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(生肉でもおいしいと感じるのは少し複雑だなあ……)
彼は倒した熊の肉を食べている。本当ならば焼くなり煮るなりしたいところであるが、彼には火を出す手段が存在しなかった。そもそも着の身着のままの状態で加工するための道具もないわけである。今の彼であれば木々を無理やりへし折り、枝を使ったいくらかの加工はできなくもないだろう。もちろん加工したところで完璧に素手なので何かを作れるわけでもない。木々を加工するよりはどちらかというと石材のほうが欲しいかもしれない。もしくは歯を利用するのもありだろう。ただ、彼はそこまで思考がいきついていないし、仮に利用するにしてもいきなり使ったこともないものを使おうとしてもうまくは行かないだろう。
(……まあ、食料に関しては置いておこう。今の俺だと確保すること自体は難しくないように思える。捕まえられるかどうかはわからないし、向こうから襲ってこないとやりづらいし、もうちょっとどうにかしないとダメそうだけど……それよりも水、水辺はどこに?)
食料は最悪何とかごまかすこともできる。消化できないものでも食べれば空腹をごまかすことができるだろう。それよりも重要なことに水、水分の摂取がある。これだけは生物の性質上絶対に必須である。まあ、朝露でしのいだり、体液の摂取などで水分の摂取は不可能ではないとはいえ、さすがにそれは彼としても遠慮したところなのだろう。
(とりあえず食事もできたんだし、水を探そう。水、できれば……いや、人里はダメだな。少なくとも俺がなんなのか、人間がいるのかもわからないし、状況を把握してからでないとつらい)
現在優先されることは自分の状態の把握。一応体は見れるのであるが、顔など全体的な特徴を把握できない。総合的にある程度自分の体についてはわかってもうまく顔も含めたうえで統合したい。まあ、舌などを使い口の形など少しくらいの把握はできる。だがやはり全体像での把握をしたいところである。
(さて、水辺を探すか……流石にないはずがないとは思うんだが。森だし。うん? 森に川が流れているって確実ってわけじゃないのか? うーん、そういうのイメージで見ているからなあ……まあなんとか探すしかないか……最悪街道とかでも見つかればその道を調べるとかもありだし。ああ、でも人がいるとも限らないか? 人以外の人……亜人? この場合俺のほうが亜人っぽいんだよな。冒険者とかいる世界だと確実に襲われる……いや、こっちが襲う対象だから向こうが先に討伐するんだろうけどさ)
彼は少なくとも自分が人間でないと考えている。いや、ほぼ確信している。人間に素手で熊と立ち向かい倒せるだけの戦闘能力はあり得ない。見た目も相まって確実に人間ではありえない生物であるだろう。問題は亜人か魔物か魔族か、そういった分野のどれに値するかである。それが人間と敵対的な存在であるのならかなり面倒なことになるのに間違いない。
この世界における生物でもっとも繁栄している種族がなんなのかはまだ判明していないが、彼は自分の元々の世界、および数多くの創作における展開を考慮し、この世界には人類が繁栄しているというふうに考えている。まあ、仮にエルフが繁栄していても彼の場合うかつには近寄れないだろう。もし魔族が反映しているのであればそこまで危険視する必要はないが、魔族は魔族でそれ一個のまとまりではなく、数多くの種族のまとまりである可能性が高いため安全とは言い切れない。つまりは彼自身自分の安全を重要視するのであれば迂闊にこの世界の情報を手に入れないまま他の石ある存在に近づくのはよろしくない。
まあ、そういった心配をする前に彼がまともに生活できるか、生き延びられるかのほうが問題だ。戦闘能力が高く、強靭で頑強である彼でも、生物的な様々な問題は付きまとうし、身体がいくら強くとも生物を殺す手段はいくつもある。毒、耳や鼻や口からの侵入、眼を貫く、呼吸を止める、排泄孔からの侵入、細菌やウイルスや寄生虫、塩や砂糖やアルコールの利用、そういった手段は様々な手法や道具で行える。
