10話
背中を打ち付ける衝撃を、痛いと感じている暇もなかった。
倒れた如月と、如月を庇おうとした先川が俺の下にいるのだ。いつまでも蹲ってはいられない。
「き、如月君……如月君!」
俺が身を起こすと、先川は震えた声で必死に如月に呼び掛けた。
先川のこんな大きな声は、聞いたことがない。
あのときの溜息は先川のものではなく、如月のものだったらしい。
先川が如月へ視線を送っていたのは、奴の不調を感じ取ったからなのだろう。
如月の顔色は悪く、呼び掛けへの反応もない。
微かに……本当に微かに、瞼が動いたように見えたが、気が動転してしまっている先川はそれに気が付いておらず、泣きそうな顔で震えていた。
「先川、俺が先生に知らせてくる。すぐに戻るから、如月に声を掛けてやって」
「や、山下君……っ」
「大丈夫。すぐに戻るから。如月を頼むな」
如月が倒れた原因は、俺達のような素人目には分からない。
俺達にできるのは、このことを少しでも早く教師に知らせること。
俺の指示に、先川が動揺収まらぬ様子ながら何度も頷いたのを確認して、俺はすぐに走り出した。
本当は、先川を一人で残すのは気が引けた。
だが、確実に俺の方が早く職員室へ到着できるし、何より、動揺している先川では途中で転びかねない。
俺も俺で動揺していたが、俺がやるしかないと思ったのだ。
ノックもせず職員室に飛び込んだ俺は、近くにいた教師に、如月が倒れたという要点だけを叫んだ。
俺の慌てようと、人が倒れたという事実が分かれば、十分状況が伝わったようで、誰かが場所はどこかと俺に尋ね、誰かが保険の安藤先生に連絡しますと名乗りを上げてくれた。
職員室にいた男性教師数人と、駆け下りて来た階段を逆戻りし、俺は先川と如月がいる教室へ戻って来た。
「先川! 如月は!?」
「山下君!」
教室へ戻ると、俺が出る前と同じく、如月の頭を支えた体勢のまま先川が待っていた。
一つ、さっきまでと違うのは、如月が目を覚ましているということ。
「さ、さっき意識が戻って、声も、ちゃんと出るみたいで……それで、あの……」
「先川、大丈夫だから。先生、呼んだからな」
「う、うん」
どうやら、俺が教師を呼びに行っている間に如月は意識を取り戻したらしく、程度は分からないが、会話もできるらしい。
遅れて教室に入って来た教師が、如月の様子を窺っていく。
自分の名前。今、自分がいる場所。倒れる前に何をしていたのか。
それらの問いに、如月は力の入らない声ではあるが、間違いのない答えを返した。
意識は正常であることが分かり、やっと少しだけ安堵できた。
しかし、一人で立つことは厳しいようで、如月は教師に抱えられ、保健室へ運ばれて行った。
俺と先川も、詳しい状況を聞きたいからついて来るようにと言われ、保健室へ向かうことになった。
保健室に到着すると、如月はすぐにベッドに寝かされた。
如月の意識が戻ったことで、先川も少なからず安堵したのか、大分落ち着いた様子で如月が倒れる前の状況と、俺が教室を出た後の説明をしていた。
怠そうに見えたから様子を見ていると、顔色が悪いことに気付いたこと。そのすぐ後に如月が意識を失い、倒れてしまったこと。
俺が教室を出た後、呼び掛けている内に如月の意識が戻り、すぐに声も出せていたようだということ。
「如月君、もうすぐ救急車が来るから。それまで安静にしていなさいね」
「……別に、大丈夫です」
「大丈夫じゃないから倒れたんでしょう。ご自宅にも連絡したから。すぐにお母様が来てくださるそうよ」
救急車と聞き、渋る様子を見せ起き上がろうとする如月だが、保険医に一喝され戻されていた。
「それじゃあ、二人はもう帰って大丈夫よ。素早い対応をしてくれて助かったわ」
事情も説明した。如月も保健室に運ばれ安静にしている。
あとはもう、俺と先川にできる事はなく、お役御免を言い渡された。
「よろしくお願いします」
先川はそう言って、深く頭を下げた。
誰を。何を。と敢えて言わずとも、それが如月のことを指していると分からない奴はいない。
「お願いします」
俺も先川に習い軽く頭を下げ、二人で保健室を出ようとした……のだが。
「先川、ちょっと」
俺は先川の腕を掴み、引き止めた。
「山下君? 何?」
「何じゃないだろ。それ、手と膝」
俺に指摘された箇所を見た先川は、目を丸めていた。
自分でも気付いていなかったのだろう。手の甲と右膝から血が出てることに。
「そっか……滑り込んだときに擦っちゃったんだ」
「先生、手当てお願いします」
「ううん。これくらい大丈……」
「大丈夫じゃないだろ。いいから座って」
遠慮する先川を、有無を言わせず椅子に座らせる。
つい強い口調で言ってしまったが、このままにしておくことは絶対にできなかった。
「そうよ先川さん。こういう傷は放っておくと、あとから地味に痛くなるんだから」
「で、でも救急車がもうすぐ……」
「来る前に済むから大丈夫よ。ほら手を出して」
保険医に優しく促され、先川は大人しくされるがままになっていた。
「ありがとうございました」
手当てが済み、今度こそ俺と先川は保健室を出たのだった。
帰り道、俺と先川の間に会話はなかった。
