世界はいつも新しい
朝。いつもの天井に、横には深雪。
「おはよう」
深雪もずっと前から起きていて、私が起きるのを待っていたかのように素早く起き上がった。
「おはよう」
いつも通りの朝ご飯を作り、家を出るときにスペアキーを深雪に渡した。
彼氏ができたら渡そうと思って作ったのだが、一人暮らしを始めて三年、使っていない。
「使ってくれる?」
「もちろん」
深雪はそれを満面の笑みで受け取った。本当に顔中をピカピカの笑顔にして。
駅のホームで髪の毛を直す。
鏡の上に張ってある整体が毎日気になる。
一時間二千円って安くないかな。
でも初めていく整体って怖い。
男の人にあまり触れられたことがないから、あの指の強さに緊張する。
会社に着いて、タイムカードを手に取った。
「おはよう」
後ろから声が追う。快人さんだ。
「おはようございます」
声がうわずった気がして髪の毛を耳にかけた。
大きく後ろに一歩を取ってタイムカード前を開けた。
その隙間に快人さんが入った。
「おは、よう」
快人さんはカードを押して席へ行った。
今日は快人さんと挨拶出来た。
恥ずかしくて目も見られないけど。
入社して三年、ずっと気になってたけど、最近新人ちゃんと付き合いはじめちゃった。
まあ私なんて無理だよね。知ってる。
ずっと彼氏が居ないのに会社で一番格好いい快人さんと付き合えるわけがない。
そんなことが出来るなら、学生時代に彼氏の一人や二人出来たはず。
「あんたは夢ばっかみて、現実の男を見てない」
祐子はずっと言ってたけど、夢見てるのが一番幸せだ。
妄想は私を地獄にたたき落とさない。
マンガや小説は恋愛しても相手の気持ちが書いてるのに、実際は違う。
マニュアルは沢山あるけど、気になる程度の人にどうやって近づけばいいかなんて書いてない。
目の前でペンを落とす?
偶然定食屋で会う?
全部経験あるけど、そこから恋愛に発展などしない。
結局自分が違うのだ。私は私の人生の主人公ではない。
だから私の人生に天国も地獄も無い。あるのは毎日だけだ。
地獄?
地獄と意識すると体が何かを伝えようとする。
足の指先、どこかを蚊にさされたけど、全体がかゆくて、どこかかゆいの分からないような感覚。
もう分からないから、足の指全体を掻くような、そんな理不尽さ。
本当はどこがかゆいのか分からない。血のめぐりが悪いのか、良すぎるのか、関節が気持ち悪い。
「そういうことって、無い?」
「足の指って、蚊にさされるとメッチャ痒いよね」
祐子は箸を振りながら言った
「超わかる!」
「ちょっと、汁!」
祐子が食べているのはうどんで、箸をふると汁が飛んだ。箸の奥に笑顔の祐子が居た。
「どうしたの?」
「元気になってきたな、と思って」
ほんと良かった。祐子はうどんを食べ始めた。
「何いってるの。元気元気だよ」
生姜焼きを掴んで口に入れた。
「……社食の生姜焼きって、辛すぎない?」
慌ててご飯を入れた。
「三年ずっと意見書書いてるのに変わらないね。今日も書いとく?」
ご飯と共に気持ちがはじけた。
私はこの会話を知っている。
この会話を知っているけど、知らない。
ただ祐子とした会話ではないけど、祐子としたのだろう。
だってこの景色に覚えがあるし、知っている。
だからデジャブだ。一度見た世界をもう一度見ている。
「……ん。書く、書いとこ。今日も書いとこ」
おしんこをつまんだ。
今度は味が無い。
ガリガリとした食感だけが脳に伝わる。
味がないのは自分のせいなのか、味付けのせいなのか分からず黙った。
体調が悪い。今日は早く帰って眠ろう。そう決めたら、一気に楽になった。
視界の奥に快人さんが見えた。座っても頭一個抜けてる。なんて簡単に見つけられるんだろう。
後頭部を見ていたらそれが動いて、目が合ったので慌てて会釈した。
快人さんは一瞬で顔を元に戻して、目の前に座る美崎さんと話し始めた。
美崎さんはいつも髪の毛がふわふわに巻かれている。
あれはどうやるのだろう。私の髪は肩の上だけど、ドライヤーで巻いてもすぐに戻る。
整髪料かと思って色々かけたが、美崎さんのようにふわふわしない。
ふわふわした髪にはあこがれる。夏の夕方、風になびくカーテンが美しいように、動くだけで世界を知らせる。
涼しいよ、大丈夫。ちゃんといるから、大丈夫。
「やっぱ美容院かな」
きっとパーマだ。
「お、イメチェンしちゃう?」
祐子がまた箸を振った。
「だから汁!」
人生の主役じゃなくても、美容院は好きだ。
男の人の指に触れられる体験が少ないので、男の人の指にシャンプーしてもらうと、自分の頭が小さくて女だと知れるから嬉しくなってしまう。
新しい美容院を探すのも楽しいかも。
自宅近くの駅で降りて、今まで意識した事なかった美容院を外から覗いた。
こんな所に美容院があったんだ。
何度も横を通っているのに、気が付かなかった。
「切るの?」
振り向くと深雪がいた。
「ここに美容院があるって、知らなかった。この街に五年くらい住んでるのに」
「ね。あそこ」
深雪は、重機が建物を壊している方向を指さした。
シートがかけてあるが、砂埃がたっているのが見える。
「何があったか覚えてる?」
聞かれて悩んだ。
「え……マンションだったかな。一階はお店が入ってたかな。なんだっけ」
深雪は私の瞳を真っ直ぐに覗き込んで言った。
「世界は毎日変わるの。それを毎日忘れてるから、世界はいつも新しい」
「思い出せないもんだね……毎日見てるのに」
「大丈夫。もう綾音は新しい。ニュー綾音だよ」
「新しい?」
「忘れてるって、新しいことを知ることだから」
私はあの場所に何があったかを知らない。
そしてあの場所にできる新しいものを、知ることが出来る。
きっとそういうことだ。
それで救われることも、きっとたくさんある。
「髪の毛、切ろうかな」
私は自分の髪に触れた。
サラリと動いて同意した。
「イイネ!」
私は美容院のドアを押した。
カランと軽い音が、世界の扉を開く。
ドライヤーの熱が首筋を暖める。
人にかけてもらうドライヤーって、どうしてこんなに気持ちよいのだろう。
「知らない匂いがするよ」
深雪は、クンクンと匂いをかいだ。
「髪の毛切った日って、洗っても美容院のシャンプーの香りが残るよね」
美容院の香りと、自宅のシャンプーの香りが混ざって、変な感じ。
でもこの匂いも明日には変わる。
深雪はクスクス笑いながら言った。
「綾音が知らない人みたい。それに短い、早く乾く。可愛い」
「肩より短くしたの、久しぶり。変じゃない? もう三十路なのに」
「三十路にしちゃいけないことってあるの?」
深雪は心底不思議だという表情で私の顔を覗き込んだ。
「……ないわね」
「あるよ。バカな男と付き合うこと」
「ざくり。傷ついた音です」
「よし。今日も記憶食べちゃうよ。綾音なのに綾音じゃないなんて、興奮しちゃう。頭割りたい!」
深雪はドライヤーをソファに置いた。
乾いた髪がサラサラと流れる。
「よし、準備万端、ガオガオ」
深雪は両手を広げて、鬼のようにおどけた。
「お、深雪さん、記憶怪獣っぽいね」
「こんにちわ、記憶怪獣です」
「あははは」
髪の毛と共に、気持ちが軽くなっていく。