3話『俺の姉と母親の約束』
──陽一。陽一は、辛いことがあっても無理しちゃダメだよ? 真空夜でも、こうなってしまうんだから。
分かった。やれるだけやって、面倒になったら投げ出すよ。
──そういう意味じゃない。限界まで頑張らなくていいって言ってるの。まったくおバカなんだから。
でも母さん、俺前のテスト百点取れたんだ。
──だからそういう意味じゃないってば。そんなだから勘違いしちゃうんだよ、悠のことも、真空夜のことも。……優梨奈のこともね。
姉貴が完璧超人じゃないことくらいは知ってる。泳げないし。
──……もういい。とにかく、私はあまり相手してあげられないから、代わりに陽一に任せるからね。
任せるって、何を? 姉貴の下の世話?
──バカじゃないの? そうじゃないよ。
じゃあ、どういう意味?
────真空夜に、寂しい思いをさせないでね。
「……分かんねーよ、それじゃ」
チチチチ……と、小鳥が直ぐ近くで囀る。そんな朝、ベッドから起き上がらない俺は、懐かしい母の言葉で目が覚めた。
真空夜を寂しくさせるな、か。夜中か緊急事態くらいにしか戻って来ない、あんたに言われたくないんだよ。
いや、今となってはもう、二度と帰って来ないわけなんだが。
「よっと。ふぅ……悠に起こされなくなってから、全く自分では起きられなくなったな。もう八時じゃねーか」
起き上がってスマホを見る。二時間前に優梨奈からメールが送られて来ていた。「まだ寝てそうだから昼頃に連絡する」って。
お前、どんだけ俺が起きないと思ってんだ。流石に昼前には起きれるつーんだよ。
「……ていうか、静かじゃね? え? 大丈夫だよね皆いるよね?」
いつも騒がしい悠と親父の声が聞こえて来ないので、不安になる。今日は補習の日でもないから、悠はいる筈なんだが。
「でも一応、悠の家は隣だしな。いなくても変じゃないし、真空夜なら買い物に出かけてる可能性だってある。親父だけが心配だが、よく考えたらあの人は仕事探しに出かけてくれていた方がいいな」
二ヶ月経過しても、まだ見つからないんだもんな。あのオヤジ。飲んだくれてる場合じゃないってんだよ。
──ああ、そうだ。優梨奈に電話してみよう。
『もしもし? どしたよーいち』
電話越しに、呑気そうな優梨奈がイメージ出来た。お前、今何か食べてんな? まぁ飴だろうけど。
「どうしたっつーか、連絡するってメール送って来てたのお前だろ? 起きたから、こっちからかけてみたんだよ」
『あー、それか。そう言えばそうだったな』
「忘れてたんか」
『いや、実を言うとよーいちと話したくなっただけで、用件は特にないというか』
後半モゴモゴしていた優梨奈に、少しばかりキュンと来る。話したかっただけって、可愛いなコイツ。
でも待て。優梨奈がデレることってあまりないぞ。裏がある気がする。
「まぁ、家離れてるしな。簡単には会いに行けないし……けどお前、何か企んでるな?」
『ほぇ』
ドストレートに指摘してみたら、分かりやすいくらい動揺した声が聞こえた。やっぱりか。
「望みは何だ。聞くだけ聞いてやる、言ってみなさい」
『よーいち今日、お前らの母親の命日だけど、墓参り行かなくてよかったん?』
「えっ」
────えっ??????????
反射的にリビングのカレンダーを見た。花丸が付けてある。
墓参りって、書いてある。
『あたしは今日バイトあって行けなかったんだけど、よーいちは違うだろ? 真空夜と通話してたら、アイツは寝てるって言ってたから気になってさ』
「おお、おおおおおお……」
『ん?』
「ゆ、優梨奈。アイツらってもう車出してんのか……!?」
『まぁ出してるだろーな。でも、六時半くらいに話したから、もう着いてるんじゃね?』
「あ、後でまた連絡する!」
『おーう。忘れ物すんなよー』
優梨奈との通話を終え、慌てて支度を整える。
ああそうだ。五年前の今日、母さんは亡くなった。衝突事故に巻き込まれて、帰らぬ人となったんだ。
だから毎年この日に墓参りしてたのに、完全に忘れていた。さっき夢に出て来たのは、怒ってるからだったのかも知れない。
「行って来まーす!」
いつも通り家に頭を下げて、駅の方へダッシュする。因みに墓地までは相当遠い。だから早い時間に出るのだ。
悪い、母さん。のんびり夢なんて見てる場合じゃなかったな。起こしに来てくれてありがとう。
……俺、誰かに起こされなきゃ目が覚めないのか!?
