4話
二日後、体育祭当日。
右足首を痛めた先川は、やはり大縄跳びに参加できる状態ではなく、クラス席での見学を余儀なくされた。
症状は軽い捻挫らしく、数日安静にしていれば治ると友人達には話していたが、学校に通う以上、どうしても移動という問題が付き纏う。
一人でも歩けるようだが、怪我をした右足を庇って歩く様は見るからに大変そうで、友人達が率先して手を貸していた。
先川が怪我をした原因は、大縄跳びの練習中に足をもつれさせた女子が、先川を巻き添えにして倒れてしまったことらしい。
そちらの女子は、絆創膏で事足りる擦り傷が掌にできた程度で済んだようで、ただ巻き添えをくらっただけの先川は日常生活に支障をきたしている。
誰かを責めるべきではないのだろうが、不公平だとか、理不尽だとか、つい思わずにはいられなかった。
開会式で整列している最中、一人居心地悪そうにクラス席で小さくなっている先川を「楽そうでいいな」と軽い気持ちで羨む声に、それならお前が怪我をすれば良かったんだ……などと、絶対に思うべきではないのに。
少しでもそんなことを考えてしまうのは、不意に覚える息苦しさの八つ当たりに他ならない。
先川が怪我をしたあのときから、傍観してしまったことへの後ろめたさが、しこりとなってずっと胸の中に残っている。
これは、罪悪感というものだろう。
もしあのとき俺が駆け寄っていたとしても、なぜ山下が? と周囲に余計な混乱を与えていただろうから、どちらにせよ動くことはできなかった。
混乱の尻拭いが俺に降り掛かるだけならいいが、否応なく先川にも向いてしまうことは簡単に想像できた。
考えれば考えるほと、俺が動くべきではなかったことに理屈付けられるが、それでも罪悪感は消えなかった。
どんな理屈も、自分の為の言い訳に思えてしまうのだ。
「それでは、クラス席の前に応援旗を広げてください」
開会式が終わり、生徒達が一旦クラス席に戻ると、進行係りがアナウンスで指示を出す。
俺のクラスの応援旗は、クラス席で待機していた先川に預けられていた。
応援旗の作成班の奴等がそれを受け取り、グラウンドから見えるように張っていく。
「おお! すげぇ!」
グラウンドとクラス席を遮るロープを跨ぎ、向こう側から応援旗を見た土田が、突然はしゃいだ声を上げた。
俺達、競技の出場者のほとんどは、当日まで応援旗を見ることはなく、その出来栄えを知らない。
土田の声につられ、同じように向こう側へ行き応援旗を見た奴等も、同じような反応を見せていた。
「見てみろよ一弘! これ凄いぞ!」
前島に引っ張られ、ロープで足を引っ掛けそうになりながら、俺も応援旗が見える位置まで移動する。
「な!? 凄いだろ!」
応援旗を見て、土田や前島がはしゃぐ訳が理解できてしまった。
「…………すげぇ」
思わず、俺も無意識にそう零していた。
応援旗のデザインは、走る男子と女子の黒のシルエットをメインにしたもので、陳腐な表現だが、疾走感がある応援旗だった。
足に自信のある奴が多い、このクラスらしさがある応援旗だ。
「このデザイン、真智が考えたんだよ。男子は特に自主練習も頑張ってたみたいだし、学年トップもいるからって」
「そうなの!? 真智すごーい!」
昨日、先川に真っ先に駆け寄った友人、佐田 理歌が先川を自慢するように言うと、その事実を知らなかったらしい別の友人が先川を褒めた。
「私は全然だよ。下書きとかは美術部の人がほとんどやってくれたし」
まっすぐな賛辞を向けてくる友人に、得意げな顔をすることなく謙遜した先川だったが、応援旗を見て喜ぶクラスメートの反応を見ると、嬉しそうに笑っていた。
もう一度、応援旗を見る。
それを見ていると、罪悪感とか、八つ当たりとか。そんな荒んだ気持ちが凪いでいくような気がした。
代わりに、別の気持ちが湧いてくるのだ。
「第一種目は借り物競走です。出場者の方は、入場門に集合してください」
アナウンスにより収集の声が掛かった。
出場者ではない俺達はクラス席に戻り、各々の席に座る。
少しして出場者が配置につき、第一種目の競技が始まることとなった。
それから、定番の競技から色物の競技まで、体育祭は順調に進められ、昼休憩を挟み午後の部へ。
怪我人が出ることもなく、午後の部もトラブルなく進み、有志による創作ダンスや騎馬戦などの盛り上がる競技が終わり、あっという間にリレーと大縄跳びを残すだけとなった。
「男子リレーに出場する方は、入場門に集合してください」
「……よし! 行こうぜ、一弘!」
「あぁ」
アナウンスが掛かり、俺は入場門へ向かった。
そこからクラス席を一瞥し、もう一度応援旗を見遣る。
何も考えず、今は走るだけでいい。
