2話『俺と変な姉と夏休みの予定』
沈黙が流れる、我が荒巻家の夕飯。いつもならアホみたいに騒ぐ筈なのに、こんな黙りこくっているのは初めてだ。きっと。多分。
……うん、やっぱ俺の記憶に誰も口を開いていないシーンなど残されていない。
でも、今日は俺も悠も真空夜も親父も全員死人みたいな顔で箸を動かすだけだ。
「……そろそろ、我慢大会は終わりでいいか」
「ぶふぉっ⁉︎」
「汚っ⁉︎」
真空夜が突然訳の分からないことを言うから、噴き出したじゃねーか。親父の顔面に大根がくっついちゃったよ。
悠も悪いな、拍子にコップ倒しちまった。……透け、てる。
「冷たい冷たい陽一のバカ何してんの⁉︎」
「お前らこそ今の真空夜の言葉に無反応でいられるのはどうかしてんだろ!」
テーブルに置かれたタオルで悠の身体を拭く……って、俺、今悠の胸をタオルと服越しにだけど触ってる、のか。考えたら恥ずかしくなって悠自身にパスした。
ダメだ、意識するようになってからこんなんばかりだ俺。悠はこれまで通りにしてくれてんのに。
「悠、これを使え。因みにそのタオルは食器洗うための物だったんだが……代わりを切らしているから買いに行くか」
俺がコップを倒した時には既に立ち上がっていた真空夜が、悠にピンク色の別のタオルを手渡す。珍しくリビングに置き去りだったリュックから薄めの上着を取り出して、皺を伸ばしていた。
今真夏だから普通は着ないけどね。うちの姉は何しろ大の虫嫌いですから、少しでも肌に触れないためらしいっス。
「……ってお前、今から外出んの? 流石に暗いから俺が行くよ」
「何を言う、普段手伝いもしない陽一に欲しい物が分かるとは思えん」
「このタオルと同じもん買えばいいんだろ? そんくらい分かるだろ」
「ふん、結局違いが分からずにテキトーな物を買うのが目に見えている。……しかし、そうだな。確かに暗い」
俺が更に反論する前に、真空夜が窓から外を見つめた。何かを考え込んでいるようで、顎を人差し指でつつく。
一瞬、イタズラっ子みたいな笑みを浮かべたように見えたのは、錯覚じゃない。俺の記憶にハッキリ刻まれている。
「よし陽一、二人で共に買いに行こう。私も一応若い女なのでな、少し心細いんだ」
「へぇ、真空夜でも心細くなったりすんのな?」
「何を言う、私は存外臆病だぞ。虫以外にだってな」
「ほぉ、それは知らんかった。覚えとくわ」
まさか不審者とかに怯えているってことか? 真空夜なら平然と倒しそうなものだけど。それとも、お化けとかの類いが苦手だったり? ……いや、ホラー映画とかをつまらなそうに観てる奴だぞ、んなわけあるか。
なら、何が怖いんだろう。一緒に行けば、何か分かんのか?
「マーヤ、今夜は積極的だねっ」
「ふふ、そうかもな。今日は上機嫌だ」
悠と真空夜が楽しそうに微笑み合う。スマホでこっそり撮ろうとか思ったけど、バッグの中だ。
……真空夜さんあのさ、手袋していくのは隣並んで歩くの躊躇われるんでやめてください。
「おい陽一、何故奪い取る。私の手に虫が触れたらどうしてくれるんだ」
「真夏だぞ? 手袋なんてはめてたら変な目で見られるわ。俺が嫌なんじゃ。虫に触れてほしくないなら、ポケットに手を突っ込んでおくとか、俺と手を繋ぐとかしときゃいいだろ」
因みに、俺と手を繋いだところで虫がつかないということにはならない。だって出してあるし。
だけど真空夜は、パァッと表情を明るくして俺の手を握りしめた。いきなりだったからドキッとしたわ。
「繋ぐ! 手! ……んんっ。出来れば、陽一と手を繋いでいきたいな。その方が暖かいだろう?」
「……だから今は真夏だっての」
てか、慌て過ぎて子供みたいになってたぞ真空夜。直ぐに咳払いして取り繕う辺り自分のキャラを意識してるのが分かるけど。
悠が手を振って俺と真空夜を見送る。少し離れたら真空夜が手を繋いできて、照れたように微笑みかけてきた。
俺の姉って、こんなに可愛かったか?
