11話
もし先川が少女漫画のヒロインで、俺が結ばれる運命にある相手だったなら。
肩を叩いて労わるのではなく、抱き締めていたのかもしれない。
抱き締めて、気の利いた言葉の一つでも掛けてあげられたのかもしれない。
早い段階で想いを自覚して、これまでの機会の内にもっと距離を縮めて、今頃は想いを伝え、両思いになれていたのかもしれない。
だが、俺は漫画の登場人物ではなく、現実で生きるただの男子高校生だ。
もっと早く自覚していたとしても、俺は恐らく、どうすることもできなかっただろう。
俺が急に先川と関わろうとしたら、どうなるか……。
何故だと疑問に思う奴が出てくる。
疑問に思う奴が出てくれば、理由を知ろうとする奴が出てくる。
俺が理由を話さなければ、自ずと追及の矛先は先川に向かう。
理由を知られてしまったなら、もっと厄介なことになるだろうことは想像に容易く、恐ろしい。
ただの好奇心ならまだ対処のしようもあるが、いつ、誰が、どんな目を先川に向けるか分からない。
悪意ある目を向ける奴が出てきてしまったとしたら。
そのせいで、先川が傷付くことになってしまったら……。
俺には、少女漫画のヒロインと結ばれる男のような、周囲を黙らせるカリスマ性はない。
あったとしても、それは相手が俺と同じ気持ちでいてくれた場合で、互いが固い意志を持っている場合でなければ、所詮俺の独り相撲でしかなくなるのだ。
さらに言うならば、先川の気持ちが少しでも俺に向いていたとしても、理不尽な悪意に晒されれば、芽生えたばかりの淡い想いは萎んでしまうだろう。
先川が傷付くという結果だけを残して。
先川には、あと半年と少しで終わる高校生活を平穏なまま過ごしてほしい。
想いを伝えたいという欲求よりも、その願いの方が俺の中では勝っていた。
自覚した日の夜、そう考えを巡らせた俺は、この想いを告げないことに決めた。
今まで通り。表立って関わり過ぎず、隣の席になったクラスメイトとして過ごそうと。
もし、他の誰かが先川を好きになったとしても。
もし、他の誰かが先川に想いを伝えたとしても。
数ヶ月越しに自覚した一目惚れは、せめて卒業までは……。
俺の中にしまっておこうと。
「昨日の放課後、誰かが救急車で運ばれたらしいよ」
「誰なんだろう。救急車が来たって話は聞くけど、誰なのかっていうのは聞かないよね」
「運動部の奴じゃね? まだまだ暑いし、熱中症とかでさ」
翌日、学校では昨日誰かが救急車で運ばれたという話が広まっていた。
しかし不思議なことに、運ばれたのが誰なのかということは広まっていないようで、俺のクラスでも知っている奴はいなかった。
一人を除いて。
「おはよう、山下君」
「おはよう、先川」
俺が、好きになった人。
佐田と話していた先川だが、俺が隣に来ると話を中断し、律儀にも挨拶をしてくれた。
雨に濡れて風邪を引いていないか気掛かりだったが、顔色を見る限りは大丈夫そうだ。
「おはよー、山下」
「おはよう」
佐田からも挨拶を受け、それに返して席に着くと、佐田が何やら訝しげに俺を見てきた。
「……んー」
「何?」
「んーー……。山下って、真智のこと呼び捨てにしてたっけ?」
「…………!」
視線の意味を尋ね、返ってきた言葉の意味をすぐには理解できなかったが、数秒考えた後、俺はさっそく失敗したことに気付いた。
俺は先川を呼ぶとき、必ず“さん”と敬称を付けていたのだが、昨日、緊急事態だったために咄嗟に呼び捨ててしまってから、つい敬称を外したまま呼び続けてしまっていたらしい。
想いは隠し、表立って関わり過ぎず、隣の席になったクラスメイトとして過ごす。
そう決心した矢先の失態に、俺は内心、頭を抱えていた。
「それに、真智も。その怪我どうしたの? 膝と手の甲の傷なんて、普通に転んだんじゃできないと思うんだけど」
佐田がこんなに鋭い奴だとは知らなかった。
先川も、「しまった」と言うように自分の手を見て、反射的にだろう。怪我の理由を知る俺へ視線を向けた。
俺が先川を呼び捨てにしたままでいるのは完全に俺の落ち度で、俺がどうにか言い訳をしなければならないのだが、先川の怪我はどう説明したものか。
怪我の説明をするということは、否応なく、如月の件に触れる必要がでてくる。
誰に口止めされたわけでもないのだから、昨日のことを隠しておく義務はないのだが、騒がれることを嫌う如月だ。
可能なら、昨日のことが知れ渡るのは避けたいはずだ。
先川もそう考えていたから、“こんな”反応になったのだろう。
「じ、実は……」
佐田の追及に耐えられなくなったのか、先川がおずおずと口を開いた。
俺はともかく、先川は佐田と一日中行動を共にしている友人だ。
