          研究のその鍵を握っているんだぞ、ざまあみやがれ。それはなあネンキンってやつ

          だ、知らんだろう。生命がまだ動物でも植物でもなかった大昔からそいつはいたん

          だ。粘菌・・・小さな小さな極彩色の小宇宙、一見するとまるでカビみたいな姿では

          えてるくせに、ちょいと目を離すとまるで動物みたいに獲物を求めて自由に動き回る

          その生態たるや奇妙奇天烈摩訶不思議(まかふしぎ)、まだ誰もその正体を特定できて

          いない生物界特大の謎。そうさ、おれはこの粘菌って奴に賭けてるんだ。粘菌ならば

          きっとおれに生命の秘密を教えてくれる。おれはこいつを徹底的に調べ上げる。どう

          だマルカーン、おれにも立派な目標ってもんがあるんだぞう、べらぼうめ、はははは

          は、はは・・・は・・・


ナレーター     (酩酊した熊楠を冷たく見おろしながら懐から一冊の雑誌を取り出してみせつつ)

          『Notes(ノーツ) and(エンド) Queries(キュリース)』。すでに七

          十六年の歴史を持つ週刊の文学・考古学・民俗学の専門雑誌。あなたがどうしても知

          りたいという難問にぶつかったとき、ここに投書すると博識自慢の読者たちが競って

          答えを寄せるという大人気の(よろず)問答雑誌。


      ナレーターは泥酔して机になかば伏せている熊楠からウイスキー瓶を取り上てから熊楠の鼻先

      にこの雑誌をドサリと投げ出す。目をさます熊楠。この本をパラパラとめくるうちに突然元気

      を取り戻す


熊楠        面白い! ほお、「日本の船舶にはなぜ何々丸の如くに丸の字を冠するなりや」か。

          はっ、生命の神秘に比べればこんなのはお茶の子だ。なにしろ今はちゃんとAからZ

          まできちんと揃った字書を持ってるからな。


      猛烈な勢いで答えを書き始める熊楠


ナレーター     熊楠の知識欲はとどまる所を知らなかった。この『ノーツ・エンド・キュリース』の

          ほかにも権威ある科学雑誌『ネイチャー』に三百七十四篇以上の論文を寄稿する。も

          ちろん英文で。いや、それどころか今や十八か国語をあやつる彼は東西関係の難問奇

          問に関するオーソリティーとなりつつあった。多くの学者が熊楠に注目するのも当然

          だった。


      スクリーンの向こうに威厳ある学者のシルエットが現れる


ナレーター     ロンドン大学の重鎮サー・フレデリック・ジギンス博士。熊楠に関心を寄せる数ある

          学者の中でも彼は格別の興味と敬意を示していた。熊楠の学識を見込んだジギンス博

          士はオックスフォード大学出版が世に問う日本古文シリーズ『万葉集』『枕草子』

          『竹取物語』等の校閲(こうえつ)潤色(じゅんしょく)を依頼する。熊楠の仕事ぶりに

          満足した博士はさらに『方丈記』













小説と違い戯曲の入力はこのサイトではむつかしくて、その結果読みにくい部分が出てしまいました。ごめんなさい。それでも最後までお読みくださった方に心からお礼申しあげます。ありがとうございました!

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