第439話 魔力0の大賢者、聞き覚えのある名を耳にする
「おい、起きろ!」
イロリ先生は倒れているローブ男の頬を平手で打ち──足りないとみるや拳に切り替えた。鈍い音が薄暗い通路に反響し、埃と血の匂いが立つ。
「せ、先生、落ち着いて!」
「落ち着いてるさ。こいつらに情けは要らんだろう?」
表情は氷のように静かなのに、眼だけがぎらりと揺れる。焦りと怒りがせめぎ合う色だ。
数発目で男が呻き、うっすらと目を開いた。先生は胸ぐらをつかみ、鼻先が触れそうな距離で吠える。
「ファインを使って何を企んでいる! 教団の狙いは何だ!」
ファイン──家族殺しで収監中のあの生徒の名。なぜ魔狩教団と結び付くのか?
男は切れた唇を歪ませて笑った。
「フフ……もう手遅れさ。【新世代の子羊】は動き出した。貴様らがここで足掻こうと──」
嫌なざわめきが背筋を撫でた瞬間、空気がきん、と張りつめたのを感じた。直感で先生を抱え、路地の影へ跳ぶ。
男が何かを叫んだその瞬間、白昼の陽光を切り裂く爆音。
圧縮空気が拳のように襲い、熱と破片が壁面を抉った。屋根が跳ね上がり、倉庫の鉄扉が裏側から殴られたように膨らむ。粉じんが嵐のように吹き荒れ、土埃が昼空へ噴き上がる。
衝撃が収まった頃には、教団員の姿も血肉も跡形なく、焦げた路面と捻じ曲がった金属片だけが転がっていた。
「……クソがッ!」
先生が忌々しげに奥歯を噛む。以前、捕らえた司教が命を絶とうとした時と同じだ。
あの時は、電撃を使って息を吹き返させたけど、もしかしてそれが出来ないようにこんな手を? だとしてもやっぱり命を軽んじるやり方は理解できない。
「自分の命を部品みたいに扱って……」
「手掛かりは灰だ。収穫ゼロかよ」
僕の横で先生は拳を震わせた。
僕もやるせない気持ちになっていた。すると裏通りの住人たちが瓦礫の向こうから顔を出す。痩せた女、煤けた少年、古びた上着の老人──この辺りを根城にする面々だ。
「てめぇら、ここで何しやがった」
一番年配の大男が前に出る。肩に手斧、細い目が僕たちを射抜く。
先生は舌打ちし、革袋を懐から取り出す。チャリン、と金貨の重い音。
「巻き込んじまった詫びだ。修繕の足しにしてくれ」
大男は手渡された袋の中を覗き、金貨の光を確かめる。鼻を鳴らし、周囲を見回した。
「……礼は言わねぇ。この通りにも掟がある。だが、筋は通った。二度と騒ぎを持ちこむな。それで良しだ」
「心得てる」
短いやり取り。大男が手で合図すると出てきていた住人の何人かが引っ込んでいった。
「先生……さっきの【ファイン】って」
「質問は後だ。ここで長居は無用だからな」
僕の肩を叩き、先生は踵を返す。背後で老人が瓦礫撤去の指示を飛ばす声が聞こえた。
路地の出口へ向かうと、眩しい日差しと人声が流れ込んでくる。甘い屋台の匂いと喧噪が妙に落ち着く。
そういえば皆はゲシュタル教授と昼食を取りに行ってるんだった。僕も合流しないとだけど、イロリ先生とファインの事も気になるところだね――。