嘘をつき、後々本当のことが知られてしまったとき、気不味くなっては困るだろう。
先川が吐露しても、責められない。
「昨日、掃除しているときね……」
目を泳がせ、大判の絆創膏が貼ってある手の甲を摩り、先川は意を決したように佐田をまっすぐ見据えた。
「如月君が箒を片付けようとしてロッカーを開けたら、上の棚に乗せてあった雑巾が降ってきてね、つい条件反射でキャッチしようとして、滑り込んで……」
こうなりました。
まるで刑事に自分の罪を白状するかのように、そう言って両手の甲を佐田に見せる先川に、俺は唖然としてしまった。
全てが嘘ではない。
如月が箒を片付けようとしていたのも、物は違えど先川がキャッチしようとしたのも本当だ。
ただ、これでは佐田にからかうネタを与えるようなもの。信じてもらえる確証もなく、随分な捨て身の戦法だ。
「ぷっ。真智ならあり得る」
信じてもらうことは難しいだろうと思った俺だが、何と、佐田はあっさりと先川の話を信じてしまった。
「そ、そうなの。ドジしちゃったの……っ。そのとき山下君が庇おうとしてくれてね、咄嗟のことだったから呼び捨てになったんだと思うんだ。ね? 山下君」
普段、佐田の前でどんなドジをしているのか。
三年生でようやく先川を認識した俺には到底分からないが、あの誤魔化しが通用するくらいには、凄いドジをしてきたらしい。
先川は俺へのフォローも入れ、極め付けとばかりに俺に同意を求めてきた。
本当は、先川の名誉の為にも否定してやりたい。だが、ここは涙を飲んで、先川の意を汲んでやらなければならない。
「あぁ……そうだ」
「何よ山下、その反応! 真智どんだけ凄いヘッドスライディングしたのよ、もう! 」
けらけらと笑う佐田に、恥ずかしそうに空笑いする先川を見て、俺は心の中でその健闘を讃えていた。
笑いはしたが、友人思いの佐田だ。
痕が残ったら大変だから気を付けなさい。と、ひとしきり笑った最後には、心配する言葉を口にしていた。
「うん。ありがとう」
先川は、佐田の言葉に嬉しそうに笑っていた。
「あ。如月」
「……!」
「……!?」
今日は何度、佐田に肝を冷やされなければならないのだろうか。
一体いつからそこにいたのか。振り向くと、教室の後ろの扉から入って来たらしい如月が立っていた。
正直に言って、今日は如月の顔を見ることになると思っていなかった。
昨日倒れ、意識は戻ったとはいえ救急車で運ばれたのだ。今日くらい欠席すると、誰もが思うだろう。
一限どころか朝のホームルームにも間に合うように来るなどとは、誰だって思うわけがない。
俺を見下ろしていた如月と目が合うが、特に何を言われることもなく。
同じく振り向いた先川へ目を向け、やはり何も言うことなく。
如月は自分の席へ座った。
「……ねぇ、なんか今、二人のこと見てなかった?」
「さ、さぁ……」
こちらに顔を寄せ、小声でそう尋ねてきた佐田に、俺と先川は同じ反応をして頬を引き攣らせるのだった。
その日一日、昨日の件について如月から触れられることもなく、何事もなく過ぎていった。
如月の顔色は良く、具合が悪そうな様子は一切ない。
昨日倒れたのが嘘のようで、授業中は教師以外の視線がないのをいいことに、俺と先川は顔を見合わせ首を傾げた。
回復したのなら何よりだが、先川にくらい礼を言うなり事情の説明なりしたらどうなのかと思ってしまうが、常に誰かがいる教室ではそんなタイミングはないと、狭量な自分を諌めた。
放課後、さすがに掃除はせずに帰るだろうと思っていたが、如月はきっちり掃除にも参加していた。
ここまでくれば、こちらがやきもきしていても仕方がない。
大したことがなくて良かったと思うしかないだろう。
一日、如月が元気そうに……と言っていいのか定かではないが、少なくとも倒れそうな様子なく過ごしているのを見て、先川は肩の力を抜くことができたようだ。
昨日のような事態になることもなく無事に掃除が終わり、先川は佐田が部活に向かうのを見送った。
あとは帰るだけとなれば、如月はいつものように足早に帰るだろうと思っていた……が。
「先川、山下」
「……!?」
「へ!?」
如月に呼び掛けられ、俺はあからさまに驚いた顔で振り向いてしまい、先川は肩を跳ねさせ、声がひっくり返ってしまっていた。
「……お前等。この後、何か予定あるか?」
「ないけど……」
「な、ない……です」
確かに、先川に礼くらい言えと思ったが、実際に如月から声を掛けられると、何事かと思ってしまう。
それくらい、如月が誰かに声を掛けるということが珍しいことなのだと、改めて実感した。
「それなら、ちょっと付き合ってくれないか……?」
俺と先川と同じく、俺達を窺うような声でそう言った如月に、俺と先川はぎこちなく頷いたのだ。




