二日目、賢者ナラク
「ふんぎゃっ!」
鏡の中の自分の像に手を掴まれたことへの気持ち悪さに我慢できず、間抜けな叫びをあげてしまう。
ううむ。
知ってはいても感情が発露するのは擬人化された故なんじゃろうな。
こちの意識の深層では何とも感じぬ程度のことでも、身体だけが見た目相応の幼い反応してしまうのはちと不快ではあるが…
今回は誰にも見られてないからセーフじゃ!
さあて、ジョブ魂を貰ってついでに名苻の設定もしておこうかの。
その頃、鏡の世界の外では…
「そう言えば名乗っていなかったね」
千歳碧とテンゴクが二人きりで向かい合っていた。
「私は異世界の巫女、名を千歳碧という。宜しくね。小さな勇者くん」
己の息子に対し初対面を装って他人行儀に接する母親の気持ちとはどのようなものか。
その思いを推し測れる者はそう居ないだろう。
そして、千歳碧は決してテンゴクに真実を告げることはない。
神の代用品たることを受け入れ、母である前に異世界の巫女として生きることを選んだ碧にとって、それを台無しにするという選択はない。
例え、それが何れ程の幸福だったとしてもだ。
だから、見ず知らずの母の心境を察することが出来ないことでテンゴクを攻めることは筋違いなのである。
普段の碧の厳格さからすれば、考えられない程に目元は穏やかでも、頬がゆるんでいたとしても、普段を知らないテンゴクにとっては、愛想笑いで僅かに微笑んでいるだけに思えてしまっても罪はない。
「あっと、ぼくは和堂典語です。典語くんって呼ばれている内に、いつの間にか皆にテンゴクって呼ばれるようになってて、今ではそれも気に入ってるんですけどね」
突然の仏頂面になる碧。
それを見て初対面の大人に変な話をしたばかりか、偉い人に馴れ馴れしくしちゃったかなと、そうテンゴクが考えてしまうのも無理はない。
実際の碧の心中では、名前のせいで苛められてはいないか、嫌がっているようではないから大丈夫か、そうなることまで分かっていて兆の奴は名付けたのではないか、しかし私も気付かなかったのだから不甲斐ない、などと考えていることはテンゴクには知るよしもなかった。
「ふん。それなら名苻を出して異世界での名前をテンゴクと設定すれば良い」
あくまでも興味はなさそうに、淡々と異世界のシステムを紹介していく碧の様子に、テンゴクは今がやはり学校のような公式な場であり、やり取りであるのだと思うのだった。
そして、過去に一切の前例もない、碧によっての直々のチュートリアルが幕を開けた。
その間、十数分。
そう長くはない時間ではあるが、異世界において碧を介する必要のあるシステムは機能を停止していたが、幸いにしてそれが問題となることはなかった。
さて、鏡の中で『賢者』のジョブ魂を得た奈落は、早速に必要な設定を済ませ、それが十分に機能することを体感した。
「そろそろ出るかの」
そう呟いて、鏡の外へと走り出す。
勿論、テンゴクと碧がある程度の会話を済ませ、名苻とステータスの設定を終らせた丁度良い頃合いを見計らってのことである。
擬人化したアカシックレコードである奈落にとって、全ての行動や環境は想定通りのこと。
更に、その天職『賢者』によって、リアルタイムでの情報処理能力を向上させている今、自身の視点だけでなく、他者の視点を含むだけでもなく、ありとあらゆる場所の状況を同時に把握し、まるで三人称視点の小説の語り部のように思考することが可能なのである。
このように、アカシックレコードの記録を『賢者』によって処理することが、奈落の真骨頂と言えるだろう。
その欠点といえば、奈落の自身の感情が希薄となることくらいである。
しかし、それも時と場合によっては役に立つことがある。
例えば今、鏡の中の自分の像に手を掴まれても、今度は間抜けな叫び声をあげずに済んだのだから。
そして、鏡の外へと出た奈落は『賢者』のジョブを解除した。
「ただいまなのじゃ!」
こちは帰ってきた勢いでテンゴクへと飛び付いた。
「おかえり!」
飛び付くこちを軽く受け止め抱えたままで、くるりと半転、衝撃をいなして地面へとおろしてくれたテンゴク。
うむ。
こちの小さな体だからこそ可能なスキンシップだと言えよう。
それにじゃ、やはりジョブ魂を解除した状態は良いものじゃな。
自身の感覚と感情で思考を一杯にできることが、なるほど、至福なことだと実感できたのじゃ。
抱っこは良いものじゃな!
過去から未来まで全てが記録されているアカシックレコードであるナラクちゃん。
『賢者』のジョブ魂の能力が加わることによって三人称視点で思考することが可能になりました。
はい、作者にとってこの『奈落編』は三人称視点で小説を書く練習みたいな作品です。
もっとも、実際に三人称視点で小説を書く予定がありませんけど。




