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難所を一緒に

作者: 多奈部ラヴィル

難所が続くことで有名な山だ。大きな岩が連なる。俺はその岩に手を置き、俺の身体を支えるように登っていく。足が滑ることもある。そんなときはとっさにそばに生える野草をつかむ。一度水筒に入っていた冷たい水を飲んだ。休憩と言えばそれだけだ。そのほかに休憩など挟まずに登っていく。それを飽くことなく、諦めることもなく続ける。

やっと頂上に着いた。切り立った岩に座って、水筒の冷たい水を飲み干す。帰りの分は残っちゃいない。退路は断った。一人で帰る気などない。手に入れる。そう、それを手に入れようとここまでやって来た。今はとても涼しい所にいる。そしてその涼しさのせいか、ここまで難所を抜けてやってきたという達成感のせいか、水はただ水道水を冷やし、それに氷を入れただけの物だったが、とてもおいしく感じられる。リラックスしているような気もする。けれど肩は張る。これから俺がしようとしていること、絶対に成し遂げたいこと、それの前に立って、緊張しているのかもしれない。

 俺は三四年間の人生の中、これほどまでに希求し欲しがったものがあっただろうか。それはポルシェは欲しい。確かに欲しい。でも手に入らないだろう。けれどその今欲しがっているものは「多分手に入らないだろう」なんて考えるいとまも俺に与えない。欲しい。今欲しい。今見たい。今触りたい。


 「春ちゃーん」

「春子ちゃーん」

俺はそう叫ぶ。のどから血が出ようとかまわないっていう風に。

「春ちゃーん!」

「春子ちゃーん」

それらは山々にこだまして、幾重にも重なって、俺の方へ向かってくる。

遠くの山から白いものが見えた。

 春子ちゃんは、風を切って岩を駆け下り、木々の隙間を縫い、アニメの鹿のように身軽に俺の元へ登ってくる。

「呼んだ? 正志君?」

春ちゃんは、白いガーゼみたいな布地でできているワンピースを着ていた。そしてピンク色のサンダルを履いている。そしてほぼすっぴんだったが、ピンク色の口紅を塗っている。そして頬は赤く、あかぎれができていて、山の朝や夜の寒さと、春ちゃんが化粧水やクリーを塗らない環境にあったと想像できる。そんな風に奇妙に春ちゃんは、アンバランスに見えた。

「サンダルで、足は冷たくないの? 夜とか朝とかそういう時、」

「ちょっと面倒くさいわ。ロープウェイで降りましょうよ」

俺たちは300円ずつ払ってロープウェイで下まで降りる。退路は断ったはずだったが今は女性を迎えている。そこにあるロープウェイを使うでかと、ロープウェイに乗った。600円などそれほど痛くはない俺だ。ロープウェイの中に乗るまで、俺のサンダルについての質問に寡黙だったが、ロープウェイの中で突然笑いだし、

「わたしは千々に乱れてるのよ。つまり統合失調症だから」

そう言ってまた笑っている。

 そしてふもとに降りると、神父がいて、神父には、遅くなった陽光が、降り注いでいて、その中にいれてもらうように、ウエディングドレス姿の春ちゃんと、二人だけの結婚式を挙げた。

 つまり俺たちの結婚は、「春ちゃーん!」と呼び、こだまが返し、春ちゃんが猛スピードで現れたっていう、そんな結婚だった。俺は気分が高揚していた。春ちゃんは確かにおもちゃなんかじゃない。でもどうしても欲しかった。そういうものだった。だから春ちゃんがロープウェイの中で、「つまり統合失調症だから」という言葉も特に気にならなかった。だってウエディングドレス姿の華奢な春ちゃんは美しかった。夜桜よりも大きな芍薬の花一輪よりも美しかったのだ。その美しさを上回る美しいものなど、この世にないんだ、そう俺は思ったんだ。  

 そんな風に俺は俺の持つマイナスの磁場を強力に発し、プラスの磁石でできていた春ちゃんを力いっぱい引きよせた。それに反応した春ちゃんは風を切って一直線に飛ぶ野鳥のように、俺の元へ現れ、結婚をした。つまりはそういうことだった。

 

俺はその頃、日勤で印刷工場に勤めていて、給料はだいたい15万、ボーナスなんて7万とか8万だったから、俺は春ちゃんが思うように化粧水すら買えない、服すら買えないそんな春ちゃんに申し訳なくて、夜勤をやりたかったのだが、それはどうしてもいやだと、それはどうしてもよくないと止めるのだった。俺は多分春ちゃんがそう言うのは、春ちゃんが俺と生活時間帯がずれて、芸能人の離婚の際の言い訳、「生活のすれ違い」っていうやつが嫌なのだろうと考えて、

「春ちゃん、春ちゃんも一緒の夜勤の生活リズムで暮らしたら、きっとさみしくないよ」

と言った。

「正志君、それはね、とてもよくないことなの」

春ちゃんはあくまでも「よくないこと」と繰り返す。「よくないこと」っていうのはなんだ? と聞いてみても、

「それはね、よくないことだからなの」

と答える。

それでも、金がなくても楽しいっていうのが、新婚さんの本質なのかもしれなくて、俺と春ちゃんは、だんだん二人で作り上げた言葉が増えたりとか、ごちそうは蒲生の商店街の一角にある、「前田や」という店のジャンボシュウマイだったりとか、給料が入った夜は、ガロウと言う醤油豚骨がメインのガッツのあるラーメンを食べに行ったりだとか、寝る前におかしな話をしてしまって、二人とも笑いすぎてしまって、寝るのが極端に遅くなり、寝不足になるとか、春ちゃんが簡単に作ってくれる、きゅうりと冥加のおしんこが、妙においしかったりとか、やっぱりキムチは「コクうま」だなと二人の意見んが一致したり、そんな風に悲しみも、苦しみも、不安もとてもちっぽけで、糸くずみたいなものだった。   

けれどそうは言っても糸くずほどの悲しみや、苦しみ、不安は確かにあった。それは主に春ちゃんの美容と俺の車、インテグラについてだった。春ちゃんは二十を過ぎるころから、もう白髪が増えてきたとかで、染めなくてはならないのだが、ドラッグストアに並ぶ、髪染めすらなかなか買わなかったし、なかなか美容院にも行かなかった。それはおそらく、買わなかったではなく買えなかったで、美容院に行かなかったのではなくて行けなかった、そう言った方が適切なのだろう。そして俺は何度も車を手放すっていうテーマで春ちゃんに話した。車の維持費。それをきちんと計算したわけではないが、俺たちの経済をとても圧迫しているのは確かだった。その話を切り出すと、春ちゃんは俺の言葉を最後まで聞くこともなく、

「あのね、正志君、わたしちょっと不眠の気があるでしょう? ところがね、正志君の運転するインテグラ、その助手席で風景を眺めているとね、あっという間に眠ってしまうわけ」

春ちゃんはそう言って笑顔を見せる。その言葉が春ちゃんの、不眠を解消させるための方便にっていうわけではないのも知っている。けれど何度インテグラを手放そうと思たって、その春ちゃんのドラッグストアで最安の、「へちま水」まで買わずにいる、そんな春ちゃんの俺の気持ちの忖度、気遣いであることはもちろん承知なのだが、その言葉に甘えるように、インテグラを手放すのはもっと先、いつか何か致命的な、なにかが起こった時にと、弱々しく、ついひるんでしまうのだ。


 年末のことだった。俺たちは俺の実家、そうは言っても俺たちの住む越谷から、そう遠くはないのだが、そこで年末の一日を過ごし、お雑煮やら年越しそばを食べ、気の早いおせちまでもつまみ、オヤジは少し甘い酒を飲み、俺は運転していたから残念ながら飲むことはできず、オヤジは耳が遠く、春ちゃんの言うことを理解できないのか、頓珍漢な言葉ばかり返し、そして立ち働くおふくろの手伝いもして、そういう「できた嫁」風なふるまいを、わざとらしくもなく、ふるまって、一一時になろうという頃、

「おい、春ちゃん、もう帰るぞ」

と言うと、春ちゃんはオヤジに頭を下げながら「よいお年を」と言っているのだが、オヤジにはやはり聞こえないらしく、ただ微笑んでいるだけだった。そして玄関でおふくろは醤油だのサラダ油だの、別に俺たちの住む越谷にだって十分売っている、そういうもの物の荷造りされたものを、俺たちに車へ運ばせ、それを何往復か繰り返したのち、春ちゃんは

「お義母さん、よいお年を」

と言って、さらにもらった品々のお礼も言っているようだった。

 俺は運転席から、助手席の窓を開け、

「春ちゃん、もう出るぞ」

と言うと

「おやすみなさい」

などと言いながら、助手席に乗り込み、おふくろに軽く手を振ると、助手席の窓を閉め、

イスをリクライニングにし、突然倒れるように眠ってしまった。帰るにもそう時間はかからない。三〇分程度だ。アパートの駐車場に着いてしまった。春ちゃんはまるで「本気」で眠っているように見えた。そして俺は俺たちの部屋のある二階へ、おふくろが持たせてくれたものを運び、それらも運び終えて車に戻ったが、やっぱり本気みたいに春ちゃんは寝ている。時々は聞く、春ちゃんの寝息。どうして時々かって言うと、春ちゃんは自分で言っているように、少し不眠の気があり、俺より先に寝付くなど、ほとんどないからだ。