*
「何か言うことはあるか、陽一」
「……滅相もございません」
「ならよし。来年も忘れたなら、命はないぞ」
「肝に銘じておきます」
墓地で合流した真空夜に、閻魔大王のイメージが重なる。先にメールでも謝っておいたが、ちゃんと頭を下げておいた。
ここに来た面々と、墓石に。
でもさ、起こしてくれりゃあ、よくね? 悠の得意なダイブとかでもいいからさ。
「てか、静南先生も来てるの珍しいな。最後に母さんの墓参り来たのって、三年前じゃね?」
「うん、まぁ……ね。あんなにお世話になったのに中々来れなくて、申し訳ないね」
「……いや、気にしなくていいと思うぞ。母さん、そういうのは気にならないタイプだと思うからさ」
「ありがとう、陽一君」
静南先生は、いつも通りの目だけ笑わない笑みを見せる。更に今回は苦笑いだったため、心底嬉しくなさそうだ。
因みに、三年前静南先生は十七歳。きっと、進路に関する面倒ごととかが多くて、時間が作れなかったんだろう。
そもそも、小学生時代からの付き合いだからといっても、家族じゃないんだから謝る必要もないだろ。
「陽一〜! おはよ」
「わざわざ大声で呼ぶから何かと思ったけど、挨拶しに来ただけかよ。可愛い奴だなお前は本当に」
神妙な雰囲気が一瞬にして和んで、懐いた犬みたいな悠の頭を撫でる。ちょっと恥ずかしそうな顔をされた。
「も、もう。私が女の子ってこと分かってるのに、そんな気軽に可愛いって言っちゃっていいの?」
「ああ、それもそうか。ついうっかり自然と。次からは気をつける」
「……言って欲しくないとは言ってないもん」
「……おう」
何なんだよ、コイツは。そんな上目遣いで見られると、いちいちドキドキして仕方ないんだわ。やめてくれ。可愛いけど。
ふと、直ぐ傍に静南先生がいるのを思い出した。この人のことだからからかってくる──と思ったが。
俺のことを、見てもいなかった。ずっと墓見てやがる。
「……あ、陽一君」
「ん? どうした?」
「私今勤務中じゃないから、『先生』じゃなくていいからね」
不意に、そんなことを言われる。なるほど、たまにいるよな教師キャラにこういうの。オーケー理解した。
「じゃあ、静南先輩で」
「うん、よろしい」
「私は静南ちゃんって呼んでるよ!」
「悠ちゃんもそれでよし!」
「私は静南、と呼び捨てだな」
「真空夜ちゃんなら可!」
「あんた本当真空夜には甘いよなぁ……」
まぁ、仲良いだけなのかも知れないが。真空夜と静南先輩は、何気に九年の仲なんだし。
こうして見ると、俺が「幼馴染み」と言い表す悠より長い付き合いの人、結構いるな。静南先輩に優梨奈に。
でもまぁ、思い出が一番多いのは恐らく悠だ。優梨奈の方が四年くらい長いが、家が隣な分、悠は会う回数で上回る。今となっては、ほぼ家族だ。
「……ん」
背後で、姉のボソッとした声が聞こえたので振り返る。手に持っていたバッグの中を見て、何やら固まっていた。
今更だがそのバッグ、新品か? ほつれた部分はなさそうだし、何より見たことがない。
バッグに興味を持っていたら、真空夜がチラッとこっちを見た。はいはいどうなされました?
「どうした? 真空夜」
「すまない、財布を車に置き忘れたらしい。取って来るから、先に中に入っていてくれ」
親父の元に鍵を取りに向かう真空夜の背中を、思わずじっと見つめる。
「忘れた……? 財布を? あの真空夜がか……?」
信じられねぇ。これまで真空夜は、物事を忘れることはあれど物を忘れたことは、ないとも言える。
財布に関しては、何処かで取り出すことがない限り、ずっとバッグの中に仕舞っておくような奴だぞ。そこは普通かも知れないが。
とにかく、ここ最近ずっとだが、真空夜の様子がおかしい。
「陽一、マーヤが……」
「ああ分かってる。アレは調子が悪い時の真空夜だ」
しかも、絶不調。風邪を引いても熱を出しても平然としている真空夜が、短期間でいくつも物忘れをしている。
変だ。寂しい思いはさせていない筈なのに。まさか重病にかかってしまったとか……?