(……茸がある。希少な食料! と言いたいところだけど、プロですら厳密に毒のあるなしを見分けるのが難しいうえに、毒なしと思ったら実は毒ありとかもあるからなあ……この体に毒が効くのかもわからないけど。そんなこといったら生物や植物ですら食べられなくなるんだよな。まあ、茸はやめておこう。ドクササコ、カエンタケ、ドクツルタケ、やばいの割とあるからな。幻覚作用とか、アルコールと一緒だとやばいとかならまだ何とかなるかもしれないし、死なない毒ならある程度は……って思うけど、何が危険なのかの見わけもつかないしなあ。果実も安全なものを見分けることができればな……ほかの生物を捕まえて食べさせる、それが一番判別としてはいいんだろうけど、そもそもできないし)
そういった実験に使うよりは直に食べるほうがいいのではと彼は思っている。
(ともかく、まずは水場だ……水、水分、沼とかだとちょっときっついなあ……出来れば清流の川、ダメでも池や湖があればいいんだけど)
贅沢ではある者の、それくらいのものを期待したいところである。
ぐちゃり、と足元にある水のようなものを踏みつける。水のようなと表現されるものであるが当然水ではない。多量の水分を含んだような生き物である。
(うわ……また。粘菌……じゃないんだろうなあ)
彼は先ほどからその水のような何かを何度も踏みつけている。彼は巨体ゆえに、あまり足元に注意を向けられない。彼自身が今の体になれるまでは足元に意識を向け、そこにいる者に注意するのは難しいだろう。もっとも改善したとしてもあまり極端に改善されることはなく、足元の存在への意識はかなり散漫になることは間違いないだろう。
それはさておき、先ほどから踏んでいるのは彼がいう粘菌ではもちろんない。この世界においてはそれなりに一般的なゴミ掃除屋、時に大量発生し時に巨大化し、時に村や町を飲み込むこともある危険性を秘める魔物、スライムである。まあ、そんな大仰な存在になることはめったになく、まともに生物の侵入のない奥地で大きくなったものがその場所から多くの生物が存在する土地に降りてきたときにそんな感じの大災害につながる。とはいえ、生物としてはあまり脅威ではなく、核となる部分さえ破壊すればいい。巨大化すればするほどかくも巨大化し、それを狙い炎で攻撃しまくればいずれは倒せる。また、液体部分は塩や砂糖を塗すことで固形化させばらばらにできる。
(……やっぱりスライム? せめてまともに生きて動いている状態のをみて判断したいな。この液体、飲める……わけないよな。まあ、最悪最終手段にするしかないだろう。しかし、スライムは水辺にいるとか……いや、いくら液体っぽい生き物だからって水辺に棲んでいるとは限らないよな)
そう思いつつ、彼は歩を進める。踏みつぶしたスライムの体液にも元々のスライムの持つ溶解性があるはずだが、彼の肉体の耐久性ゆえか、さほど影響は受けず、問題なく進めている。
(……小人、子供、いや、違う。人間は緑色の肌はしてないよなあ……)
彼の眼には小型の人に似た生物がいる。ただ、その存在の肌は緑色をしており、顔は醜悪で鋭い牙をはやしており、衣服はまともなものを着ていない。ほとんど裸に近く、一応局部こそ隠しているものの、激しく動けば見えてしまいそうである。手には棍棒を持っているが、それをまともに使うような知識はなさそうに思える。
(あれってゴブリンだよな……俺もたぶんああいうのと同じなんだろうな……はあ、ファンタジーの世界なんだろうな、異世界)
この世界に来て初めて見る異形の生物。スライムとは違う、明確な意思のある魔物、魔族、魔人、亜人。そう呼ばれる可能性のあるような存在。それと初遭遇……しそうになったのであった。