 その春ちゃんの「本気」を邪魔していいのか、それともそうすべきではないのかわからない。素直な春ちゃん、優しくあろうといつも思っているみたいな春ちゃん。いまだに「統合失調症」という病気が何のか、俺にはわからないし、検索してみようとおもったこともなかった。それは俺たちの今までの暮らしに、その「統合失調症」という春ちゃんの病気が、俺たちの生活になんら、支障をくわえなかったせいもある。そしてたった今、少し思った。春ちゃんの小さな体に住む心は、もしかしたらその病気に震えることもあったのかもしれない。けれどそれを一緒に暮らす俺には見せようとしなかった。露悪的に見せようということではなくて、春ちゃんはもしかしたら、マナーを守ろうと懸命だったのかもしれないし、俺への思いやりなのかもしれない。もしその「統合失調症」を俺が眼前にまざまざと見たら、俺はどう思うのだろう。俺はどうであれ逃げるつもりなんてない。春ちゃんの少し照れたような笑顔。俺はそれを希求し、今見たい、今触りたいと思った過去を忘れてはいない。仕事をしていても休憩中、今頃春ちゃんはご飯をたべたかな? と春ちゃんを思う俺だ。春ちゃん。マナーも思いやりも、しばらくどこかへ置いておいて、俺に見せてくれてもいいんだぜ。

 車の暖房を入れたまま運転席も倒し、手枕で春ちゃんを見ていた。春ちゃんはいつも一生懸命っていう風に見える。というよりも何かに一生懸命でいられなければ、死んでしまうという強迫観念にでもとりつかれているようにも見える。そう、その春ちゃんの寝顔も

寝息もとても一生懸命だった。

 ふっとゆっくりではなく突然に

「もうすぐ地震がくる。今回は結構大きい」

と言った。俺に向かって言っているのか、独り言なのか区別がつかない。

 そして

「正志君、今部屋に戻っちゃダメ。このまま、そうね、一〇分くらいはこうしていた方がいい。今回は多分大きいから」

確かに今までこういうことは何度もあった。そしてその春ちゃんの言葉は必ず当たるのだ。それを今まで不思議に思わなかったのはなぜだろう。それは多分春ちゃんだ。春ちゃんが言うからこそ、それを不思議に思わなかったのだ。なぜだか、どう言っていいのかもわからないが、春ちゃんにはそういうところがあった。春ちゃんが真面目な顔で、もしくは笑って、いろんな言葉を口にするとき、それが春ちゃんのふざけたトラップであったとしても、それを素直に受け入れ、信じることができる、それが春ちゃんの神髄だった。それがどうしてなのか俺にもわからない。そういったことを言う時の春ちゃんは、特別深刻そうでもなく、心配そうでもなく、不安そうでもなく、とても軽やかだった。

 だから、その言葉がどうであれ、「大きな地震がくる」という、不穏な内容であっても、春ちゃんを見、春ちゃんの表情を見、そして春ちゃんの軽やかさに救われたし、安心できた。

 果たして一〇分後くらいに、やはり地震はやってきた。確かに大きな揺れで、インテグラもガタガタと揺れた。俺は思わず、

「おお、揺れるな」

と笑ってしまった。

「揺れてるね」

と言って春ちゃんも笑う。

そして春ちゃんが、

「もう部屋に戻っても大丈夫」

と言うので部屋に戻ると、玄関の上に置かれていた、イケアの一円玉や五円玉、一〇円玉なんかを入れていたグラスは玄関に落ちて割れていたし、また、玄関の鏡も落ちて割れていた。その時には被災地や原発がどうっていう情報もなかったし、俺はなにか、正月に日の出を見ようと海に向かって走る、そんな正月の楽しいイベントみたいな気分でいた。けれどそれはどうしてかというと、春ちゃんの、

「大丈夫」

という言葉があったからだ。玄関を掃除する春ちゃんを見ながら、俺はタバコを吸っていた。春ちゃんが「大丈夫」と言うなら、春ちゃんも大丈夫で、俺も大丈夫っていう自信があった。けれどその時、春ちゃんはこう言った。

「鏡がね、割れるとかじゃなく、割れるっていうことはなんだかいやよね」

コタツから

「春ちゃん、初詣どうする?」

「うん、あの近所の神社に初詣行こうよ。お風呂に入って髪を十分に乾かしてからね」

春ちゃんは近所の神社へ初詣に行こうという。別にそれらすべてに、そのほかのすべてにも、別に俺が従順に従う春ちゃんのペットの犬っていうわけじゃない。けれど俺たちは必ず、近所の神社の初詣に行くのだ。

 神社にはもう長い列ができていて、その行列を左右から、赤と白に染まった提灯が照らしている。

「それほど寒くないね」

「うん。そうだな。去年とか一昨年の方が寒かったよな」

沿道の老人が俺たちに、酒を渡す。お神酒っていうものなんだろう。俺よりも春ちゃんの方が飲める。春ちゃんは一気に飲んでしまうと、

「そういう風にね、飲む訓練をしていた時期があるの。っていうかさせられていたっていうかな」

「いつ頃?」

「うん。退院したばかりのころ。忘れて寝ようとした。忘れるとか自分を失ってしまいたいと思ってたくさん飲んだ。でも忘れなかった。そして忘れる必要もないっていうことにある日気がついたとき、わたしは飲むことを強制されていただけなんだ、いくらでも飲める、そういう身体を作らされていただけなんだって気がついた。それからはそんなに飲まなくなった」

そう言って俺の酒をひったくって飲むと、笑って二つの紙コップを焚き火の中に捨てた。

 俺たちは並んで一緒に鈴を鳴らし、おのおのお願い事をした。春ちゃんが俺に聞く。

「正志君は、何を願ったの?」

「言わない。でもありふれたことだ」

「じゃあ、わたしも言わない。でもね、同じくありふれたことなの」

「うん。ありふれたものの中に、飛び切り大切なものもあるもんさ」

「どうして、正志君って、わたしが自信を予知できるのか聞かないの? わたし、それって不思議だった」

「うーん。なんていうか春ちゃんに限っては、当たり前のような気がしていたんだ。でも確かに不思議なことなんだけどさ」

沿道の店で熊手を買う。家内安全、交通安全と書かれている。

「あのね、わたし小さい頃から、変わってるとか、難しい子だとか言われがちだった。し『将来小説家になりたい。どうしてかというと』って言いだすと、オトナはいやな顔をした。だから、ああ、もうすぐ地震がくるなって思っても言わなかった。変わってるとか難しいっていう言い方を大人にされるのは、なんだか嫌だった。そしてね、わたしにはもう一つ妙な勘があって、その人の最も大切にすべきことを当てられるっていう、そういう能力」

さっき酒を配っていた老人は、もうかなり酔っているようだったが、俺たちにそれぞれ三つずつのミカンをくれた。

 

  ある日、帰ると、耳鳴りがすると言って、春ちゃんはキッチンにしゃがみ込んでいた。

「大丈夫。すぐに収まるから、お風呂入っちゃって」

「大丈夫」。春ちゃんがそういうならきっと大丈夫なんだろう。おれは風呂に入った。四一度のお湯は気持ちよく、春ちゃんがたっぷりとはってくれる、お湯はバスタブからあふれ、洗面器を回す。

 そしてどうして春ちゃんはそうなのだろうという気持ちになる。春ちゃんは俺が洗面器を回せるほどにお湯をはってくれるのに、春ちゃんが風呂に入るときは絶対にシャワーを使わず、俺が出た後のバスタブの湯で髪も流し、身体も流し、洗顔もするみたいだ。それはガス給湯器のお湯が出るときの音が全く聞こえないからそうだろうと思うのだ。俺たちのアパートのプロパンガスは、妙に高い。それで春ちゃんはすべてを残り湯で澄ませているのだろう。

 俺が全裸で風呂から出てきて、髪の毛をごしごし拭いていると、

「あのね、わたしバイトやるかもしれない」

と言いだした。

「バイトって………」

「大したバイトでもないの。ただわたしの係になると、家の電話鳴って、悩み相談にのるっていう、変なバイトなの」

「大丈夫なのかよ」

「調べてみたんだけど、妙な会社でもないみたいだし、そういう電話で悩み相談とか占いとかって流行ってるみたいよ」

「そうじゃない。春ちゃんは大丈夫なのか?」

「わたし? もちろん大丈夫よ」

「なら、いいけど」

「お給料入ったら、何買おうかな。独身時代に使ってた化粧品でも買おうかな?」

俺はその言葉に腹が立った。デリカシーがない。そう思ったのだ。どうせ俺の給料じゃ買えない、そうだな、100均の化粧水すら今まで買わなかった。それを気にする様子もなかったし、俺はきっとそれらを『春ちゃんにとってそれほど必要じゃないもの』だと思っていた。インテグラだって別に手放しもよかったし、軽にしてもよかった。それなのに今さら、独身時代に使ってた化粧品でも買おうかな?などと言う。おい。春ちゃん。マナーじゃなかったのか? そういうあれこれ。言葉や『買わない』を貫き通すっていうこと。すまねえな。確かに俺はそんなにとっちゃいない

「ご飯にしよう。今日は酢豚を作ったの」

「酢豚か。俺の大好物だ」

春ちゃんがキッチンから料理をトレーに乗せてコタツへ運ぶ。おいしそうな酢豚だ。わかめと油揚げの味噌汁。飯は大盛りだ。

「あのね、この酢豚にはね、秘密があってさ。ねえ、お肉を食べてみて」

「別に。うまいけど」

「これね、豚のブロック肉を使ってないの。豚小間をね、片栗粉をまぶしてぎゅって握って、油で揚げてるの。だってブロック肉より豚小間の方が安いじゃない?」

 いつもと違うのは多分俺だ。俺は「ブロック肉より豚小間の方が安い」という言葉に、腹が立つわけでもない。悲しいわけでもない。ただ嫌気がさしたんだ。そして春ちゃんを疑う。いつも「大丈夫」と言ってくれる春ちゃん。今まではその「大丈夫」がラッキーにも当たっていただけじゃないのか? 人間八時に起きると言っても九時に起きることもある。そんな風に、これから先の「大丈夫」があてにならない時がくるんじゃないか?