「陽一、アレだな。大きくなったな、背」
暗い夜道を歩きながら、真空夜が感慨深そうに呟いた。
「まぁ、男だしなぁ。それに高校生だし。中でも、高い方なんじゃねーの? 少しくらいは」
俺は身長一七七あるしな。同級生男子の中でもかなり高い方だった筈。一八〇いってる奴って、意外にあんま見ないし。
「私より十数センチ高いのだったか。小学生の頃は私の方が高かったのに、なっ……!」
「背伸びしても絶対に越せねーよ? お前、そんな高くないんだし。……いや、女子だと高いのか?」
「一六〇を越える女子はそれ程いないんじゃないか?」
「まぁ、そうか」
確かに、真空夜は俺より十五センチくらい低いけど、悠は更に十センチくらい低いからな。
今思い浮かべてみたら、静南先生以外に真空夜より身長高い女は見たことないかも知れない。知ってる中だと。
静南先生は結構高いけど、身長分かんねーな。真空夜より高いってことくらいしか。
……あ、店が見えてきた。そろそろ手を離した方がいいかな。
「……真空夜? おばちゃん達に『あらぁ、仲良いわねぇ〜』なんて冷やかされたくないだろ? 俺は悠や優梨奈と何度もあったから慣れてるけど。だからそろそろ手を……」
「嫌だ」
「ええ……」
冷やかされるのが嫌じゃないなら、別に構わないけどさ。暑いせいで今手汗ヤバいんだよ俺。拭きたいんだよ。
膨れつらでそっぽを向く真空夜が強く握って来て、仕方ないかって俺も握り返した。
そしたら嬉しそうに微笑まれて、姉相手にキュン死にしそうになってる。
もう一度訊くけど、俺の姉ってこんなに可愛かったっけ?
「おお、真空夜ちゃん。今日は弟君と一緒なんだね。高校生になっても手を繋げるくらい仲良くて羨ましいよ」
「ええ、私は陽一を自慢出来るくらいバカな弟だと思っているが、それ以上に愛する弟として認識していますから」
「バカ言うな。自慢すんなそんなこと」
店の中で、家が近い中年のおっさんと真空夜が談笑する。俺は興味ないから、さっさとタオルを探す。……何処?
「マジだ、真空夜の言う通り分かんねー。見つけたはいいけど全部同じに見える」
ていうか、冷やかしてきたわけでもおばちゃんでもなかったなさっきの。あの人確かまだ若い妹がいたんだけど、嫌われてるんだった筈。
俺と真空夜が仲良い……か。まぁ、悪いつもりはないけど、好かれているかどうかって言ったら違う気もするんだよな。普段の態度からして。
「でもさっき、まるで甘えてるみたいだったよな」
「どうした陽一。……ほら、分からないんじゃないか。ここじゃなくてそっちの棚だ」
「いや色もサイズも同じくらいじゃねーか!」
「肌触りが全然違う。比べてみろ」
「……へぇ」
正面にあるタオルに触れてから、真空夜が差し出すタオルを撫でてみた。ぜーんぜん違いが分からん。
だけどそう言ったらまたしつこそうだし、テキトーに納得したフリしておこう。
「……あ」
俺が棒読みで「ほんとだー」って言ってたら、真空夜が溜め息を吐いた。その肩に、小さな虫が乗っていることに気がついて、血の気が引く。
もし真空夜が虫に気づいて騒ぎ出したら店にも客にも迷惑だ。その上、ご近所での真空夜の評判がだだ下がりになること間違いなし。
一応避けたいことだし、何とかして追い払わないと。
「真空夜、肩揉もうか」
「いや、外で何を言っているんだお前は。家で頼む。早くタオル買って帰るぞ」
「うっす」
真空夜が、ツンとした態度でレジに向かう。
まずい、気がする。もしも店員が虫に目が行き、「虫ついてますよ」なんて言ったら終わりだ。真空夜が奇声を上げて飛び上がるだろう。
虫から逃れるために脱いでしまう可能性もなくはない。
……俺、今関係ないことを考えるな。真空夜がセクシーに脱ぎ出す場面を想像するなたわけめ。
「と、こんなことしてる場合じゃねぇ! ──ってあらら⁉︎」
「ひきゃっ⁉︎」
真空夜の出したかなり高い声に、店中の視線が集まったのを察した。真空夜は恥ずかしそうに肩を竦めて、俺を睨んでる。
まさか欠けた床で躓いて、真空夜に抱きつく羽目になるとは……。柔らかっ! 真空夜ってこんなに抱き心地いいんだな。
「陽一、いい加減放したらどうだ。いくら仲のいい姉弟だとしても、こんなことまではしないと思うぞ」
「ご、ごめんなさい気をつけます」