誰かにそう言われているような気がした。
応援旗を見て、思い切り走ろう、絶対に一位を取ろう、という気持ちが湧いた。
たくさんの声援が、それぞれのクラスの出場者の為に送られる。
特別大きな声。通りやすい声。特徴のある声。
そんな声でもなければ、大勢が一気に上げた声の中から、一人の声を聞き分けることは不可能だ。
アンカーを任せられた俺がバトンを受け取った瞬間に上がった歓声、ゴールまであと少しというところで聞こえた声援。
それらの中に、先川の声があったのか、俺には知ることはできない。
だが、ゴールテープを切った後にクラス席を見てみれば、みんなと同じように笑顔で拍手をする先川の姿があった。
そんな姿を見たとき、俺は達成感でいっぱいになった。
その後の大縄跳びはあまり上位に食い込むことはできなかったが、総合成績は三位。応援旗は見事、一位を取ることができていた。
前島達は悔しがっていたが、俺は満足だった。
閉会式を終え体育祭が終わった後、自分たちが使った椅子や応援旗などといった簡単な片付けを済ませれば、会場の片付けは翌日に持ち越しで、生徒は解散となっている。
行事が終わると、何かと打ち上げをやりたがる奴等も、さすがにこの行事のあとはまっすぐ下校するようだ。
例に漏れず、俺も前島達と少し雑談をした後すぐに下校し、今はもう駅に着いている。
改札を潜り、自宅方面の電車が来る駅ホームへ向かおうとしていた俺だが、ぎこちない歩き方をする人影が視界に入り、つい足を止めて目を向けた。
「さ……っ」
思わずその人物の名前を声に出しそうになり、慌てて飲み込んだ。
壁をなぞるように端をゆっくり歩いているのは、学校から駅に着くまでの道のりでは見掛けなかった先川だった。
歩行速度から考えて、俺が学校を出るよりずっと先に出ていたのだろう。
ゆっくりでしか歩けない先川と、さっさと歩ける俺が駅に着くタイミングが重なったとのだと思われる。
(おいおいおい……)
人にぶつからないよう、かつ足を庇いつつ歩く先川は、見るからに危なっかしい。
先川の進行方向にある駅ホームは、俺がアルバイト先へ向かうときに使う路線だ。
ということは、階段を上り、電車が到着した瞬間は混雑する連絡通路を通り、階段を降りなければならないということだ。
「……っ……」
考えるより先に、体が動いた。
今日はシフトを入れていない俺が乗る電車は、今背を向けた方向にある駅ホームに来る電車だ。
俺がこんなことをする必要はない。関係ない。お節介。
歩き出してしまった後になって、浮かんでくる。
話したこともない男子が、後をつけているような図だ。もし気付かれてしまえば、気持ちがられてもおかしくない。
それでも、引き返したくはなかった。
今引き返せば、きっとまたあの罪悪感を感じることになる。
先川の様子から、足を痛めていることを察してくれた奴等は向こうから避けてくれるが、よそ見をしている奴等も多く、何度もぶつかられそうになっている。
その後も何度かひやりとさせられ、ようやく駅ホームに辿り着いた先川が、停車中の電車の一番近い車両に乗り込んだ。
最後尾まで行かなかったのは、そこまで歩く余裕がなかったからなのだろう。
電車に乗り込んだところまで見届ければいい思ったが、先頭車両に近いその車両は比較的混む車両だ。
もう、どうにでもなれと思った。
半ばやけくそになりながら、俺も電車に乗り込む。
懸念通り、一駅、二駅と停車する度に次々と乗客が乗り込んで来くるため、座席はとっくに埋まっている。
数人分離れた位置で立つ俺だが、次の駅に着けば、立ち乗りの乗客も溢れてくるだろう。
もうすぐ次の駅に到着することを知らせる運転手のアナウンスが聞こえると、先川は何故かきょろきょろと周囲を気にするような素振りを見せた。
(おいおい……まさか)
杞憂ならそれでいいが、杞憂で終わらない気がする。
次の駅に到着し、一気に乗客が乗り込んで来ようというとき、荷物を持ち直した先川を見て、それは確信に変わった。
年配の乗客や子供が立っているのを見て、座っていられない性分だというのも察した。
だが、それは自分が怪我人でない場合のみにしてほしい。
先川が立ってしまわないよう、俺は意を決し先川の前に移動した。
「……?」
突然目の前に立った俺を、先川は驚いたように見上げた。
「先、川さん……だよな。体育祭、お疲れ」
俺がここに立ったのが自然に見えるよう、出来うる限り、さり気なさを装って。そう声を掛けた。
目が合うのも。声を掛けるのも。これが初めてだ……。
「うん。お疲れ様」
混み合う電車内。意識して小声で返事をした先川の声は、とても静かで、優しかった。