そういえば春ちゃんの目の下にはしわがあり、頬にも細かいしわがたくさん寄っている。電話春ちゃんに悩み相談をする人たちだって、電話の相手がこのご面相じゃ驚くだろう。電話でウソの悩み相談にのり、俺にウソの振る舞いを見せる。そうか。春ちゃんはウソつきだ。

 「ごめんね、ごめんね。許してね」

俺はとっさに笑顔を作り、

「なにが?」

と朗らかに言う。

「ごめんね。許してね」

「だから、なにがだよ、春ちゃん、なにか悪いことでもしたのかよ」

俺はそう言って笑った。


 セミダブルのベッドに身体を触れさせないように眠る。今見たい、今触れたいと思ったあの時はもう遠くだ。いつの間にかウソにウソを重ねて、騙しだまし接するようになっていった。俺だってもう春ちゃんにたいして正直だなんて言えない。でも初めにだましたのは春ちゃんだ。そう、俺の手取りは15万で、ボーナスも7万とか8万だ。


 春ちゃんは毎朝五時に起きて俺の弁当を作る。別に弁当でもなくていいと言った。ホットモットでもいいし、吉牛でもいいのだ。けれど断固として春ちゃんは弁当を作る。そして寝つきが悪いのに五時には起きるのだから、昼寝ぐらいしてほしいと俺は思うのに、どうやら昼寝さえしないらしい。俺が寝るときも起きていて、俺が目を覚ます時にはもうキッチンにいる。そして昼寝もしない。春ちゃんはアイボかと思う。精密に肌の触感まで完璧なロボットみたいだ。

 そして俺が家を出るときにはからならずこう言う。

「いってらっしゃい。気を付けてね。でもなるべくなら早く帰ってきてほしいな」

と。一連の動作といつもと同じセリフ。毎日毎日だ。季節は春も通り過ぎ、今は初夏だ。俺はもう飽きている。なぜ春ちゃんは飽きないのだろうか。そうとっくに飽きている。春ちゃんの

「ごめんね、ごめんね」

にも。

俺は会社帰り、大きな川の土手に車を置いて、川を眺めるようになった。毎日、

「いってらっしゃい。気を付けてね。でもなるべくなら早く帰ってきてほしいな」

と言う春ちゃん。俺は今それを裏切っている。弁当が抜かりない春ちゃん。「ごめんね、ごめんね」を繰り返す春ちゃん。

ああ、そうか。「統合失調症」。これなのかもしれない。病気がそうさせているのだとすれば、なにか解決策だってあるかもしれない。かわいい俺の嫁さん。春ちゃん、その気持ちも本当なんだ。わかってくれ。

 夜中まで考えていた。なにがどこから狂った? よく考えれば春ちゃんは何も悪くないのかもしれない。なにかやらかして、謝らない奴より、謝ってばかりの春ちゃんの方がまだましなのかもしれない。けれどもういやだ。鬱陶しい、逃げ出したいという気持ちも本当で、川にぽちゃんと投げた石の幾重の波紋に、「かわいい俺の嫁さん」だと思ったのもウソではないんだ。俺はそっとベッドを抜け出し、隣の部屋に置いてあるパソコンで、「統合失調症」という言葉を検索した。後ろに気配がし、振り向くと、薄いピンクのパジャマに薄手の白いカーディガンを着た春ちゃんが立っていて、

「わたしが統合失調症だから、統合失調症について調べてるんだね」

とだけ言って、寝室に戻った。春ちゃんは俺が春ちゃんが寝たと思っても、春ちゃんは起きているんだ。マナー。それを守っているのだろう。寝たふり。狸寝入り。

 俺はシャットダウンしてベッドに横になる。また、春ちゃんが

「ごめんね」

と言う。俺はとうとう我慢しかねて

「そういうの、もう止めてくれ」

と言うと

「ごめんね、ごめんね、明日からもう言わないから、わたしのこと嫌いにならないでね」

と言う。俺は呆れるような気分で寝返りをうって、起きていようなんて一分も考えず、眠った。俺っていうのはそういう風にできている。


 朝いつも弁当を作り終わって、一緒に朝食を食べてから、俺が出ていくときに、

「いってらっしゃい。気を付けてね。でもなるべくなら早く帰ってきてほしいな」

というセリフを聞いて、出かける俺にはいつも寄るコンビニがあった。ニコニコマートというあまり有名じゃないコンビニだ。そこにいる二〇代の気の強そうな女の子が、大きな明るい声で「いらっしゃいませ!」と言ってくれる。いつも買うのはタバコとペットボトルのお茶で、タバコの銘柄を言わなくても、的確に俺の吸うタバコを出してくれる。そしてレジから出口に向かうと、また大きな明るい声で「いってらっしゃい!」と言ってくれる。

 俺は車を運転しながら思った。ああいう、気の強そうな女も悪くない。「いらっしゃいませ!」も「いってらっしゃい!」も明るくて、さっぱりしている。あの子はそう滅多なことでは「ごめんね、ごめんね」などと言わないだろう。

 

 帰りにまた土手に車を停めた。川の草の生えたほとりに行く。また石を投げてみる。確かにそれだけのことで、幾重の波紋は広がる。それをぼんやりと見る。帰るのがつらくないと言ったらウソになる。でもそれは一〇〇%の本音じゃない。


 家に帰るとコタツの上に花瓶があって、バラが三本飾られていた。

「どうしたんだ? このバラ」

「やだ、わたしバラ泥棒なんてしないわよ。もちろん花屋で買ってきたの」

「バイトはやってるのか?」

「うん。午後一時から午後五時まで。その間は電話が転送されてきて、客とつながってね、悩み相談にのるっていうわけ」

「悩みって言ったって、いろいろあるわけだろう?」

「わたしの特技を発揮するっていうわけ。その人の最も大切にすべき人を言って、そして大切にしてねって言う。そして最後にわたしはいつでもあなたの味方だからって言う」

「それでいいのか?」

「うん。それでいい。泣く人もいるの」

「泣く?」

「そう。気づくのね」

 「ごめんね、ごめんね」もない。バイトはどうだ? うまくいってる。そんな簡潔な会話につい朝寄るニコニコマートの店員を思い出してしまう。空気も乾燥していてからっとした店員だ。じゃあ、春ちゃんは何なのだろう。春ちゃんはいったい何なんだろう?

その日はその会話だけで何も話さなかった。多分春ちゃんはのどまで出かかる「ごめんね、ごめんね」を奥歯で噛んで粉々にしているのだろう。

 寝るときに二人とも仰向けで寝ていた。春ちゃんが俺の方へ手を伸ばす。

「どうした?」

「手をつないで眠りたいと思って」

「すまん。俺は反対側に寝返りをうちたいんだ」

「そっか」

「うん、ごめん」

その春ちゃんが言った、「そっか」はこの寝室の暗闇に溶けていくみたいだった。そして俺の「うん、ごめん」だって暗闇の中に向かって言っただけだ。春ちゃんじゃない。


 ある日俺は会社の帰りにいつも寄る草の生える川岸で石を何個も川に向かって投げていた。「ごめんね、ごめんね」を言いそうになって、奥歯で噛み砕き、何も言えないでいる春ちゃん。それがどうしてものどに絡まって、言葉を発せずにいるみたいだ。

 俺は朝寄るニコニコマートでポップコーンを買った。あの若い女性の店員は、俺がいつも吸う銘柄のタバコを白いビニールに入れながら、

「ポップコーンなんて珍しいですね」

と明るく言う。彼女には多分陽が当たっても、影などできないのだろう。

「水鳥にあげるんだ」

そうとだけ言って、背を向けると、また、

「いってらっしゃい!」

と明るく言う。俺は

「いってらっしゃい。気を付けてね。でもなるべくなら早く帰ってきてほしいな」

よりもこの明るい今日もやるぞっていう気分になれるようなそんな「いってらっしゃい!」の方がなんぼかいいのだ。

 そうしてただぼんやりと石を川に投げていた。石を投げる。それは当たり前に幾重の波紋を広げる。そう、お約束通りだ。その波紋がどうだっていうのだろう。それはある人にとっては受験かもしれない。就職かもしれないし、恋愛かもしれない。そしてマイホームだったり、赤ん坊だったりするのだろう。そして最後のとても小さな波紋は終わりを表現しているのだろう。

