1918:ベルリンに帰る
物語中に障害を負った人々が出てきます。
現在の倫理的見地から差別的とされる表現ありますが、差別の意図はありません。
一九一八年十月。
終わりの見えない戦争に駆り出されて四年。
ついにボクは憧れの除隊証明書を手に入れ、帰宅を許可された。
思えば味方の榴散弾が(敵のではない!)頭上で炸裂してくれたおかげだ。彼奴はボクの左脚を三百と十三の肉片に破砕してくれたのだ。このとき、ボクは糠雨染み入る塹壕で横穴にお尻をねじ込み、岩石みたいなビスケットをふやかすために鍋をかき回していたのだけれど、体全部が穴に入りきらず左脚だけをだらしなく塹壕のほうへ伸ばしていたのだ。
これは僥倖だった。なぜなら、ボクの隣にいたハンス坊やは体全体を横穴に隠していたためにどこも怪我できずにいまだ戦っているし、フランツは尻がでかすぎたせいで横穴に逃げられずバラバラにされた。
左脚だけという微調整が大切だったわけである。
ボクは銃声いまだ絶えることなき西部前線から一キロと離れていない野戦病院にちょっぴり入院し、血だらけの腐ったガーゼ、鼻につんとくる消毒用エタノール、愛想の悪い衛生兵、神の愛に目覚めよとうわごとを繰り返すチフス熱の従軍牧師、切断された腕をさがしてベソをかく下士官らと楽しい病院生活を送った。
入院から三ヶ月、砲弾を食らってから五ヶ月目――つまり、砲弾を食らってから入院するまで、負傷者後送用テントにほったらかされた期間が二ヶ月ほどある計算だが――ともあれ、ボクはようやく軍医殿に呼び出されたのだ。
十メートル四方のだだっぴろい部屋にドイツ皇帝ウィルヘルム二世陛下の絵が一枚、錆びた釘にぶらさがっている。四人家族の朝食が乗せられそうなテーブルがぽつねんと放置されただけの事務室にて、ボクは残った右足でぴょんぴょん跳ねながら、軍医少佐殿に敬礼した。敬礼している間もぴょんぴょん飛びはねているのだから、指先を右眉にぴっちりつけているボクの敬礼はぶるんぶるんと無様にふれていたわけだが、血まみれ白衣を着たままの軍医少佐殿はそんなボクに対して、雑巾がけしている召使にでも命令するような愛に溢れた調子で言った。
「左脚を吹き飛ばされたのはお前か?」
「はーい」
ボクのまぬけた返事がスイッチとなり、軍医少佐殿の顔面に電気が流れた。こめかみで青筋がぴくぴくしている。
それから軍医少佐殿は気のないダミ声で、祖国のために尽くし戦い足を失ったボクは間違いなく天国にいける、つまり皇帝陛下は君の奮闘ぶりに大変お喜びでありウンヌンカンヌンという紋切り型の文句を唱えた。
衛生兵がノックしてから入ってきた。第十一歩兵連隊が攻撃に失敗し、負傷兵が到着したのだ。長話は急遽「ウィルヘルム二世陛下万歳! ドイツ万歳!」で幕を閉じた。軍医少佐殿はボクの手に二枚の書類を押しつけると、「十一連隊のバカたれどもめ」と忌々しそうに悪態をつきながら、どこかにいってしまった。
残されたボクは手に押しつけられた書類をまじまじと見つめた。
一枚目はざらざらした安っぽい紙に帝国の紋章である鷲が一羽刷られている。印刷の際、よほど安いインクを使ったと見え、冠をいただいた鷲のくちばしも祝福と繁栄を約束する縁起物の飾り文字も滲んでしまい、マッシュポテトのようにぐちゃぐちゃになっていた。
ぴょんぴょんするのをやめ、ンッと眉間にしわを寄せてこの駄文とにらめっこをしてみれば、『……任務遂行中の負傷によって戦闘継続を不可能と判断され、ここに右のものの除隊を証明するものなり……』という金言が浮かび上がる。
ボクはこの文章を構成する言葉一つ一つにキスをし、この素晴らしき証明書くんに「故郷に帰ったら君のために手彫り金箔おしの最高級額縁を買ってあげよう」と約束するのだった。「もちろんガラスは特注品さ」と念を押すことも忘れなかった。
さて、軍医少佐殿が渡してくれた除隊証明書とは別にもう一枚書類があったのだが、それによるとボクには歩行補助のために義足と松葉杖が与えられていることになっていた。なるほど、ボクもいつまでもぴょんぴょん片足跳びをしているわけにもいかない。いっぱしの廃兵なら義足の一本は必要か。さらに精読してみると、病院の倉庫ではボクが我が家に帰るための旅費と鉄道切符も渡してくれることになっている。