羞恥と怒りに満ちた声で指摘されて、反射的に頭を下げた。
震えるくらいには怒ってたな、真空夜。くわばらくわばら。
「全く……陽一がセクハラ好きなのは知っていたが、まさか人前で強く抱き締められるなんて予想外だったぞ」
帰路で、延々と説教される俺。時々すれ違う人達から注目を浴びるのがすげー嫌だ。
反論するのも謝るのも面倒臭くなって、何度も何度も頷いていたら脇腹を殴られた。
……ヒロイン達に限らず、何で女子って人体急所をナチュラルに攻撃してくんの。
「陽一、マーヤお帰り〜。お皿洗っておいたよ」
「そうか、ありがとう悠。ところでアレは何だ? 床が泡だらけな様だが」
「……こぼれちゃって」
帰って早々真空夜が溜め息を吐いた。さっき買ったタオルを開封して、キッチンの棚に仕舞う。別の棚から同じ様なタオルを出して、床を掃除し出した。
俺と悠と親父はそれをボーッと眺める。
「悠お前さ、少しは役に立とうと思ったことくらいは分かってるよ。だけど逆に世話かけてたら意味ないだろ」
「う……。でも何か、溢れちゃったんだもん」
「力入れ過ぎだったんじゃねぇの? 俺ですら真空夜のことはよく分からない部分多いけど、あいつ結構綺麗好きだと思うから汚したら逆効果だぞ」
「分かってるけどさ……」
頑張ったんだもん、と悠は頬を膨らます。可愛かったからつい撫でたら、殆ど全身でくっつかって来た。
待て、待て悠。足を絡めたら立ちにくいから。密着し過ぎててあちこち熱いから。てか何だか気持ちいい。
気を抜いたらまた情けないことになりそうだから、自分の頬を抓って堪えた。
「陽一、悠。私の前で淫らな行いはするなよ? せめて悠の部屋でしてこい」
「いやしないけど! 何で悠の部屋でなんだよ」
「陽一の部屋は私の部屋の隣だろう。間違いなく声が聞こえて気が散る」
「……」
汚物でも見るように睨まれて、黙り込んだ。今日の真空夜の機嫌がどれなんだか分からない。
買い物前までは明らかに上機嫌だった。で、抱きついてから少し不機嫌に。んで今はアレ。
親父が何だかアダルトな話をし始めたから、急いで二階に逃げようとした──ら、
「陽一、悠。今年の夏休みは遊びまくろう。何処に行くかは、追々決める。案を出してくれても構わないんだが、虫がいそうなところは却下だ。そして、課題は先に終わらせること」
「夏休み……? 遊びに行くのか? でも真空夜、大学行くために勉強するって去年も勉強漬けだったじゃ……?」
「ああ、それはやめた。家のこともあるし、私は就職することにする」
……マジか。真空夜行きたい大学があるとか、中学の頃から言い続けてたのに。
親父も驚くかと思ったら、平然と酒を飲んでた。おい酔っ払い、仕事見つかったのかよ。
「マーヤ、何かあったの……?」
悠が不安気に問いかける。直接訊くことに気が引けていた俺は、内心尋常じゃないくらい焦った。
自分から言わないってことは秘密なんだろうし、変に探ろうとしたくない。怖いし。
「いつか知らせる時は来るだろうが、今はまだその時じゃない。だから気にするな」
真空夜は静かに笑って誤魔化す。本気で嬉しくなさそうな姉の笑顔に、何だか、胸に来るものがあった。
これが、胸が痛む感覚だろうか。杭打ちされた錯覚があったんだが。
隠し事は別に悪いことじゃないって認識してるのに、何だか気分が悪くなった。
「だがもし本当に一人がしんどくなったら、お前達に相談するよ。それでいいだろう?」
「おう、たまには俺らのことも頼れよ。お前は色々無理し過ぎだ」
学校で、先生の期待を裏切らないように努力し続けてるしな。毎晩毎晩勉強漬けで、朝は誰よりも早く家事をこなす。学校で時間が空けば先生達の手伝いをして、帰って来たらまた家事。
正直真空夜は、頑張り過ぎてる。いつか倒れたら元も子もないっていうのに。
あ、そう言えば──
「無理……か。そうでもしなければ、私達は生きていけないだろう? それにお前達も普段、各々頑張っているじゃないか」
真空夜がフッと微笑んで、俺は今一度数年前の記憶を呼び起こす。
真空夜は、いくら疲れても倒れることなんてしなかった。母さんが亡くなった時も、毅然として俺達に笑いかけてくれた。
──でもただの一度だけ、寝込んだ時がある。
真空夜は、寂しくなると体調を崩すんだ。