 俺は立ち上がった。立ち上がるっていうことが、こんなにも億劫で大変だっていうことに今まで気づかずに生きてきた。もしかしたら、そんなことは春ちゃんにとって周知の事実かもしれない。

 そして静かに移動して、ポップコーンをばらまいた。一斉にかもが寄って来て、ポップ

コーンを食べている。そしてその時、携帯が鳴った。見ると春ちゃんだ。確かにいつもより帰るのは遅くなっている。けれどその春ちゃんの電話には出なかった。すると繰り返し繰り返し、電話は鳴る。俺はなんだか意地でもその着信に出るものかと思った。そして非通知が続き、今度は公衆電話になる。俺は水鳥たちを眺めながら泣いた。

 ところが、帰ると、春ちゃんは電話を執拗に繰り返し、非通知で電話をかけた後には公衆電話で電話をかけたことなど、まるでなかったようにふるまうのだ。俺はきょとんした、水鳥たちが飛来する、幻影を見たような気がした。そしてポケットから携帯を出す。やっぱり春ちゃんから、非通知から、公衆電話から、着信の履歴は確かにある。

 それなのに春ちゃんは

「遅かったね。何度も電話したんだよ」

とすら言わない。むしろそう言った方が、しっくりくるような気がしていたし、それが自然なような気がしていた。けれど味の沁みた大根を火にかけて温め直しながら、歌まで歌っているのだ。曲はスマップのライオンハートだった。大根の煮物の香りが漂ってくる。 

 本当は俺だってそれに乗っかるように陽気にしゃべり、なにかばかばかしくて、それでいて楽しい話、そう、新婚さんだったころ、笑いすぎて二人とも寝付けず、寝不足くになってしまったような、あんな話をしてみたかった。そして二人でふざけ、笑いたかった。けれど俺は食欲がなかった。別にポップコーンは食べちゃいない。

 春ちゃんがトレーに大根の煮物や野菜炒めをコタツに運ぶ。そしてまたキッチンに戻り、ご飯をもったお茶わんやお味噌汁を持ってくる。

 食欲なんてないまま食べ進める。そして我に返ったように、改めて白々と春ちゃんを見る。いつだってそうだ。春ちゃんはなにであってもおいしそうに食べない。まるで食べるという作業が、難行苦行で、それを運命づけられているっていう風に食べる。そうだ、「何であっても」っていうのは間違いだ。去年那須でソフトクリームを食べた。その時の春ちゃんはとてもおいしそうにソフトクリームを食べていた。俺は思わず、大根の煮物の中に入ってた、鶏のモモ肉を食べながら、

「なあ、また那須行こうな」

と言うと

「うん」

と言って、春ちゃんはうれしそうに笑った。 

 俺は思い出していた。ごつごつした山にやっとの思いで、けれど休憩だって挟まず登り、マイナスの強い磁場でプラスの磁石、つまり春ちゃんと結婚したのは、こんな笑顔を毎日見たいと思ったからだ。久しぶりに見た、春ちゃんのとてもうれしそうな顔は、当然俺をうれしいという思いにさせた。

 毛布や布団を整えて春ちゃんがベッドに横になっている。俺が寝室のドアを閉めると、

「あのね、眠るっていうのはね、わたしにとってコツがあってね」

と珍しく話し出す。

「それに気づいたのは今日のお昼過ぎ。それを伝えたくて、会社帰りの頃、正志君に何度も電話したんだけどなあ。よく覚えてないけど。それでね、その眠るコツっていうのはね、眠る前に、笑うとか、うれしくなるとかそういうことなの」

「今日は眠れそうなのか?」

「うん。すぐにでも眠れそうなの」

「そうか、それはよかったな」

俺は今日は春ちゃんに背を向けず、仰向きで寝ている。そしてそっと春ちゃんの手を、けれどとても強く握って、「この手を春ちゃんが振りほどこうとするときがやって来たって、俺は手を離さない」と考えていた。すると春ちゃんは笑って

「強すぎだよ。痛いよ」

と言った。けれどその握った手の力を弱める俺じゃない。俺はいつの間にか鍛えられていたんだ。俺を鍛えたのは多分川だ。石を投げた後に広がる幾重の波紋だ。川はそういうもので、波紋だってそういうものだったし、春ちゃんだってそうだ。それは動かなかった。動かないものに背を向けたって、何も変わらない。背を向けている最中だって、それらはただ単にに動かない。動かないものというのはただ単純にそういう性質を持つのだ。もう一回さらに春ちゃんの手を握る俺の手に力をこめる。この春ちゃんの手が溶けてしまったら? きっと俺は泣いて後悔するだろう。

 突然春ちゃんが口を開く。

「うれしいことが明日待ち受けてるの。あのね、明日は一五日でしょう? つまりわたしのバイト代が入るっていうわけ」

 俺は暗闇の中だからわからないかもしれないが、これ以上ないっていうくらい、微笑んでいたんだ。

「だいたい、六万くらい入るの。だからさ、明日焼き肉に行こうよ」

「おう。ごちそうになるぜ」

うれしいことがあると眠れるっていうのは、春ちゃんだけに限ったことじゃないかもしれない。俺だってその夜は苦しみから逃れるようにではなく、ただ春ちゃんの言葉たちの余韻に身を任せていたら寝ていたんだ。

 俺は翌日は川に寄らず、まっすぐに家へとインテグラを走らせた二人で車に乗り、ラーメン屋以外の店で食事をするなんて、俺のボーナスが出たとき以外は初めてかもしれなくて、俺はうきうきしていたんだ。けれど俺は弱気だった。6万とは聞いたが、それで安楽亭にしようと言った。春ちゃんはそんな俺のチキンぶりを笑うように、

「えー?」

「えー?」

「えー?」

と上目遣いで俺を見て、笑いを隠しながら繰り返す。

「まあ、安楽亭でもいいけどさ。でもね、なるべく長い間車を走らせて」

「高崎くらいでいいか?」

「うん」

俺はナビもセットせず、高崎に向かった。高崎にも安楽亭はある。俺は独身の頃よく高崎へは行ったのだ。俺は釣りが趣味で、高崎には有名な釣具店があった。もちろん俺には手がでないが、100万する釣り竿なんかもおいてあって、俺はそれを見ているだけでも満足できた。そしてその高崎の安楽亭にはその当時の釣り仲間、柴田と一緒だった。俺たちはとにかく肉を食いたいという、そういう年頃だった。

「あ、もうすぐ地震がくる」

春ちゃんはそう言った。その春ちゃんの「地震がくる」は本当で、いつも本物だったから、俺はまだ揺れてはいない道の路肩に車を停めた。五分後、三分後? 確かに地震は起きた。車がガタガタと揺れる。多くの車が路肩に集まる。ゆっくりと走る車も、横にガタガタ揺れている。多分その運転手は地震にハンドルがぶれるのをしばらくの間楽しみ、そしてその後、家族を心配するのだろう。春ちゃんはその光景をぼんやりと見ていた。俺がもし春ちゃんの、目を覗けば、きっと俺が映るのだろうが、俺は俺じゃない、その目に映っていうものを見てみたいと、その時痛烈に思った。それは春ちゃんの心を覗き込むような、それに近い行為だって俺には思えたんだ。


 俺は飴を口の中で転がしながら、車に戻った。安楽亭の灯りの元、そろそろ洗車しなくちゃなと思う。会計の方を振り向くと、春ちゃんがお釣りを懸命に、キタムラの小銭入れと、なんだかわからない、三つ折りの小さな札入れに、一生懸命しまっている最中だった。

 帰りの車の中で春ちゃんはぐっすり眠っていた。俺は起こさないよう気を付けた運転をした。急加速をしない、ブレーキは優しく、そういう運転だ。途中渋滞にも巻き込まれ、アパートの駐車場に着いても、春ちゃんは眠っている。俺はこのままずっと朝まで寝かせてあげたかった。今起こしてしまえば、また春ちゃんは不眠に悩むのかもしれない。けれどまだ寒い。春の訪れのニュースは時折聞くが、まだまだ寒い。

 俺は仕方なく、春ちゃんの肩に手を置いて、少し揺するようにしながら、

「春ちゃん、春ちゃん、もう着いたぜ」

春ちゃんは「うーん」と言いながら眉根を寄せ、

「ヘッドロック」

と言った。ヘッドロック? 寝言にしちゃ面白すぎる寝言だ。俺は焼き肉を食べて、遠出をして運転し、我が家に着き、妻をゆすったら「ヘッドロック」と妻が言った、そんな幸福をしばし味わおうと思ったが、つい大声で笑ってしまった。なぜ、ヘッドロックなんだ?

