満タンになった私
「おはようございます」
私は会社の入り口で快人さんに声をかけた。
「おはよう」
快人さんが微笑んだ。
おおお、笑顔ゲットです。
私は浮かれた気持ちで椅子に座った。
祐子がスススと寄ってくる。
「ちょっとー、大丈夫なのーー?」
「彼女持ちでも、挨拶くらい良いでしょう?」
私は気分よく仕事を始めた。
調子がいい時は、自分でもよく分かる。
指の動きが速いのだ。
キーボードを叩く指先が気持ちいい。
当初の予定より、仕事は早く終わった。
「もう終わったの?」
部長は驚いた表情で、データを確認した。
「じゃあ、快人くんの手伝い出来る?」
部長は視線で奥の会議室を見た。
「はい、わかりました」
私は会議室へ向かった。
中に入ると快人さんが大量の段ボールに囲まれていた。
「綾音……」
快人さんに名前を呼ばれて、キィィィンと頭の奥が痛む。
何だろう、この気持ち、私は知っていて、知らない。
「斉藤、さん」
快人さんが言い直す。
私はやっと息が出来た。
「……これ、全部封筒に入れるんですか?」
私は言った。
「そう……なんだよ、これ全部」
快人さんは段ボールの真ん中に座っている。
その姿がおかしくて、私は小さく笑った。
「やっちゃいましょうか」
「やっちゃいましょう」
私と快人さんは手分けして段ボールを開けて、封筒の中に入れていった。
二人で作業出来るなんて、楽しい。
商店街にあるスーパーに寄る。
エスカレーターにはチラシが貼られていて、何となく見る。
今日の特売はサバ。深雪は何でも食べてくれるから作りがいがある。
作りがいがある。
ちょっと待って。
それだと私は、作りがいが無い人にも食事を作ったことがあるという思考になる。
作りがいが無いひと。何を作っても文句を言う人。知ってるけど知らない。
私はスーパーの真ん中で立ったまま、動けない。
「今日もうちょっと頑張るね」
腕に温かさがあり、振り向くと深雪が居た。
夕方の殺気だったスーパーに立つ深雪は売れ残りのアスパラのように存在感が無い。
「……今日何が食べたい?」
「カレー」
「また?」
苦笑した。何が食べたいかと聞くといつもカレーだ。
「だってカレー好きなんだもん」
「今日サバが特売なんだけど」
「絶対カレー」
もう仕方ないなあ。
笑いながら頭の中でサバカレーを作ってみようと考えた。
それから何度もスーパーで深雪と出会い、カレーを作った。
何が食べたいかと聞くとカレーだった。
駅前にお気に入りの肉屋があって、肉はこのスーパーじゃなくて、そこに行って買っていた。
今日は肉屋に寄ろうかなと考えると、深雪はそこに立っていた。
私はそれについて深く考えない。だって記憶怪獣なのだから。
その肉屋で買う牛すじは絶品で、それを使って出汁を作りカレーを作った。
「プロみたい」
深雪は手を叩いて感動してくれた。
シーフードカレーにチキンカレー。
「辛いのだけはやめてね」
深雪は毎日ぺろりと平らげた。
一番気に入ったのは豚バラで作ったカレーで
「こんな簡単のでいいの?」
と聞く私に
「これ、幼稚園のカレーパーティーで食べたのと同じ味だよ」
と感動して机を叩いて喜んだ。
「幼稚園?!」
と私は思わず叫んだ。
幼稚園なんて、数十年ぶりに口にした言葉だった。
「幼稚園で食べたバーモンドカレー」
あまりに可愛くて、私は思いっきり笑った。
季節は夏から秋になり、私は思いつきで高い自転車を買った。
今まで趣味というものが無くて、ただ「結婚」がして「幸せ」になりたかった。
ずっと誰かと人生を生きることしか考えてなかった。
要するに自分が無かったのだ。
自分が無い私を、誰か愛してくれるはずもない。
とりあえず駅前の自転車屋さんに行き
「会社まで20キロ。毎日自転車で通いたいです!」
と宣言した。
店主は大笑いして、自転車を選んでくれた。
美しい緑色をしたビアンキ。
私はそれにまたがって、まず自宅周辺を走った。
あまりに速く走れるので、調子にのって隣の駅まで行った。
まだまだ行けそうだったので、次の日から会社まで走った。
吹き抜ける風と、抜ける視界。
私は自転車にハマった。
「おはようございます」
自転車は会社の好意で、地下の駐車場に置かせて貰った。
勤続5年、ただ静かに仕事を続けてきた私がビアンキで訪れたのだ。
部長は驚いていたが、喜んで置かせてくれた。
そして自分も高い自転車を持っている……と写真を見せてくれた。
自分で動けけば、世界は変わるのだ。
私はそんなことも知らなかった。
「おはようございます。……なんですか、その格好」
一階で美崎さんと快人さんに会った。
私は自転車で来るのにハマってしまい、会社までジャージ的な物で来て、会社のシャワーを浴びて着替えていた。
「ごめん、見苦しいね。でも会社のシャワーも悪くないよ?」
私はシャワーがあるフロアで下りて、上の会社があるフロアに向かうエレベーターに手を降った。
中で快人さんと美崎さんが手をふる。
仕事の前に汗を書くと、仕事に集中できるなんて知らなかった。
「キャリアアップ……ですか?」
部長に呼ばれた会議室。
私は椅子に座って説明を受けていた。
「そう、斉藤さん最近すごいから。議事録打つのも正確で、総合職に行ってもらうと、それはそれで痛手なんだけど」
そんなこと、考えたことも無かった。
「結婚の予定とか……ある?」
部長が聞く。
結婚。
明日世界が終わるより現実味が無い。
「試験、受けたいです」
私は書類を受け取った。
総合職に合格して、季節は春。
深雪と私はお祝いに、ちょっと高い弁当を買ってお花見に出掛けた。
「でも唐揚げは食べたいの」
深雪は言う。
「カレー味の、ね?」
「ピンポーン!」
深雪は電車の中で、にっこりと微笑んだ。
川沿いにある桜は、私が自転車で走ってる時に見つけたものだ。
駅からは歩くが、一本だけ、美しく咲き誇っていた。
「満開だ」
私はシートを広げた。
「今が一番綺麗だよ。満タンな感じ」
深雪は寝転がって言った。
「ねえ深雪、私は今、満タンかな」
私は言った。
「満タンで、満開」
深雪は目を閉じたまま言った。
深雪の丸くて小さなおでこに桜の花びらが落ちて終わりを知らせた。
もう深雪とはお別れだと気がついていた。
ネコが消えるように、昨日まであった雪の消え残りがいつの間にか消えるように。
甲州街道沿いの何かがいつの間にか消えてきて、工事車両が動いているんだけど、そこに前何があったが思い出せない記憶のように正確に、もう深雪とはお別れだと知っていた。
だって私はもう満タン、満開だ。
車なら今すぐ高速道路に乗れる状態。
お花見弁当のカラ箱を洗いながら、すべて納得していた。
指先にあたる水がもう冷たくない。
もう春なんだ。
お花見を終えた、次の日の朝。
目を覚ます。
隣にはぬくもりが残っていたけど、私は気にしない。
ネコでも居たのだろう。