家に帰るにも先立つものがなければ始まらぬと思い、一体いくらくれるのかと倉庫に向かうと、ひどくがっかりさせられた。
よりによって軍票で払ってきたのだ。これじゃ使い物にならない。
おまけに義足と称して渡されたのは、釣り針ぐらいに真っ直ぐの棒切れだ。一応靴を履かせることが出来るようにはなっていたが、義足の先っちょは丸めたタンポンがまち針刺しみたいになっただけの手抜き品。
物品係の衛生兵がうそぶいた。
「義足がもらえるだけマシなんだぜ。文句を言うならイギリスの海上封鎖にいえ」
松葉杖は在庫切れでもらえずじまいになると言われた。ボクは衛生兵に「せっかくだけど、新しい足とボクはまだ出会って数分だ。お互いのこともよく知っておかなければいけない。微妙な時期だし仲立ちしてくれる助っ人はぜひとも必要なんだけどね」とやんわり抗議したが、結局杖なしで部屋から追い出されてしまった。
外の廊下では、史上最大の砲弾数を誇る史上最大の戦闘で史上まれに見る勇敢さを発揮した結果、ボロ雑巾ごとくズタズタにされた第十一歩兵連隊の勇者さまご一行が板張り床に転がされていた。みんなせっかく戦場から離れて一休みできるというのに泣いたり、うめいたり、呪ったりと忙しいのだが、これは一度兵士になった以上は暇をもてあましてはいけないという卑しき兵隊根性がいまだに抜けないせいであろう。
例えば首から上がすっかりなくなった擲弾兵の場合がそうだ。
彼は襟口からどぼどぼ血をこぼしつくして担架に寝ていたが、頭に包帯を巻いた砲兵大尉がこれを蹴っ飛ばし、
「兵士たるもの、たとえ頭をぶっ飛ばされていても怪我をした上官のために場所を譲らなければならないのだ。とっとと担架から降りろ。だいたいここは病院であって死体置き場ではないのだから、頭を吹き飛ばされて死んだお前は急いでここから出て行け」
と、居丈高に命令した。
魂が体から乖離しても、卑しき兵隊根性だけは体にしがみつくものらしい。首から上をなくしてくたばった擲弾兵はなくなった頭をかきながら立ち上がり、のそのそ外へ出て行くのだった。
彼には頭がないので当然目ん玉もついていない。
だから、出口へ向かう間、強く脛をぶつけたり、人をふんずけて罵詈雑言を浴びせられたり、背嚢に忍び寄ったボクの手によりチョコレートとサラミとラム酒を根こそぎ盗まれたりしたわけなのだけれど、彼には痛みを感じるための脳みそも悪口を聞き取るための耳もおいしいものを味わうための舌もないのだから、これっぽっちに意に介さないのだった。
正面は怪我人でごった返している。とてもではないが出られそうにない。ボクは慣れない義足で回れ右して、標本室を目指した。標本室というのはホルマリン漬けにされたグチョグチョだのゲチョゲチョだのを保管しておく部屋であり、その裏手には瓶詰めにしたゲチョゲチョやグチョグチョを運び出す専用の秘密の裏口があったことを思い出したからだ。そして、切断された四肢や脳みそがホルマリン瓶におさめられたこの部屋でボクは思わぬ再会を果たした。
戦争のどさくさで行方不明になっていた左脚が瓶詰めにされていたのだ。その瓶はハツカネズミの解剖標本とボウシテナガザルの脳みその間にはさまれて、ズシンとえらそうに置かれてある。他人の脚だといけないので、一応数を数えてみると肉片はちゃんと三百と十三ある。どうやら親切な御仁がかき集めてくれたらしい。かつてボクの左脚だったモノたちは砲弾の破片や砂利粒、爪の垢をきれいに洗い落としてもらった状態でホルマリンのなかをぷかぷか気持ちよさそうに浮いていた。
「いい気なもんだ」
ボクは彼奴の嫉妬心を煽ろうとズボンの左裾を引き上げて、新しいパートナーを見せびらかしたが、ホルマリンの中の左脚たちはこれっぽっちも目を向けず、ぷかぷか浮いていた。
「わかった。どうやら、ボクらは別々の人生を歩まなければいけないらしいね。実際は歩んだりせず、ボクはぴょんぴょん跳ねて、キミはぷかぷか浮かぶのか。まあ、とにかくボクは新しいパートナーと仲良くやるから、キミもホルマリン瓶での余生を楽しんでくれたまえ」