 俺の大爆笑の中、春ちゃんはきょとんと起きて、

「どうしたの?」

と言う。俺はそれもおかしくて笑ってしまう。そして切れ切れに

「あのさ、春ちゃんの寝言がさ、『ヘッドロック』だったんだ」

「変なの」

俺はまた笑った。もう深夜二時だ。俺は急いで風呂に入って眠るつもりだった。

春ちゃんはコタツにあたりあたりながらぼんやりしている。俺は自分で風呂を洗い、お湯をためて入り、十分温まって出てきても、まだ春ちゃんはテレビすらつけず、コタツでぼんやりしている。そして真っ裸で汗を拭いている俺に、

「ねえ、明日は仕事に行かないで」

と言う。俺は風呂の中でもヘッドロックの余韻が残っていて、そして今日の長い時間のドライブや、焼き肉なんかも、その余韻も残っていて、風呂で適当にハミングをしてしまうほどだったから、その言葉の持つ妙な重さにも気がつくことなく、

「そうはいかないよ。明日行けばもう土曜日だから、明日くらいは我慢しろ」

「だんだんね、悪い方向へ曲がっていく。徐々に曲がっていく」

そう春ちゃんは言う。

「何も変わらないよ。もしかしたらこの先、俺の給料が上がっていくとか、春になれば新入社員が入ってきて、俺も多少は威張れるようになるとか、その程度の変化だ」

「ううん」

「俺はドライヤーで髪を乾かしたら寝るぞ。春ちゃんはたっぷり寝たから、もう眠れないだろう。しばらくテレビでも見ていればいい。あ、そうだ、春ちゃんが見てるドラマ、今日やったやつ、オトナなんだっけ? あれ録画しといたから見るといいよ」

「やだ。置いていかないで」

「置いていくって?」

「こんな時間、みんなが眠る方向に進んでいくでしょう? 深夜のコンビニ店員と、正志君の職場の夜勤の人は起きているけど。でもわたしに係っている人たちは眠っているし、眠る方向へ進んでいく。わたしはいつもおいてけぼりな感じがするの」

俺はやっとなんとなく春ちゃんの言っていることがおかしいと感じ始めた。

「じゃあ、俺に眠るなと言うのか? 眠らずに仕事へ行けと言うのか? 今眠らないで、明日の仕事を休めと言うのか?」

「なんていいっていいのかわからない。でもそういうことかもしれない」

「そういうわけにはいかないだろう! そして悪い方向へ曲がっていくっていうのはなんなんだ」

「それはね、夏になったら汗をかくみたいに、とっても自然なこと。当たり前の川の流れのようなもの」

「俺は寝る」

そう言って寝室のドアを閉めた。ベッドに入る。うれしい気持ち。笑ってしまうなにか、それが人間を眠らせるのだろう? 春ちゃんはそう言っていたじゃないか。それなのに今俺は眠れそうにない。腹が立っているからだ。春ちゃんはなにを言っているんだろう。俺の給料は下がっていくのか? それは確かに悪い出来事だ。それでも引いてみれば、俺はさみしいんだ。一つの壁をまたいでいる。壁に寄せたベッドに俺が横になり、その反対側にコタツに脚を入れた春ちゃんが壁にもたれている。その壁がさみしいんだ。俺はさみしいのさ。本当は二人並んでいるっていうのに。


 翌朝目が覚めると、春ちゃんが横に眠っていた。よくよく春ちゃんを見る。やっぱり華奢な身体。触ってみたら冷たいんじゃないかっていうその顔。白髪が目立つ。俺は分け目が白いその髪をなでてみた。しばらく撫でていた。すると突然、

「お弁当!」

と叫んで春ちゃんが、まるで直角に起き上がった。俺は髪をなでるのをやめたが、その髪をなでることの延長にあるように、

「今日は弁当はいいよ、ホットモットでもいいし吉牛でもいい」

「それはダメよ。もしわたしが作るお弁当がホットモットや吉牛よりおいしくなかったとしても、それはいけないことよ。だってホットモットも吉牛もわたしの手作りじゃないのよ? もし正志君がわたしの手作りじゃなくって、ホットモットや吉牛のお昼を食べたとしたら、どこかの何かの手作りに、正志君はきっと奪われてしまうのよ」

 それにしてももう弁当など作る時間はなかった。もう七時三〇分に近い。俺がそろそろ出る時間だ。

 春ちゃんは寝室に置かれた木製の時計を見て、泣き出した。そして

「今日は仕事に行かないでほしい」

と懇願する。それを何回も何回も繰り返す。

「今日は仕事に行かないで」

「そんなわけにいかないだろう!」

俺はベッドから立ち上がり、カーテンレールにつるされた、印刷工場のブルーの制服を着始めた。

「なんで?」

「なんでそんな冷たいこと言うの?」

「なんでそんなに冷たいの?」

「どうしてそんな風に意地悪するの?」

「なんで?」

「なんで?」

「なんでそんなに冷たくするの?」

「どうしてそんなに意地悪なの?」

「わかった、わたしのこともう嫌いなんでしょう?」

「もうわたしのこと嫌いになったんだ」

「そんなに冷たくしないで」

「そんなに意地悪ばかり言わないで」

「もう嫌いなの?」

「本当にもうわたしのこと嫌いになっちゃったの?」

「ああ、もうわたしのこと嫌いなんだ」

「そうやって意地悪ばっかり」

「なんで?」

「なんで?」

「どうして?」

「なんで?」

「なんで?」

「なんで?」

「嫌いになったんだね?」

「もう本当に嫌いになったんだね?」

「もうわかった」

「嫌いになったんだ」

俺は突然、

「ああっ!」

と叫んで春ちゃんを振りほどき、

「寝てろっ」

と一言叫んで部屋を出た。

外のまだ冷たい空気が頬に気持ちがいい。車の中で考えたのはこの二点だ。

「昨日の高崎ドライブは楽しかったな」

「今日はホットモットの唐揚げ弁当を食べよう。だいたい春ちゃんの唐揚げはしょっぱすぎるんだ」

どんな思いにも春ちゃんがくっついてくる。そしてニコニコマートの駐車場に車をつけて、お茶とタバコを買う。いつもの「いらっしゃいませ!」と「いってらっしゃい!」だ。

車に乗り込みまた考える。考えることの選択肢はなるべく限定したほうがいいみたいだ。

「あの子は学生なのかな? それともフリーター? それとも案外若い主婦だったりして」

「あの子は学生なのかな? それともフリーター? それとも案外若い主婦だったりして」

あの子に意識を集中しようとする。あの子は俺の煙草を銘柄を知っている。まあ、それだけのことだけれど、朝の家と会社のスイッチにはなっている。男っていうやつは案外単純にできていて、「覚えてくれた」っていうだけでほのかにうれしかったりするものだ。

 仕事場に電話が入った。ドン・キホーテの警備員と名乗ったそうだ。

俺は仕事を早退させてもらい、とっさに春ちゃんが万引きをしたのだろうと思った。確かにうちの経済には余裕はない。けれど昨日、春ちゃんのバイト代が入って、それは六万だと言っていた。昨日高崎ドライブで一万たとえ使ったとしても五万は残るはずだ。それなのになぜ、春ちゃんは万引きなんてしたんだ? ドン・キホーテで何が欲しかったんだ? 統合失調症っていうのは万引きもするんだな。俺は結婚前もっと冷静になるべきだったのかもしれないな。頬があかぎれの花嫁を迎える前に。もっと統合失調症について調べたり、考えたりするべきだったのかもしれないな。だましだましここまできたけれど、統合失調症であって万引きもするのなら、もしかしたらそれほどのリスクもなく離婚だってできるのかもしれないな。