何となく気まずいと感じてしまうのは、先ほど保健室で強い口調になってしまったせいだろう。
苛々したわけではなく、ただ心配だっただけなのだが、言われた方からしてみれば、そうは感じなかったかもしれない。
恐がらせてしまったかもしれないと思うと、謝る為に声を掛ける勇気も萎むというもので……。
学校から駅までの道を、だらだらと半分も無言で歩いてしまった。
それが余計に、怒っているからだと勘違いに拍車を掛けていそうだ。
「……山下君」
「……!な、何?」
話し掛けなければと自分を奮い立たせたていると、先川の方から呼び掛けられ、俺は上擦った声を上げてしまう。
先川はそれを気にすることなく、一言。「ありがとう」と言ったのだ。
「え……何で」
率直な感想だった。
如月からなら感謝の言葉も理解できたが、俺は先川には何もしていない。
感謝される理由が、見つからなかった。
戸惑う俺をよそに、先川は言葉を続けた。
「私、動揺しちゃって何もできなかったけど、山下君がすぐに動いて助けてくれたから。凄いなって、今改めて思って」
「……そんなことないよ」
先川からの純粋な賛辞を嬉しく思うのと同じ分だけ、どこからともなく罪悪感が湧いてくる。
如月が倒れたとき、すぐに対応できた俺を褒めてくれる先川だが、体育祭の二日前、先川が怪我をしたとき。
俺は、何もできなかった。
あの日の先川に対しての俺は、先川が褒めてくれるような奴ではなかったのだ。
先川に嘘をついてしまっているような……。
そんな気がしてならず、俺は賛辞の言葉を素直に受け取ることができなかった。
「あのね、私……バイトでもそうだったんだ。今年の春くらいに、お客さんの忘れ物を届けに走ったことがあったんだけど……」
素っ気ない返事しかできなかった俺に、先川は更に続ける。
先川が話し始めたのは、俺が先川を知るきっかけとなった、あの一件のことだった。
どきりとして、生唾を飲み込んだ。
「走ったまでは良かったんだけど、その後どうすればいいのか分からなくなっちゃって。お客様、お客様、って呼ぶことしかできなかったんだ。だから、もし今度、目の前で誰かが困っていたら、すぐに動けるようになりたいって思ってたの。それなのに、今日も咄嗟に動きはしたけど、結局何もできなかった……。でも、今日は山下君がいてくれたから」
「……俺?」
「うん」
自嘲するような声色だったのが、聞き間違いでなければ、俺の名前が出た辺りから安堵したような声に変わったように聞こえた。
そこで先川の顔を見ようと目を向けた俺は、さっきからずっと先川と目を合わせていなかったと気付いた。
先川は、安心して力が抜けたような表情で、目に涙を滲ませ、笑っていた。
「山下君が指示を出してくれて、先生を呼びに走ってくれたから、如月君のことをすぐに先生に伝えられた。それだけじゃなくて、如月君と一緒に、私のことも庇ってくれた。本当に、ありがとう」
「…………」
先川の言葉を聞いた俺は、すぐに口を開くことはできなかった。
先川の言葉で思い出した背中の痛みは、先川が言ったように、俺が如月を助けようと……先川を助けようと動くことができた、証拠のように感じた。
「俺こそ……ありがとう」
「ふふ。何で山下君がお礼?」
「何でもだよ」
「そっかあ」
「あぁ……」
いつの間にか止めてしまった歩みを再開し、泣きそうになっていた先川を労わるように軽く肩を叩くと、もう一度「ありがとう」と言われた。
「……ん? え、嘘っ」
先川が空を見上げるから、俺も見上げてみれば、ポツリポツリと水滴が頬に落ちてきた。
雨だと思う間もなく、大粒の雨が俺と先川に降り注いできた。
「天気予報では晴れだったのに!」
「天気雨だな……っ」
ここから駅まで、この道にはコンビニがなく、傘を調達できそうな店がない。
怯んではいられない。
俺と先川は同時に走り出し、駅へ向かった。
普段は迷惑極まりない通り雨。
だが、今は少しだけ有り難かった。
今はゆっくり歩くのではなく、思い切り走りたかったから。
駅に着いた頃にはお互いずぶ濡れで、風邪を引かないようにと同じ言葉をお互いに送り合い、それぞれが自宅に向かうべく電車に乗り込んだ。
ハンドタオルで顔と頭くらいは拭けたものの、制服は洗濯した後のような有様。
帰宅し、シャワーを浴びようかとも思ったが、運悪く、一足先に帰宅した姉が一番風呂にありついたばかりだった。
仕方がなく、着替えだけでも済ませようと部屋に戻り、肌に張り付く鬱陶しいワイシャツを脱ぐと、背中にピリッとした痛みか走った。
鏡で背中を見ると、金具で引っ掛けたような小さな傷があり、血は出ていなかったが赤くなっていた。
部屋着に着替え、うつ伏せでベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。
視界が暗くなると、ある一人のことが頭に浮かんできた。
何故、目で追ってしまうのか。
ずっと疑問に思っていたことが、分かった。
答えに近い理由に辿り着いていながら何故、核心に辿り着く前に満足していたのか。
「……鈍感野郎」
唸るように絞り出した声は、自分でも呆れ返るほど、情けない声だった。




