1話
名前も知らなければ、顔も知らない。
同じ学年で、ましてや同じクラスだということすら、記憶にあったかどうか定かではない。
それくらい、俺と彼女の接点はないに等しかった。
一クラス、三十人弱。それだけいれば、いろんな奴がいる。
目立つ奴。元気な奴。真面目な奴。気弱な奴。調子のいい奴。
それぞれ気の合った者同士が纏まって、いくつかの塊を作る。
大きな塊。中くらいの塊。小さな塊。それ等のどの塊にも属さない奴もいる。
一年生と二年生で何度かの取捨選択が行われ、三年生になった今はその最終形と言えるだろう。
俺は、ときに誰かに背を押されるように。ときに周囲を固められるようにされ、大きな塊に属している……と、周囲には認識されている。
対し、彼女が属しているのは、小さな塊の中でも特に小さな塊だった。
同じ空間にいながらも、正反対の塊は学校行事でもなければ関わり合うことはない。
俺が彼女、先川 真智に話しかけたことがないのも。彼女から話しかけられたことがないのも。必然だ。
そんな事実に気付くことすら、あの一件さえなければ、本来ならなかったことなのだ。
俺が彼女を知ったのは、一学期が始まり、二週間経った頃。
休日の夕方、アルバイト中の先川を見掛けたときだ。
当時の俺は、まだ彼女を同じクラスの生徒だと認識していなかったため、彼女を見掛けたというより、アルバイト店員の咄嗟の行動を目撃した……と表現した方がしっくりくる。
先川が取った行動は、接客業をしていれば体験していてもおかしくはない出来事の中で見られた。
喫茶店でアルバイトする先川は、店を出たばかりの客の忘れ物を、あとを追い掛けて届けた。
人を相手にする仕事だ。忘れ物をする客の一人や二人、普通にいる。
忘れ物をした客がまだ店を出たばかりだと分かっていれば、追い掛けて届けることも、また然り。
その光景自体は特別珍しい光景ではない。ただ、頻繁に見られる光景というわけでもない。
少しだけ珍しい光景を見た。その程度の認識だった。
翌日、案外覚えていたらしい店員の顔と、同じクラスの女子生徒の顔が一致したことには、思いのほか驚いたが。
これが、彼女を先川 真智だと認識した瞬間だ。
先川は、普通を絵に描いたよう奴だった。
容姿に派手さはなく、かと言って地味とまではいかない、良くも悪くも平均値。身長、体型、何を取ってもだ。
授業態度を見ても、友人と話す様子を見ても、同じ感想を持った。
俺の周りに集まる、大きな塊に属する奴等は、それはそれで今時の普通に当てはまるが、先川はそれとは全く違うタイプでの普通だった。
アルバイト中の一件を目撃していなければ、大人しい奴という感想くらいしか持たなかっただろうが。
先川がどんな奴なのか、薄ぼんやりと分かり始めてくると、俺は鈍くも先川を目で追っていたことに気が付いた。
誰かに気取られる前に気付けたのは幸いだった。
十代の男女は、こういったことをすぐに邪推する。
好きなのかと茶化され、無駄に騒がれるに決まっている。
そうなっては面倒極まりない。
違うというなら、何故目で追ってしまうのか?
そんなの、俺が聞きたいくらいだ。
「山下くーん。今日の放課後、うちらとカラオケ行かない?」
「私が奢っちゃう!」
甲高さが目立つ大きな声に呼ばれ、俺はそちらに意識を向け、内心げんなりした。
今は昼休み。昼食を食べ終え、トイレに行った友人が帰って来るのを一人で待つ俺に声を掛けてきたのは、大きな塊に属する女子二人だった。
一歩街に出れば五万といる、その時代の流行を体現したようなタイプの女子高生。彼女等に持つ印象は、そんなところだ。
「やめとく。今日バイトだから」
こういった相手に曖昧な返事をしてはいけないということは、今までの経験から分かっていた。
「えーー!」
「一日くらい休んでもいいんじゃない? ね、行こうよぉ」
こちらの事情を説明しようと、お構いなしに無責任なことを言い、食い下がってくる。
大きな声でのびのびと意志を主張するのは悪いことではないが、勝手な主張でこちらの用事を潰そうとするのは、いかがなものか。
このタイプの女子全員がそうだとは言わないが、理屈が通じない会話は妙に神経を使い、疲れる。
「無理」
淡白な返事も、日頃会話に応じている相手であれば、寧ろ素で接してくれたと解釈され、冷たいとは思われない。
それはいいことなのか、悪いことなのか。
半ば本気で言った拒否の言葉は、この二人には届いていないようだった。
高い声で耳が痛い。その内、頭まで痛くなりそうだ。