左脚は承諾のしるしに気泡を出し、ホルマリンをソーダ水のように弾けさせた。
ボクはいじけた気持ちを抱えて病院を後にしたのだった。
――†――
ベルリンの我が家は遠く地平線の彼方。
砲弾にかきまわされ、赤土を剥き出しにした醜い大地が目の前に開けている。
道路わきには略奪されつくした村や腹をガスで脹らませた軍馬の腐乱死体が累々と横たわり、丘陵では電信柱がへし折れて、お辞儀している。電線には撃墜されたアルバトロス戦闘機が絡まっていた。
こうした素晴らしい景色に囲まれて、新しい人生を新しい足とともに歩み出したわけだが、どうも杖がないと歩きづらい。
ボクは義足を外して背嚢にひっかけると駅に通じる国道を片足でぴょんぴょん飛んだ。
落伍兵が何人か途方にくれて座り込んでいたので、ボクは駅までどのくらいか、杖の代わりになりそうなものはないかと聞いてまわった。
第六十三歩兵連隊の徽章をつけた男はつばを吐いた。
第二十一猟兵連隊の伍長は「ぶっとばすぞ!」と脅かした。
所属不明、爪が黒ずんで死にかけている兵隊は「コレラにかかって死ね!」という危険な捨てぜりふを残して重態に陥った。
空は青く、雲は遊ぶように通り過ぎていく。
ポケットに入れた除隊証明書で生まれ変わった気分を味わいながら、ボクはぴょんぴょん飛び続け、二時間後には目当ての駅にたどり着くことができた。
駅舎代わりのバラックで待っていると、やがて八両編成の列車が到着した。各車両は乗せるものが予め決まっていて、『重カノン砲』『歩兵』『担架兵』と白ペンキで名前をふられている。ボクも身体欠損兵と謳われた七両目に早速乗り込んだ。
村に村長、会社に社長、軍に司令官でドイツに皇帝がいるように七両目にもリーダーがきちんと用意されていた。ただし通常の団体ではリーダーをお金や勲章、階級章の星をたくさん持っている人間から選ぶものだが、この車両では持たざるものこそがリーダーに選ばれる。
つまり、たくさん体がなくなった人間がえらいのである。ボクの左足は腿の付け根と膝の間で切られていたから片足が膝より下で切断された連中よりも偉いことになる。ところが、腿の付け根からバッサリ切断された廃兵はボクよりももっとえばることができる。
どっこい彼の天下も長くは続かない。両足を失ったやつが車両に乗ればトップの座を明け渡さなければならないからだ。
ボクが乗ったとき、車両のリーダーとして一番風通しのよいベッドに転がっていたのは両手両足、そして両耳をなくした騎兵伍長だった。機関銃と迫撃砲で固めた陣地目がけて突っ込まされ、左の手足を砲弾で、右の手足を銃弾で、そして両耳を銃剣でそぎ落とされたらしい。
「それだけ派手にやられれば、勲章もたくさんもらえたのだろう?」
事実、包帯を巻かれた四肢の生え根には大きな勲章が止めてあり、作り物の両耳には星型勲章がピアスのようにぶらさがっていた。
右腕をなくした勲章マニアの通信兵が帝国陸軍出版局発行の幼児向け手引き『英雄の条件』を左手でぎこちなく繰り、その勲章一つ一つの値打ちを教えていた。
「左足についてる勲章はクズだね。右手についてるやつもだ。缶切りにもならない慰みものだよ。――おっと、右足についてる白兵勲功リボン柏葉つき勲章は大事にするんだぜ、結構な恩給がついてるからな。――とはいっても、しばらくは軍票で払われるんだろうけど。――左手のは値打ちがないけど、形が格好いいから腕時計代わりに巻いておけば女の子にもてること間違いなし。――うん、これにそう書いてある。四歳児向けの本だから嘘は書かないだろう。――なに、腕なんてもうついちゃいないって? それは僕が斟酌する事情じゃないな。だって、手引きがそう書いたんだ。文句があるなら陸軍省の出版局に言え。ほら、ここにアドレスが書いてある。――ああ、そうそう、両耳にさげてる勲章は恩給ついてないけど、一応金で出来ているようだから質屋に持ち込めば高値で売れるかもしれない」