 俺はドン・キホーテに着くと、警備員室を教わり、直行した。そしてそのドアを開けるなり、

「ご迷惑をおかけしました!」

と大声で言って、頭を下げた。

「あ、正志君」

「ああ、旦那さんですね。こちらにお座りください」

「失礼します」

と言って俺は春ちゃんの横に座った。

「あのね、旦那さん多分、誤解してらっしゃる」

年配のドン・キホーテの制服を着た女性が、俺の前に熱そうなお茶を置く。

「奥さんは別に万引きとかをしたわけじゃない。そうじゃないんだ。ただね、この、ここの屋上から一万円札をね、回収した限りでは五枚、ばらまいただけなんだ」

「どうしてそんなことをしたんだ? 春ちゃん」

「ふふふ」

春ちゃんは赤い顔をして笑うだけだ。

「それが、そう悪いことをしたっていう風にもね、言えないような気もするんだけどさ、やっぱりさ、お金をね、撒くっていうのはね、尋常じゃない行為だっていう気もしてね」

「春ちゃん。あれは一カ月一生懸命バイトをして稼いだ金だっただろう? 独身時代に使っていた化粧品を買うんじゃなかったのか?」

「ああ、それ名案だね。きれいになって、頬のあかぎれも治れば、正志君だってわたしのこと、嫌いにならないかもしれないね」

「春ちゃん、何を言ってるんだよ」

「あのお金はね、お布施。一万円札をね、拾った人がさ、楽しく一万円使えたらね、その楽しさがわたしにも訪れて、正志君がどこにも行かないって思ったのね」

警備員が怪訝そうな顔をして言う。

「ご主人、奥さんはなにかご病気でも?」

「わたし、病気なんて持ってないし、病気だからって意味もなくお金をドン・キホーテの屋上からばらまくなんてしません」

「病気ではないんです。少し妻は変わったところがあるだけで」

本当は俺は春ちゃんが答える前に答えたかったんだ。けれど出遅れた。「俺の妻は病気なんかじゃありません」ってね。

「まあ、万引きをしたとかそういうことでもないんで、お気をつけて帰ってください。あ、これを」

警備員は封筒に入った金、五万を俺に渡した。俺は警備員の目の前で、それを春ちゃんにしっかりと持たせた。春ちゃんはうれしそうな顔をした。

「僕は一回医者に見せた方がいいと思うけどなあ」

「妻はちょっと変わっているけれど、病気っていうわけじゃない」

俺はそう断言して、警備員室を出るとき、

「大変ご迷惑をおかけしました」

と言って頭を下げると、春ちゃんも真似をするように頭を下げた。

 俺はドン・キホーテの屋上の駐車場に車を停めていた。屋上まで行くと、あのね、ここから、と言って春ちゃんは屋上の柵のそばに立った。

「そうか」

俺はぎゅっと春ちゃんの頭を抱きしめた。春ちゃは笑って、痛いよ、痛いよ、力が強すぎるよ、そんなことを言いながらきゃっきゃと笑っている。

「ここからか」

「うん、そう」

「何が見えた?」

「うーん。そうだな。何も見えなかったかもしれない。ただね、燕がね、すっと通り過ぎるのは見えたかな」

「そうか燕か」

「うん。燕」

「今日は風がなけりゃ、あったかいんだろうな」

「うん。わたしもそう思う」

「だんだん、風も温くなっていくんだろうな」

「うん、わたしもそう思う」

「なあ、春ちゃん、化粧品を買いにデパートに行かないか?」

「化粧品? いらないよ」

「そんなこと、言うなよ。独身時代はどこの化粧品を使ってたんだ?」

「うん、アメリカ生まれの『キールズ』っていうとこの化粧品を使ってた」

「俺の給料が悪かったのが悪いんだよな。冬の乾燥した吹きっさらしに、いつもその風を春ちゃんは防御もできずにさらしてたんだもんな」

「そういうことはね、どうでもいいの。ただね、正志君がね、わたしが化粧品を使った方がいいと言うならね、使う。そう、買って使う」

「人が楽しく一万円を使えば、春ちゃんも楽しいって、そう思ったんだろう? でもそれは致命的な春ちゃんの欠点だ。人っていうのは、誰よりも自分が楽しく、誰よりも手に入れたいって思うべきなんだ」

「じゃあ、大宮のルミネに連れていってくれる? そこにキールズの化粧品は置いてあるから」

「家に帰って一回着替えるぞ」

「はい、合点!」

春ちゃんのそういう笑顔は、もしかしたら誰も知らないんじゃないか。春ちゃんには兄弟もなく、結婚した翌年にお母さんは亡くなっている。お義母さんは、俺が柏の癌センターへ見舞いに行ったとき、どうしてなのかひたすら俺に謝っていた。お義父さんは春ちゃんが小さい時に亡くなっている。春ちゃんが大事に持っている写真がある。お義父さんと一緒にブランコに乗っている写真だ。けれど春ちゃんはその写真を見ても、お父さんの顔尾を思い出せないらしい。春ちゃんの笑顔はなににも変えられないそんな可愛さがある。春ちゃんの心細く、俺にしか見せることができない、そんな笑顔。俺はそれを独り占めにしている。助手席に座った春ちゃんはラジオをつけて、楽しそうにしている。そして

「毎日が、こんな風だったらいいのにね」

と言う。

「あのね、本当言うと、わたしの左手に傷がたくさんあるように、わたしは実家にいるころ、自殺未遂を繰り返していた。けどね、ご存じのとおり私は正志君とお付き合いをして、結婚してからは一回も自殺未遂なんてしたことがない。それはね、もしかしてわたしが先に死んだらね、正志君は困っちゃうって思ったの。とても困っちゃうってね。だからね、わたしきっと正志君より早く死ぬことなんてないって思う。わたしが死の際にいてもね、わたしは多分思うだろうと思うんだ。今死んでしまったら、正志君がきっと困っちゃうってね。だから再度また起きるって思うんだ。」

「ありがとうな」

「そうだ、毛糸を買いたいの。初めてだけど、正志君に腹巻を編んであげたくて」

「ありがとうな」

アパートについて俺は着替えた。インクが付いたブルーの制服でルミネに行くのはいやだった。俺は厚手のスウェットと、デニムを履いて、ダッフルコートを着こんで、

「俺は用意はできたぞ」

と言うと

「わたしもできた」

と言って、俺が振り向くと、春ちゃんはチェックのワンピースの上から、ピーコートを着て、帽子をかぶっていた。

 「春ちゃんは世界一帽子の似合う女だな」

俺がそう言うと

「正志君だって、世界一ダッフルコートがお似合いみたい」

 車に乗ると、自分で聞きたいと持ってきたCDをかけるとすぐに、春ちゃんは眠ってしまった。俺は熱くなって、通りすがりのセブンの駐車場に車を置いて、ダッフルコートを脱いだ。そして春ちゃんに声をかける。

「春ちゃん、暑くないか? ピーコート、脱いだ方がいいじゃねえか」

するとゆっくりと春ちゃんの目は開き、

「わたしもそう思う」

と言って起き上がって、ピーコートを脱いでいた。その間に俺はアイスコーヒーを二つ買っておいて、春ちゃんに一つ渡した。

「ありがとう。正志君って本当に優しいんだね」

俺はその言葉に、違和感を感じていた。俺がコーヒーを飲みたいと思い、春ちゃんの分も買ってきた。その行為が、「本当に優しいんだね」という言葉で表現される様な行為なのだろうか? そして春ちゃんは走るインテグラの中で、しばらくアイスコーヒーを飲んでいて、ホルダーに置くと、また眠ってしまった。俺はCDを止め、ラジオのチューナーを合わせた。

 統合失調症は万引きをするのではなくて、幸福を分け合いたかっただけだった。その春ちゃんと、その春ちゃんについてくる「統合失調症」は、それらは皆春ちゃんなのだ。そうして春ちゃんは出来上がっている。そう思ったとき、うっすらと春ちゃんは目を明けて、

「あのね、正志君。移ろわないなんていうことは、なににせよ、どうであっても、決してないの。もしそれが移ろわないように見えるとしたら、そこには必ず我慢があるの。我慢してるの」

 そう言ってまたアイスコーヒーを少し飲んで、また椅子を倒し、寝息を、すーすーという聞きなれた寝息をたてながら眠ってしまった。

 大宮のルミネに着き、俺は仕方なく春ちゃんを起こした。本当は起こしたくなかった。今更、ことさら、起きている春ちゃん、意識のある春ちゃん、なにかを言う春ちゃん、それらを嫌がっているわけじゃない。でも春ちゃんの眠り方は、誰であっても起こすのをためらうようなそんな眠り方だったからだ。

 しばらくして起きた春ちゃんはあたりの暗さに少し驚いたみたいだった。

「地下の駐車場だよ」

春ちゃんはほっとしたように、

「もう着いてたんだ。とっくに?」

「そう、とっくに」

「起こしてくれればよかったのに」

「俺はヘッドロックが怖かったのさ」

春ちゃんはくすくす笑って

「もう、それはもういいじゃない」

と笑う。

 そう、笑っていてほしい。そしてもっと言うなら、自信を持ってほしい。俺の嫁になれるのはわたししかいないとでもいったような、そんな自信を持ってほしい。謝らなくていいし、怒ってみせてもかまわない。俺はそれを思ったとき、春ちゃんが怒ったことなんてあったっけ? と回顧を始めて、すぐにそれをやめた。

 コートとバッグを手に持って、ルミネの中に入る。春ちゃんはどこにその「キールズ」っていう化粧品売り場があるのかっていうことをよく知っているようで、迷うこともためらうこともなく進んでいく。

 そしてキールズで三人の店員の手はあかないようで、迷わず春ちゃんはテーブルのある席に座って、俺も座らせ、テスターを自分の手に塗ってみたり、俺の手の甲にも塗ってみたりそんなことをしていて、店員がやっと俺たちに声をかけると、

「あの、化粧水と乳液とナイトクリームが欲しくて」

と言う。

「でもね、五万円しかないの。そしてできればそれを余らせたいの。買えるかな?」

と予算も言って、

「大丈夫です」

と言ってくれた店員に、じゃあ、それらをと言って、そしてこのあたりに毛糸が売っている店ってあるかしら? と付け加える。

「そうですねえ、すみません、わかりかねます」

そう言いながら、化粧水と乳液とナイトクリームとやらを茶色い紙袋に包みながら、その店員が出口までついてきて

「ありがとうございました。またお待ちしています」

と俺たちの背中に声をかけ、春ちゃんはまた振り返って、また来ます、と言って、また進行方向を向いた。その時俺は、もしかしらら春ちゃんは、前にしか進めず、後退をできないそういう「育ち」なんじゃないかと、哀れに思わずにはいられなかった。俺は後退ができる「生まれ」と「育ち」らしい。だって俺はあの時、「離婚」という言葉が、妙に近くに感じられたのだから。離婚。それは俺たちの唯一の退路なのだろう。そしてもし離婚をするならば俺は「退路」と思っても、春ちゃんはそこに向かっていくっていう風にしかできないのだろう。

 また帰りの車でぐっすりと眠っている。春ちゃんは俺以外の男の運転する助手席で眠れるのだろうか? それを考えたとき、寒い、と思った。そうだ。春ちゃんは俺の運転するインテグラで今ぐっすりと眠っている。コートと帽子を後部座席に置いて。