「はいはいはーい。一弘はそういうことするの嫌いだから。素直に諦めて、お席に戻りましょうねー」
本格的に頭痛がする前に、友人の声が女子二人の言葉を遮るように割り込んできた。
「何よ前島、あんたはお呼びじゃないわよーだ!」
「ははっ。仕方ないなぁ。じゃあ山下君! 今度は一緒に行こうね!」
「ひっでーなお前等! さっさと席戻れ! しっし!」
「前島うっざー!」
「あはは!」
友人の登場によって、少し騒がしくはなったものの、ようやく誘いから解放された。
女子二人が離れたのを確認すると、大きな溜息が漏れた。
「いやぁ。山下 一弘君は本当におモテになる。おモテになるのも考えものですなぁ」
俺を肘で突いて茶化してくるこいつは、俺が帰りを待っていた友人、前島 善人。
調子のいい奴だが以外と気配りのできる奴で、何だかんだ今のように助けられることも多く、入学してからずっと付き合いが続いている友人だ。
「嬉しくねぇよ……」
前島の軽口は半分が冗談で、半分本気だ。
自分で思っていたよりも疲れた声が出た俺の肩を、前島は励ますように無言で軽く叩いた。
容姿を褒める言葉は、子供の頃は毎日のように掛けられていた。
ご近所さんの主婦や、同級生の女子、スーパーのおばさん等。
子供の頃は、格好いいと言われることが素直に嬉しかった。アニメで観て憧れた正義のヒーローと同じようになれた気がしたからだ。
しかし、嬉しかったのは途中までだった。
代わる代わる容姿への賛辞を浴びせられれば、余程の鈍感でもなければ嫌でも自覚するが、鏡に映った自分の顔をまじまじと眺めて見た俺は、そこに映った顔に違和感を覚えたのだ。
とても素晴らしいことのように周囲が褒め称えてくれる“コレ”は、そんなに価値のあるものなのだろうか、と。
当時の俺は運動ができる奴が格好いいと思っていて、誰よりも早く走れるように努力していた。
その甲斐あってか、マラソン大会でめでたく一位を取り、たくさんの人に褒められた。
格好いい、と。凄い、と。さすがだ、と。
その賛辞が嬉しくなかったわけではない。わけではない、が……その言葉が何に向けられているのか、一瞬分からなかった。
誰よりも真剣に練習に打ち込んで勝ち取った一位。
そのことを褒めてほしかった。頑張ったね、と。
だが、褒められているはずなのに、その賛辞に疑心のようなものを抱いてしまったのだ。
男子の友人からの賛辞の言葉は、すんなりと自分の中に入ってくるというのに。
そんなことが何度かあり、疑心のようなものを抱いてしまった理由が判明したのは、中学一年生のときのマラソン大会でのことだった。
俺は別の小学校出身の奴等に負け、結果は三位。
当然、悔しかった。負けたから恥ずかしいとか、かっこ悪いなんて思わなかった。やるべき努力はしてきていたから。
惜しかったなと励ましてくれる男子の友人達に、素直に感謝の言葉が出たが……相変わらずの女子からの賛辞は、はっきりと嬉しくないと感じた。
いくら持て囃されても、その言葉は努力した人間への言葉ではなく、“この顔”をした俺だから向けられている言葉だと気付いたのだ。
この一件だけではなく、似たような状況で毎度同じ感想を抱くのだから、ただの思い違いで済まることはできなかった。
人の心は見えるものではないが、彼女等が“この顔”だから、格好良く見えているのだろうということは、不思議と察することができた。
一度気付いてしまったら、もう見て見ぬふりはできない。
一度、少しでも嫌だと感じてしまったら、なかったことにはできない。
高校に入学してから、中学校よりも解放的な環境のせいか押しが強い女子が増え、あの“嫌な感覚”を持つことが増えた。
毎日、毎日、毎日。
始めの頃は取り繕って人当たり良く接していたが、徐々にままならなくなり、冷めた態度になることも増えた。
わざとそうしていることさえある。
しかし、“この顔”のおかげと言っていいのか悪いのか……それはそれで黄色い声で騒がれた。
いっそ、冷たい人だと落胆してもらえた方が楽だったのに。
(疲れたな……)
そう思うと……無意識に、ある方向へと目が向いた。
視線の先には、楽しげに友人と談笑する先川の姿があった。
笑っているのに、先川の笑い声はこちらには届かない。
教室の端と端ほど席が離れていれば、それは当然なのだろうが、いつも俺に声を掛けてくる女子の大きな声なら、確実にこちらにも届いていただろう。
もっと近付けば、賑やかな笑い声が聞こえるに決まっているのに、俺は先川が笑う姿を見て、静かだと思ったのだ。