そこでボクは騎兵伍長に頼まれて、両耳にぶらさがった勲章を壁にこすりつけてみたのだが、メッキが剥がれて中身の鉛がご開帳におよぶと、当の持ち主はひどくかっかして、全部外に捨ててくれと頼んだのだった。
彼は恩給つきの勲章を誰にも盗られないよう歯でがっちりくわえると、残りの勲章が夕焼けの彼方に投げ捨てられるのを眺めながら、悦にひたった。
列車がまた駅に停まる。
新しく乗り込んできたのっぽの男。見たところ五体満足だ。
欠損車両は居心地がよい。他の車両よりも人口密度が低く、ベッドもちゃんと綿がつまっていた。だから、こんなふうにズルをして紛れ込もうとする元気なやつが後を絶たない。おまけにそんなやつに限って、「どうせ相手がごたごたぬかしても、かまうことはねえ。なんたって相手は廃兵なんだからな」とたちの悪い勘違いをしている。手足がない人間は力で軽くねじ伏せられると思っているようだ。
一つ前の駅でそんなふうにでかい態度をとった准尉がいた。軍隊生活に縁のない諸兄のために一筆いれておこう。准尉とは曹長にいばり、士官候補生にへいこらしなければいけない階級である。下士官と士官の間にぶらさがった頼りない喉チンコのような階級である。
准尉には主に叩き上げの下士官が任ぜられる。彼が叩き上げたのは己の根性ではない。部下の頭である。部下の頭を叩けば叩くほど准尉への昇進も早くなる。敵よりも味方に損害を与えたほうが出世に有利なのである。准尉になった連中はその星を肩に縫いつけるまでに二、三十人を病院送りにしているはずだった。
くだんの准尉もご他聞に漏れず生意気な態度であった。先に述べたように廃兵車両のヒエラルキーは地位や財産、思想信条や軍隊での階級ではなく、欠損した体の部位とその程度によって決まる。これは厳しい掟の世界であり、五体満足さんには速やかにお帰りいただくことになっている。その准尉は一致団結したボクらの手で走行中の列車から外へつまみ出された。今ごろは線路脇の沼地に刺さったまま肝に銘じていることだろう。体を欠損した廃兵はとくに血の気が多いから敵にまわしてはいけない、と。
その教訓が子々孫々最低でも三代にわたって受け継がれんことを廃兵を代表し、ここに表明しておくものなり。
ところで右足首をなくした衛生士官候補生が言っていたのだが、手足をなくした人間が短気になるのにはちょっとした科学的根拠があるらしい。いわく手足がなくなっても体内を流れる血液の量に変わりはないので、差し引きボクらの血圧はどうも高めになる傾向があるのだ。
さて、話は脱線しても列車はちゃんとレールの上を走っている。新しく乗り込んできた五体満足ののっぽ男に話を戻すが、彼は准尉のバカのごとき横柄な態度はとらず、黙って立っていた。こちらも手を出さずに控えている。どうせ放り出すならもう少し速度が出てからのほうがいいに決まっているのだ。
汽車の速度が、いま放り出されたら首の骨が折れるだろうというくらいになったとき、彼奴は愚かにもリーダーの座を明け渡すよう自分から要求してきた。
「ヤロー、ずうずうしいぞ!」
腕がついているものは腕をまくり、ないものは歯を剥いたそのときだった。
のっぽ男はズボンを下ろして、彼の欠損部位をボクらにご開陳した。
これ以上、ひどい怪我はありえない。そうなのである。彼の股間にあるべきものがごっそりなくなっていたのだ。ダムダム弾にやられたらしい。
とくに深い意味はないのだけれど、少尉がそいつに実弾入りのピストルをくれてやり、衛生兵もストリキニーネの小瓶を都合してやった。
哀惜を加味したボクらの統一見解に押し上げられ、彼はリーダーになった。
――†――
日が沈む。空はどんどん焼けていく。爆薬に焼けない空を見たのは久しぶりである。
日が落ちても付近に村がないため、教会の鐘で時を知ることができない。腕時計のことは言うだけヤボだ。ピノクルですってしまった。
砲兵隊が気を利かせ時刻を知らせる号砲を撃ってくれているらしいが、敵を狙った実包もひっきりなしに飛んでいるので、どれが午後六時を知らせる空砲か分からなかった。
幸い腕時計を足首にまわしていた古参兵が午後六時を教えてくれた。