 その日はアパートについてもぐっすり眠りこむことはなく、春ちゃんも起きて、荷物とコートを持って、俺たちの部屋のある二階への階段を上った。俺は、春ちゃんに、

「気をつけろよ。足元見ろよ」

と声をかけた。

 俺がコタツをつけ、春ちゃんは風呂の掃除をしている。そして二人分のホットコーヒーを入れ、トレーに乗せて持ってきて、コタツの上に置いた。そして、あ、ごめんねと言って、灰皿を持ってきた。そして脚も手もすっぽりコタツ布団の中にいれて、

「わたしもタバコ吸ってみようかな」

と言う。俺は俺が吸うのに、春ちゃんがタバコを吸うのを止めるのは、少し違うような気もしたが、

「やめとけよ。タバコっていうものには依存性があるから」

と言うと

「わたし、依存しないもの。そんなものに。わたしが依存するのはいつも一つだけしかない。それには本当に依存するの。でもその依存が余らないみたいに、ほかの物には依存しない」

と言う。

「ねえ、大晦日にお母さんのところでいただいた、あのカニ、おいしかったね。今わたしが依存しているのはそれっていうわけ」

そう言って笑う。

「毛糸、買えなかったね。わたしグレーの少し太い毛糸で、正志君の腹巻を編んであげたかったな」

「編んでくれよ」

「ううん。もう遅いの」

「まだ、寒いぜ」

「ううん。もう間に合わないから」


 俺が仕事に行くと、春ちゃんは午前中家事などをこなして、午後の短い時間を使って、バイトをしているようだった。そんな平坦な、大きな喜びもない代わりに、悲しみも苦しみもない、感情を大きく揺るがせるような出来事もない、そんな日々が俺にも春ちゃんにも続いているような気がしていた。

 夜になると、春ちゃんは固くなってしまった食パンや、余ったフランスパン、それらを千切って、ベランダに撒く。俺は土日って言えば遅くまで寝ているし、平日はそんな情景を見る暇もなく、仕事へ行ってしまうから、その光景は見たことがなかったが、春ちゃんに言わせると「とてもかわいくて、とても面白い」そうだ。

 そして夜、風呂から出ると、化粧水と乳液とナイトクリームを塗っている。朝もそうだ。コタツに置いた鏡を見ながら、化粧水をつけるとき肌をお抑え込むようにしている春ちゃんに、

「パチパチパチパチってやらないのかよ」

と言うと、

「えー?」

と何回か言ってふざけて、

「こういうのをハンドプレスと言います」

と言う。そして

「この蛍光灯は明るすぎるね。見たくないもも見えてしまうし、知りたくなかったことも知ってしまうものね。そしてその後悔は役に立たない。空気が外に漏れていくようなこの明るさに、慣れるしかないものね」

と言った。

 

 まだ花見の予測もテレビでやらない、そんな頃だった。俺はいつも通り朝、ニコニコマートでお茶とタバコを買った。いつもと同じ女の子だ。俺のタバコを最近では、「タバコ」と発する前にレジに置く。そして成人であるというタッチパネルをさっとその子がタッチして、レジはとても簡略に、俺みたいに仕事に行こうといしている人間にはありがたい、そんな接客をするようになった。そして俺が、ビニールの白い袋をぶら下げながら歩いていると、その女の子が走って俺を「お客さん!」と呼ぶ。手には光沢のある赤い袋を持っている。

「おう、どうした?」

「これ、あげる」

「何?」

「手編みのマフラー。初めての編み物だからさ、へたくそなのは許してね」

「これを俺にくれるの?」

「うん。あげたいと思って編んだ。そしてあげる。クリスマスでもないし、おそらくお客さんの誕生日でもないとは思うけどさ」

そう言って、

「じゃあ!」

と踵を返す。

 俺はまた比べてしまう。春ちゃんだ。付き合っていたころ、玄関まで春ちゃんを送ると、春ちゃんはいつまでもドアを開けようとせず、門の前に立って、置いていかれる子供のような子犬のような顔でいつまでもインテグラに乗った俺を見ていた。それは今にいたっても変わらず、朝いつも通りのセリフを言うと、パジャマで玄関を出て、捨てられるような顔をして俺の乗るインテグラを見つめている。それは付き合っていたころはかわいくも見えた。けれど、今は仕事に行くとか、仕事をするとか、そういう気概を少しそがれるような気分になってしまう。そう、その春ちゃんと、そのニコニコマートの女の子、

「じゃあ!」

と明るく言って、踵を返す、そんな違いを比べてしまうのだ。あの子は、俺が何才か、俺に彼女がいるかいないか、独身か既婚か、そんなことも考えずにこのマフラーを編んでくれたのだろう。ただ編んでみたい。初めてだけど編んでみたい、それをあげたい、それだけの気持ちで編んだマフラーなんだろう。俺は車に乗り、助手席でその赤い袋を開け、マフラーを取り出した。グレーの少し太めの毛糸で編まれている。なるほど、初めて編んだようで、まっすぐなはずのマフラーが細くなったり、太くなったりしている。そして数か所、毛糸が飛び出ている。車の暖房を消す。俺はブルーの作業着に毛糸のマフラーを巻いて、仕事場へ向かった。

「お前、なんかいいことあっただろ」

「わかります?」

同僚に声をかけられる。

「愛妻弁当かあ。羨ましいよ。そのきんぴらを俺にも少しくれ」

「いいっすよ」

「なんだ、うめえなあ、料理のできる嫁さんか、羨ましいよ」

「俺の今朝あった『いいこと』を聞いてくださいよ」

「聞きたくもないけど聞いてやるよ。なんだそれ?」

「俺さ、いつも朝タバコとね、お茶を途中のニコニコマートで買うんですけど、そこのさ、若くてかわいい子がさ、俺にね、手編みのマフラーをくれてさ」

「なんだそれ? 愛人かよ」

「愛人なんて、俺たちの給料で持てるはずないじゃないですか。俺はただ単に、その子にとってはただの常連さん」

「若くてかわいい子が、ただの常連さんであるお前に手編みのマフラーをくれたのか?」

「そうなんすよねえ」

「お前、いいなあ、きんぴらの上手な奥さんを持ち、若くてかわいい子は手編みのマフラーをくれる。なんだそれ」

「人生ね、真面目に生きてりゃいいこともある。俺は今朝それを学んだなあ」


 俺はそのマフラーを、赤い袋に入れたまま、車のトランクに入れた。そして帰ると、春ちゃんが、キッチンの床をなにやらスリッパで叩きまくっている。

「ごめんね。あ、ごめんねって言ってごめんね。でもごめんね。わたし電子レンジが置いてあるこの台の下をね、掃除しようと思ったの。バイトが始まる前にね、そしたらね、大量のゴキブリが、わって出てきて。わたしの掃除が行き届かなかったのよね。ごめんね」

そこを見ると、ゴキブリなんて一匹もいない。おそらく春ちゃんにしか見えていないゴキブリなのだろう。バイトが始まる前。それは一時だ。その時から、春ちゃんはひたすらゴキブリを退治していたのだ。

「恥ずかしいわ。専業主婦として。こんなゴキブリがたくさん。わらわらと。主婦失格よね。本当に」

「俺はしゃがみ込み、春ちゃんの背に手を置いた。すると

「わたしをだまそうとしないで! わたしをごまかさないで! 私そういうのいやよ。ゴキブリならほら、こんなにたくさんいるじゃない!」

「なあ、春ちゃん、ゴキブリバスターのところに行かないか?」

「そんなの恥ずかしい。だって私が怠った掃除のせいで、こんなにもたくさんのゴキブリがいるわけでしょう? 恥ずかしいわ」

「あのな、春ちゃん、ゴキブリバスターはがいるところはな、みな救ってくれて、みな許してくれる、そんな所なんだ」

俺は立ち上がりキッチンの椅子に座る。春ちゃんは休むことなく床をスリッパで叩いている。俺だって「ゴキブリバスター」がどこにいるのかわからないし、ゴキブリバスターが救い、許してくれるのかどうかだってわからない。ゴキブリバスターはどこにいるのだろう。その温かい、まぶしすぎない灯りはどこにあるのだろう。でもそんな風に俺は言った。春ちゃんが、「じゃあ、ゴキブリバスターのところに連れていって」と言ったら、それはそれで困るのだろう。俺にはノープランだからだ。

 俺は泣きながら言った。とぎれとぎれに言う。

「なあ、春ちゃん、俺はただ、春ちゃんに、昼寝を、してほしい、だけなんだ。それだけ、なんだ」

春ちゃんは答える。

「じゃあ、わたしが必死に昼寝をしたら、正志君はもう一回わたしを大事にしてくれるの? あのトランクに入っている、グレーの手編みのマフラーよりも」

俺はしばらく黙っていた。そして言った。

「俺のかわいい嫁さんは、春ちゃんだけだよ」

「正志君はずるい。そういうのずるい」

そう春ちゃんは言うと、ゆっくりとおしっこをもらした。


 俺は救急車を呼んだ。春ちゃんが通っている「野村クリニック」を救急隊員に告げる。

春ちゃんは俺も見たことのない、そんな顔をして興奮している。顔をゆがめながら叫ぶ。

「ここはどこ? ここはどこ? これからどこへ行くの? 正志君も一緒なの?」

「ああ、俺はここにいるよ。春ちゃん。俺も一緒だ」

「また、入院なんでしょう? 何なの? この明るさは。終わってしまうじゃないの。みんなみんな終わってしまうじゃないの」

「終わらない。何も終わらない。まぶしい光には昆虫だって集まってくる。みなそこに吸い寄せられるように集まってくる。終わるわけじゃないんだ」

「本当に?」

「ああ、本当さ」

「けれど、正志君は今朝、若い女性にグレーの手編みのマフラーをもらって、車の中で首に巻いていた。そしてアパートの駐車場で、そのマフラーを赤い袋に入れて、トランクにしまった。わたしは毛糸を持っていない。わたしはグレーの太い毛糸で、正志君に腹巻をプレゼントしようと思っていた。けれどそれは間に合わなかった」