「真空夜!」
弟としてもかなり心配なので、車に向かう真空夜に着いて行く。目を大きく開いてキョトンとする様は、ぶっちゃけ普通に可愛い。
……じゃなくて。
「真空夜、お前最近無理してるだろ? 体調悪そうだし、何かあるんなら俺達に頼って……」
「何を言ってる? 私が体調を崩しているだと? 生憎すこぶる健康だ」
「いやでも、お前が忘れ物するなんて……」
「私も人間だ、そのくらいする。舐めるな、私は自分の体調管理くらいしっかり出来ている」
「そうかも知れないけど……」
心配してやってるのに、何故か不機嫌そうにされる。この姉は本当、何考えてるのか分かんねぇ。
俺達に心配されるのが嫌なのか? だとしたら何故。俺達のこと、頼りにならないって言ってるようなものだろ、それ。
「真空夜、正直に話してくれよ。最近何があった? 何でそんなに、いつも通りじゃないんだよ」
「陽一、ここは墓地だぞ。下らん話はするな」
「下らないわけないだろ! 俺は、お前のこと母さんに頼まれてるってのに!」
「余計なお世話だ」
──真空夜の、コンクリートすら貫いてしまいそうな、鋭い目つきに萎縮した。
何だよ、余計なお世話って。真空夜お前、母さんのこと否定してるんだぞ、それ。
「陽一。私がお前を助けることがあっても、私がお前に助けてもらうことなどはない。自惚れるな」
「何で、そんなこと……」
「私は、平気だ。何ともない。陽一には体調を崩しているように見えたのだしても、それは勘違いだ。気にするな」
「……分かった」
俺が諦めると、真空夜は「うん」と頷いて車を開ける。そのまま置いてある、理解不能な状態の財布が見えた。
なぁ、やっぱりそんな置き忘れするのおかしいって。真空夜……。
*
夕暮れ時、ようやく我が家へ帰還すると、真っ先に車を降りた真空夜が背筋を伸ばしていた。
「んーっ、やはり、うちが一番だな。ただいま、母さん」
そう呟いて、足取り軽く家の中へ入って行く。その様子をボーッと見ていたら、右腕にギュッと、悠が抱き着いて来た。
俺と同じ心境なのか、不安そうな顔をしている。だから頭を撫でた。
「アイツが大丈夫だっていうんだから、そうなんだろ。頑固だから、俺達じゃ何もしてやれねーよ」
「かも、ね。でもマーヤは多分、自分がどんな状態なのか、理解してると思うよ」
「ああ、分からないわけがない。辛いのを誤魔化そうとしてるんだろうけど、あんなに必死だと、むしろ逆効果だってんだよ」
「マーヤ、何ともないといいね」
「おう、そう願っておこうぜ」
悠とは、今日は家の前でお別れ。直ぐ隣だからいつでも会えるんだけど。
家に入るまで見送ってたら寂しそうに振り返るの、持ち帰りたくなるからやめて欲しい。二ヶ月前までと違って、俺とお前は「男と女」って関係になってるんだから。
間違いが起きたら大変でしょうよ。我慢出来る自信ないよ俺。
「──すまないな、二人とも。帰りにコンビニででも夕飯を買うつもりだったのを忘れていた。即席のうどんで我慢してくれ」
「いや別にうどん美味いけど」
本日二度目の「忘れてた」。とうとう家事関係も抜けるとは、思った以上に深刻みたいだ。
なのに特に何も気にしていなそうな親父に、凄ぇ腹が立つ。お前の娘様子おかしいんだが? あ?
「おおそうだ真空夜。一応、俺の準備は間に合いそうだぞ」
「準備?」
「そうか、私の努力が水の泡にならずに済んでよかった。近々、予定でも立てよう」
「だな。俺はお調子もんだからよ、ここぞとばかりに張り切っちまうぜ〜」
「いやだから準備って何?」
「お楽しみだ」
真空夜に睨まれて黙り込む。セリフと表情があっていないんスよ、お嬢さん。楽しみに出来ねーのよそれじゃ。
それより、親父の準備が間に合わなかったら無駄になる予定って、何のことなんだろうか。そんなもんなさそうだけどな。
何やら秘密主義な二人を他所に、黙々もうどんを啜る。冷えてて美味い。
因みにこの時、何だかよく分からないけど……凄く嫌な予感がしていた。
その予定が無事に済むなんて、全く思えなかったんだ。