我が列車は重砲兵隊を通すために野原の待避線に引き込まれた。そろそろ晩の食事をもらえるはずだと思い、扉を叩いて炊事兵に知らせていたのだったが、飛び込んできたのはパンではなく奇妙な包みだった。
もぞもぞ動いたズダ袋から出てきたのは人の首だった。しかも生きている。口髭をおしゃれに整え、額に縫い痕が残った生首である。ボクはきいた。
「もしかしてキミは第十一歩兵連隊の擲弾兵じゃないかい? ひょっとすると野戦病院で見た首なし死体はキミの体だったのかもしれない」
「うんにゃ」生首がしゃべった。「おれは第九十予備歩兵連隊の機関銃兵だよ。ところで、その体には心臓がついてたかね?」
「ついてたと思うね。ちぎれた傷口から血が勢いよく飛び出していたから」
「ますますおれの体じゃないね。おれにはまだ心臓がついてる。ところで、どこか暖かいところにおれを置いちゃくれんか? 脳みそに銃弾がめり込んでから、どうも寒がりになっちまって」
ストーブの上にマフラーでわっこをつくると、そこにぴったり生首を置いた。車両の隅に寄せられていたゴミをかき集めて、ストーブを焚く。季節はずれのストーブで車内の空気はむっとすると、みな額に汗を滲ませ軍套をベッドに放り出し始めたが、当の生首はけろりとしている。
「銃弾が熱さを感じるための神経をこそぎ落としたんだ」
こうしてみているとストーブの中に胴体を隠しているようにも見えるが、蓋を開けるとかつて靴だった革の塊がくすぶっているので奇妙な手品を見せられた気分になる。
第九十予備歩兵連隊の機関銃兵は旅のお耳汚しにと、こうして首一つで生き残った数奇な運命をみなに話してくれた。彼は突撃部隊の一員として機関銃を担いで小さな村を前進していたが、そこでどてっ腹に水兵発射した迫撃砲弾をぶち込まれ、体が四方八方に飛び散ってしまったそうだ。本来ならそこでくたばってしかるべきだったが、爆発の衝撃で彼の心臓は顎の下にめり込んだので、こうして生首一つで生きていられるようになったわけだ。だが、彼はうっかりくしゃみをしたために生きていることがバレてしまい、村を占領したフランス兵が頭に一発トドメの弾を撃ちこんだ。暑さを感じるための神経をやられたのはそのときのことだった。
「首一つになるってえのは便利だぜ。胃袋がないから腹は空かないし、いくら飲んでも肝臓はこれっぽっちも悪かならない」
「だが、これから先どうやって暮らすんだ?」
「そのことも心配はいらねえ。まず大学病院がおれについて研究したいというから、たんまり謝礼を受け取れる。それにおれが生首になった次の日には有名なサーカスから弁護士を通して、ぜひとも専属契約を結びたいという申し出があった。おれとしてはもう少しじらして条件を吊り上げてから契約書を交わす気でいる」
すると、両腕を失った元公証人の予備役中尉が契約書作成のときはぜひとも一枚噛ませてくれ、と足を蝿のようにすり合わせてにじり寄った。
そこに炊事車両へ様子を見に行かせていた片足の従卒がケンケンで戻ってきて、
「おい、大変だ。ここから十キロ先の目的駅がアメリカ軍の攻撃で陥落しちまったらしい」
と、言ってきた。みな顔を真っ青にして、
「じゃあ、今日の晩飯は?」
「ヤンキーが占領した駅の中だよ。手つかずのベーコン三十キロとガチョウ五十羽はもうヤンキーの胃袋のなかだ」
よって本日の晩飯はカップ一杯の豆スープのみになるらしい。
「冗談じゃねえぞお!」
「やってらんねえやい!」
不満が噴出した。
動物性タンパク質の摂取がままならないという栄養学的危機。
加えて戦争で傷ついたボクらの心を慰めてくれる精神衛生飲料の数々――杜松酒、ラム酒、赤葡萄酒、白葡萄酒、林檎酒、イチゴ酒、レモン酒、スモモ酒、ハッカ酒、サクランボ酒、オレンジ酒、ブルーベリー酒、ミント酒、糖蜜酒、蜂蜜酒、かえでの蜜酒、メロン酒、アニス酒、バニラ酒、クルミ酒、アーモンド酒、たまご酒、紅茶リキュール、大麦ウイスキー、ライ・ウイスキー、コニャック、ブランデー、シャンパン、キャラメルで味付けしたエール、イチゴ風味のヨーグルトリキュール――そして、ビールが貰えない!