「どうして? どうしてなの? なぜ正志君はわたしのことを大事なんて嘘をつくの? もう大事なんて思っていない癖に。ウソばっかり。ウソばっかり。ウソっていうのはね、こんな、とても明るい光にとってもお似合いなものなのよ」

「ウソじゃなんだ。本当にそう思っているんだ」

 病院に着くと、春ちゃんは腕に注射を打たれ三秒とかからずに、眠った。俺は簡易ベッドを用意してもらい、春ちゃんの横に寝転んだ。離婚。統合失調症の嫁との離婚。俺は卑怯だ。その「離婚」っていう二文字を、春ちゃんの統合失調症を見るたびに、できるのかな? していいのかな? と逡巡する。けれど春ちゃんはそんなことを考えたこともないだろう。いつも春ちゃんは俺を追ってきた。たまには転ぶ。けれど起き上がる。早足で、なにかに気を取られながら歩く俺を、少し走るようにして、追いかけてきた。追いつこうと、早く追いついて、俺の横に並び、俺の腕に絡まろうと、追いかけてきた。そして俺は残酷に、やっと追いつき俺の腕に触る春ちゃんの手を、振りほどいていきた。それは一回じゃない。

 俺はベッドに眠る春ちゃんの横に忍びこんだ。春ちゃんはいないみたいに無味無臭だった。いい匂いもしなければ、臭いわけでもない。もちろん油が滴るような肉が焼ける匂いがするわけでもない。俺は春ちゃんの手を取り、その指をガリガリと噛んだ。春ちゃんは痛いとも言わない代わりに、そんな俺を笑ってくれるわけでもない。


 「奥さんは今退行しています。幼児帰りです」

医師は言った。その幼児帰りっていう言葉は、俺にもわかった。春ちゃんは、同じく入院している若い女性から、

「このクマさん、かわいい」

と言って、その女性からそのぬいぐるみを奪い取ったらしい。そしてどんな説得にも返そうとせず、

「このクマちゃんの名前はム―君。わたしのだもん」

病院の風呂は週3回だが、その3回とも春ちゃんはム―君を風呂に入れ、シャンプーし、リンスもするらしい。

 俺が面会に行くと、俺にそんなに興味もなさそうな顔をする。

「わたしが死ぬと、ム―君がお風呂に入れないでしょう? ム―君が困ってしまうでしょう? だからわたしは死ねないの。ム―君より、一日でも長生きしなくちゃ」

 

 しばらくすると、春ちゃんは熱を出すようになった。風邪ではないらしかった。医師は、「奥さんの中にはエネルギーのようなものがたまっていて、今放射されているんだと思われます」

 俺はそれを「我慢」だろうと思った。鬱積した我慢が、いま熱と言うエネルギーに変換され、放たれているのだ。

春ちゃんは汗をかいて眠っている。短く切られた前髪が、おでこに張り付いている。もしかして離婚をしたいのは俺ではなくて春ちゃんの方なのかもしれない。春ちゃんの一番大切なものは、大切にすべきだと思っているものはクマのム―君で、俺ではないらしい。床頭台には、キールズの化粧水と乳液、クリームが乗っていて、改めて春ちゃんの顔を見ると、その頬にはあかぎれもなく、少し産毛の生えたモモのようなきれいな顔をしている。きちんとお手入れをいしているのだろう。それはおそらく、春ちゃんのしたいことだったのだろう。

 「責任転嫁しないでよ」

春ちゃんがパチッと目を開ける。

わたしがキールズの化粧品を買いたくて、正志君と離婚をしたいって思っていると思うの? 正気で言ってるの? そうじゃない。統合失調症のわたしと『離婚してもいいのかな、離婚してもいいのかな』って繰り返してきたのはわたしじゃない。正志君じゃない!」

相部屋の人たちが思わず黙ってしまうような大きな声だった。そして春ちゃんは怒っていた。春ちゃんは起き上がってぶるぶると震えていて、床頭台に置かれた、冷めたコーヒーを手にとっても、その手がぶるぶると震え続けている。

 「離婚してはいけないなんて法はない。離婚したければ応じるわ。別にハンコを押すだけだもの」

そうか。やっと春ちゃんが離婚を口にした。それでいいのかもしれないな。それもいいのかもしれないな。そうすると春ちゃんが俺を呼ぶ、「正志君」という声も聞くことができなくなるわけだ。さみしいな。俺は車に戻り、あまりのさみしさに、ハンドルへ倒れるようにして、泣いた。そしてこんなにもさみしい気持ちを春ちゃんにさせてきたっていうことに、俺は今まで何をしてきたんだと思う。


 「なんだ、今日もホットモットかよ。奥さんに逃げられたんだろう」

と同僚が俺に言う。

「いや、妻は入院していて」

「なんだよ、どこか悪いのか?」

「多分俺はどこも悪いわけじゃないと思うんだけど、一応どこか悪い所があるといけないからっていう入院で」

「ふーん。そんなのあるんだな」


 翌週の土曜日も春ちゃんを見舞った。すると見舞いの人が入っていく出入り口にあるベンチに春ちゃんは黒いワンピースと春のベージュのコートを着て、小さなバッグを持って座っている。すっぴんだが口から大きくはみ出る、赤い口紅を塗っている。

「正志君」

そう言って、春ちゃんは何もかも、どんな裏切りもどんなさみしさも忘れたように、昔のように笑顔で俺を迎える。

「あのね、今日から三時間の外出許可が出たの。家族同伴なら。聞いたらね、おいしい醤油ラーメンのね、中華屋があるんだって。だから行ってみようよ」

「おう、行ってみようぜ」

俺はうれしかった。そんなトピック。そんな春ちゃんの屈託のない話し方。

俺たちはラーメン屋で「中華そば」を注文した。本当に昔ながらっていう醤油ラーメンで、コショウをかけて食べ始める。俺はその中華そばに、慰められた。そして慰められた俺は、勇気を出して、

「俺、なんて言っていいか分からないけど、ごめんな」

「別に謝ることない」

そう春ちゃんは言ってラーメンから顔を上げない。

「だって我が家では『ごめんね』は禁止なはず」

「ごめんな」

俺は春ちゃんの言った、「我が家」というワードが妙に新鮮で、妙にうれしかった。そうだ。俺と春ちゃんで俺たちは「我が家」を作っている。俺たちはだって家族なのだから。

「当たり前じゃない。わたしたちは結婚した時から、家族じゃない」

春ちゃんの声が震えている。俺は春ちゃんの方を向いた。春ちゃんはぼた雪のように、泣きながら、ラーメンを食べている。

「だってね、どうしてもラーメンが食べたい時ってあるじゃない?」

「そうだな。あるよな。俺も最近春ちゃんがいなかったから、そういえばラーメンを食べていなかったな。久しぶりのラーメンだ。うまいな」

すると春ちゃんは顔を上げ、

「正志君がラーメンを食べるのって、わたしとセットなの?」

「そうだな、そういえば、春ちゃんがいないと俺はラーメンを食べない」

春ちゃんは人目もはばからず、泣き出した。今までつらかった、我慢してきた、それが一気に放出される様な泣き方だった。そして言う。

「わたしがあのニコニコマートの女性のように、あんなふうに振舞えなくても? それでもわたしとラーメンを食べてくれるの?」

「ああ、もちろんさ」

別に俺がニコニコマートの若い女性の店員に惚れていたわけじゃない。けれど確かに、俺はあの店員と春ちゃんを比べていた。ニコニコマートの店員ならからっとしているのに。簡潔なのに、っていう風に比べていたっていうことに思い当たる。

「仕方のないことだって思う。きっと自然な感情の流れだって思う。そう自分にも言っていた。けれどやっぱりいやだった。そしてわたしにはどうにもできないことだったから、もうそれは正志君に任せようと覚悟を決めていた」

 ラーメンを食べ終わって、その店を出ると少し笑って

「正志君タバコ吸いたいでしょう?」

と言うので、俺は虚勢を張ってもしょうがないと、

「うん」

と言うと、あっちにドトールがあるから、と言って進んでいく。洗濯物を干すときに屋上からそのドトールは見えるそうだ。

 ドトールの喫煙席で、春ちゃんは俺に聞く。

「ラーメン、おいしかった?」

「うん。ああいうラーメン久しぶりだったな。うまかった」

と言うと

「明日も食べたい?」

「明日? 明日かあ」

「人にはね、明日があるの。動物には明日がない。それはね、人間だけが持っている秘密があって、それはね、何回失敗しても、もう一回、今度はゆっくり考えてっていう風にね、そう考える叡智がある。つまり明日を見るわけ。それがね、人間が明日を持っているっていう最大の秘密なの」

                                    (了)

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