鎮痛作用と胃袋の消毒において多大な効果が期待できるアルコール飲料の配給が絶望視されたことに黙っているほど、ボクら廃兵は大人しくない。
「ガソリンでもいいから飲ませろ!」
「そうだ、そうだ!」
「さもないと、列車ぁひっくり返しちゃうぞ!」
ボクが手持ちのラム酒を思い切って分け与えたので、なんとか最悪の事態は避けられたが、ボクがいなければ今ごろ列車は凶暴な廃兵によってひっくり返されたであろう。
――†――
しーん、と寝静まった野原。
ときどき十キロ先の駅舎がピカッと照らし出され、やや遅れて大砲の遠鳴りが届いてくる。列車は待避線に入ったまま、午後十時に就寝。ボクは自分の飲み物と食糧を包み隠さず公平に分け与えたことが評価され、リーダー用のふかふかベッドで眠ることを許された。
深夜、砲声を遠くに聞きながら右足を折り曲げたとき、ボクは布団代わりにしていた軍套の中である異変に気づいた。右足のつま先があるはずのない左ふくらはぎに触れたのだ。軍套を払ってマッチをすると、なんてことはない。太ったカエルが軍套にもぐりこみ、グースカ寝ていただけだった。
「ずうずうしいね、まったく。ここは身体欠損者用の車両だよ。見たところ、キミはぶよぶよに太った五対満足のカエルじゃないか」
「ゲコゲコ」
「鳴いてごまかすんじゃないケロ」
丸々太った大きなカエルだ。例の生首と同じくらいの大きさだった。冬眠し損ねたのだろうか? 義足で突っつき、カエルをベッドから追い出すと、カエルは車両の中をぴょんぴょん跳ね出した。
その仕草がとてもかわいらしかった。ボク自身この何ヶ月かぴょんぴょん跳ねて暮らしていた。ボクはカエルと一緒にジャンプせずにはいられない心境に陥り、早速彼の後に続いてぴょんぴょん飛んだ。
カエルは車両から飛び出したので、もちろんボクも飛び出した。そうやって線路から五十メートルほど離れたところで座り込み、貴重なチョコのかけらをなめていると、背後から転轍機を切り替える音が風に流れて聞こえてきた。
機関車がボーッと煙を吐いて動き出す。
「おおーい、待ってケロ。まだボクが乗ってないケロっ」
だが、冷酷な機関車はボクの訴えを汽笛で掻き消し、ゆっくり北のほうへ走り出した。やがて機関車は見えなくなってしまった。
「おいていかれたケロ……」
ボクに残された財産は体に巻きつけた軍套と義足、そして除隊証明書のみ。ポケットを探ると晩に食べたサラミのかけらが見つかった。
「仕方ないケロ。キミと一緒にベルリンを目指すケロ」
「ゲコゲコ」
こうしてカエルとの旅が始まった……と、思いきや百メートルも進まないうちに、こやつが窮地においては友を見捨てる実に卑劣なカエル野郎であったことを思い知らされた。彼奴め、サラミのかけらを一人でパクリとやってから小川に飛び込み、いやらしくゲコゲコ鳴きながら泳ぎ去ってしまった。
カエルとの別れは唐突だったが、悪いことばかりでもない。いつのまにか語尾にくっついていた『ケロ』ともお別れできた。
線路に沿ってずっとぴょんぴょんしているうちに地平線が白んできた。
激戦の跡が徐々にハッキリしてくる。頭や胸を撃たれた歩兵の亡骸が線路の土手に沿って散らばっている。昨日の飲兵衛、今日の戦士、明日の腐乱死体たち。彼らはもれなく愛国者として来週の朝刊に名前を刷ってもらえることになっている。こうして死体のそばをぴょんぴょん跳ねていると、戦死者名簿で活字の穴埋めができた新聞編集者たちの歓声が聞こえてきそうだった。
ぴょんぴょん飛ぶのもいいかげん疲れてきたので義足をはめて歩くことにした。すると、今度は義足のあて木が当たり、切断面がじんじん痛み出す。やはり、慣れない足で歩くには何か支えが必要だと痛感する。松葉杖の代わりになるものはないかなと注意しながら進み、死んだ兵隊の小銃を手にとっては脇にはさんで松葉杖に試してみるのだが、カービン銃は短すぎるし、剣つき鉄砲ではこちらの肩が裂けてしまう。
できることなら少佐以上のユンカーが戦死しているとありがたい。彼らのような軍隊の見栄っ張りたちは、もし戦死するのなら粋人として死のうという心がけで洒落たステッキを持参する。その願いを軍神マルスに叶えてもらい、粋なステッキごとくたばった高級佐官を探して、目を皿のようにした。
「あそこの木陰に倒れてるのは――残念、大尉だ。じゃあ、あっちのは――なんだ、伍長じゃないか。伍長風情がえらく気取った死に方をしてるな」
伍長の体は、半分をオレンジの木から、もう半分をトラクターの上から垂らしていた。
「これじゃあ、ドイツも戦争に負けるわけだね。伍長が格好をつけることに熱心になっちゃいけない。ボクら下っ端はどんな格好で死のうがお構いなしの図太い肝っ玉でいなくちゃいけないんだぜ」
びっこを引きながら、線路を離れる下り坂を歩き、戦場に背を、まだ見えぬ我が家にお腹を向けて進んだ。
通りかかった瓦礫の町で士官テントからチキンを一本ねこばばし、ついでに立てかけてあった狙撃銃も失敬した。崩れた屋敷の門構えで座り込み、がちゃがちゃ弾をぬいていると、先任軍曹に引率された少年兵たちがやってきた。小さな頭に大きな石炭すくい型ヘルメット。まだほっぺたが赤い愛国少年たちである。
ふと自分の足元に目を落とす。
はたから見るとボクの足は化け物に食いつかれ、骨までしゃぶられているように見えた。ボク自身、義足が靴を履いているのか、化け物に食らいつかれているのか、いまいち分からず混乱してしまう。このブーツは、ボクが前線でトッテモトッテモ勇敢に戦っていたころ、燃えないゴミを寄せ集めてつくったのだ。しわくちゃのボール紙から針金が飛び出して牙のようになっていて、雑誌の切り抜きで色づけしたつま先はインクが溶けて、腐った肉に血管が浮き出たような模様をなしている。おまけにさきほど失敬したチキンの食いかけがさしてある。ボクは少年兵たちに目を戻した。
すると、ボクはなぜだか顔に泥を塗りたくって土気色にしてみたくなった。そして、元気のない様子で体を引きずり、「み、水……」とほしくもない水をねだり、少年兵たちの目の前でぶっ倒れてみたくなった。そして、白目をむき、べろを突き出して、ぴくぴく痙攣してみたくなったのだった。
か細い少年兵たちは戦記小説が教えてくれない戦争の哀れな結末をいま始めて目のあたりにしたと見える。「ひー」「きゃー」「おかあさーん」と泣き始めた。軍曹のビンタが薔薇色ほっぺにぶっ放される。
ビンタと泣き声は遠ざかり、やがて前線方面へ出る道に消えていった。
ボクはチリを払いながら悠然と起き上がり、チキンを食みながら瓦礫の町を後にした。
――†――
道路の切れ端と砲弾孔しかない原っぱを歩いていた。
こんな景色ばかり見ているとこりゃいよいよドイツもおしまいだなって気がしてくるのだけれども、これはボクだけの感想だろうか? ドイツがおしまいになったら、世界も一緒におしまいになると吹いてまわっていた愛国心旺盛な連中がいたが、彼らの世界は終わっているだろうか?
「きみはどう思う、アドルフ?」
道の途中で出会ったバイエルン予備歩兵連隊の伍長補にたずねてみた。彼は毒ガスで目をやられていてめくらになっていたので、ボクは手を貸して彼がバイエルンに帰る道の途中まで送ってやっていた。
アドルフは毒ガスで喉もやられていたので声が出なかった。グワッ、グワッ。鵞鳥のようにわめくだけである。
「そうだね、アドルフ」
何を言っているかは分からないが、なんでも賛同しておいたほうがアドルフも寂しくなくていいのではないだろうか。それが人情というものだ。
「その通りだよ、アドルフ」
「グワッ、グワッ」
ようやく鉄道のある町に辿り着くと、兵隊たちが広場に集まっていた。やたらと赤い旗が飾ってあるのが目立つ。
「キールじゃ水兵が士官を叩き殺している!」段上ではピーコートを着た共産主義者のあんちゃんがわめいていた。「同志よ、革命だ。戦争はもう終わりだ。ヴィルヘルムは退位した。兵士や労働者は評議会をつくっている。共和国ができるぞ。さあ、ベルリンに行こう! 新生ドイツ共和国万歳!」
この興奮した兵士たちはベルリンに行くというので、彼らの列車に相乗りさせてもらった。アドルフも一緒だ。バイエルンまで送ってやりたいのはやまやまだが、ボクにも都合ってもんがある。
「そういうわけでベルリンへ行くよ」
「グワッ、グワッ!」
「あはは、うれしいのかい。お礼はボクじゃなくて、あそこでみんなの音頭をとっている共産主義者のあんちゃんにいってやってくれ」
共産主義者のあんちゃんがやってきて、自己紹介した。
「イザーク・アブラモヴィッツだ、よろしく」
ボクは握手した。「やあ、紹介するよ。こっちはアドルフ」
「グワッ、グワッ!」アドルフも大喜びだ。
「彼の苗字は?」
「たしかヒットラーとかヒットレルとか。バイエルン連隊なんだ」
「グワッ、グワッ!」
列車がベルリンに着くまでにインターナショナルが歌われ(ボクも何度か松葉杖で指揮をとった)、ベルリンはボクが四年間聞きなれた音、つまり銃声で兵士たちを迎えてくれた。列車が停まるころにはベルリンじゅうが大砲や機関銃まで出しての大銃撃戦をしていることがわかった。
「エーベルトとノスケが警察を掌握している」弾薬を体じゅうに巻いた共産主義者のあんちゃんがそう言った。「革命の成果をブルジョワジーが横どりしようとしているんだ」
彼らの言っていることの半分も理解できないボクはアドルフを連れて逐電することにした。というのも共産主義者のあんちゃんのしゃべり方が熱が入りすぎて怪しい方向に向かいつつあったからだ。このあぶなっかしい熱は覚えがある。イープルで突撃しろとわめいた大尉殿だ。彼は何重にも鉄条網の巻かれたイギリス軍陣地へ突っ込め突っ込めの一本槍で、ボクらの仲間の一人が後ろ玉を食らわせるまでボクらを挽き肉機にかけようとしていたのだ。それと同じ危うさがこの共産主義者のあんちゃんにも宿り始めていた。そのうち、モーゼル銃を渡して、どこそこの十字路を死守しろとか言いかねない雰囲気だった。
トンズラしたボクとアドルフはK街のおもちゃ屋へ向かった。これが他ならぬボクの我が家だ。砲弾が当たっていなければの話だが。
武装した市民がバリケードをつくり、あちらこちらで警官や退役軍人と銃撃戦を演じている。ガラスに穴があき、道を銃弾が飛び跳ねている。
「グワッ、グワッ、グワッ……ドイツ万歳!」
なんとアドルフが声を取り戻した。ひどいガラガラ声であったけど。
「ドイツ万歳、ドイツ万歳、社会主義者をやっつけろ!」
ボクの腕を振り払ったアドルフはあっちへふらふら、こっちへふらふら、人や街灯にぶつかりながら、硝煙わきおこる人ごみのなかへ消えていった。
――†――
K街の鎧戸を閉ざした我がおもちゃ屋。これがボクの居場所だ。
まだ銃撃戦はつづいているけど、ボクは幸福だ。生きてここに戻れたんだから。
足が一本なくなったけど、ボクは幸福だ。仕事は主に手作業だから。
ここで木を削り、ブリキを張り合わせて、人形や戦艦をつくって暮らしていたのだ。
さっそく鎧戸を開けようとすると、開戦前からのお隣さんミュラー夫人が現れた。
ミュラー夫人はボクの足がないことに気がつかなかった。配給のミルクを受け取りにいかなきゃいけないのに銃弾が飛び交っていて取りにいけないことを嘆いていたのだ。せめて子どもを預かってくれる親切で信頼できる紳士がいれば、わたし一人なら取りにいけるのにと言ったので、ボクはその親切で信頼できる紳士の役をさせていただけないかと申し出た。すると出るわ出るわ。中庭からミュラー夫人の子どもたちがぞろぞろ出てきた。上は五歳の双子から下は乳飲み子まで全部で八人。ミュラー氏は休暇を有効に活用していたらしい。
ボクは待っているあいだ、自分のおもちゃ屋のなかで子どもたちを遊ばせた。素晴らしい光景だ。子どもがきゃっきゃいう音は銃弾がちゅいんちゅいんと目の前を跳ねていく音に似ていないでもないが、ともかく素晴らしい光景だ。
ボクはレジの後ろの椅子に座り、まだ乳飲み子のミュラー嬢を抱いて言った。
「幸せになるんだよ。ボクの左足と青春は戦争にとられちゃったけど、これからは平和の時代がやってくる。いくら戦争好きのドイツ人でも今回の戦争で懲りたはずさ。まだ銃を撃ち足りない連中が騒いでいるけど、すぐにそれもおさまる。きみたちが大人になるころ、世界はずっと平和になる。そうだな、二十年か二十五年後くらいのドイツは今よりずっと平和で豊かなドイツになっているはずだ。そうさ。きみたちは幸せになれるんだ。きっとね」
(了)